第8話「意志と力」
数年前、小さな古書店で偶然手にした一冊の本、「エルダストリー」――その物語の世界に、いま自分は立っている。
それも、物語の主人公と同じ力を与えられて。
「テラっていったな」
「ああ」
「おまえはどうして、おれのことがわかったんだ。『外の世界からやってきた』って、おまえは確かに言った。どうしてそれがわかった」
「今のおまえに答えるのは、難しい質問だ」
「また『時が来たら』とでも言うつもりかよ」
「そう答える他あるまい。説明したところで理解できないだろうからな」
ふざけるなと、一瞬叫び出したい気持ちになる。ただ、目の前の鳥を邪険に扱うことはできなかった。
この世界のことを、そして今の自分の状況を、シンはあまりにも知らなすぎた。
「もし、今おまえの言ったことが本当だったとしたら――おれがもといた世界とは別の、その、エルダストリーって世界にやってきたんだとしたら――これからおれはどうなるんだ」
「だから、さきほどから何度も問うているだろう。『おまえの望みはなんだ』、と。真に意志することがなければ世界がおまえに応えることはない」
「いきなりこんなわけのわからない場所に放り出されて、あんな危ない目に遭わされて、自分が何を望んでるかなんて知るはずないだろ……」
「ならば今すぐにでも己に問いかけてみるべきだろう。これからのち、特に西方諸国は多くの血が流れる時代へと突入していくはずだ。おまえのような存在が意志なきまま彷徨い歩けば要らぬ危険を招き寄せることになるぞ」
「だったら自分を守るための方法を教えてくれよ!」
気づけば、そう叫んでいた。わけのわからないことばかりで発狂しそうだった。
「なぜ、力を求める」
「昨日みたいな目に遭えば誰だってそう思うさ!」
平然と人の命を奪おうとしてくる人間やわけのわからない化け物が徘徊する危険極まりない場所で平然と構えていられるような性格など持ち合わせていなかった。
「おれみたいなただの子供がこんな危ない世界を生きていくためには絶対必要だろ」
「それがおまえの望みか」
「なに?」
「『この世界で生きていくためには』、おまえは確かにそう言った」
「だからそれは、ここがおれのいた場所みたいに安全じゃないから――」
「だとしたらおかしなことだ。なぜ、もといた場所に戻りたいと言わない」
(――そうだ。どうして、真っ先に考えなかった)
テラの言葉に頭を撃ち抜かれたような気がした。昨夜のような出来事を前にすれば、そう思わない方が異常だ。だが、シンの心と頭は、まるで予想外の反応を示した。
「……おれは、もといた場所に戻れるのか」
愕然とした気持ちで言う。
「おまえがそう願えば――真に意志さえすれば叶えられるはずだ」
「意志すればって……それは、例えばおれが家に帰りたいって強く思えばいいってことか? そんなことだけでもとに戻れるって?」
「心から望み、必ずそうするのだと確信するならばな。おまえという存在は――おまえに与えられた力とは、実際そういうものなのだ。だが、おまえは今なお私の目の前に存在し続けている。つまりはおまえがこの地にいることを望んでいる、望んでこの地へ来たということの証明だ」
シンは思い切り首を左右に振った。
「だから、どうやってここへ来たのかすら覚えていないんだよ。おまえはおれが望んで――何かを求めてここへ来たとか言ってるけど、それどころかまったく、なんの記憶もないんだぞ」
「つまりはそれすらもお前が望んだことなのだろう」
「なんだって」
「なればこそ、今のおまえに必要なのは己の中に秘めたる意志だ」
「どういうことだよ」
突然テラが上空へと舞い上がっていく。
「お前は今、何を思う」
空中で旋回するようにしているテラを必死に目で追う。
「心のままに目の前の世界を眺めてみろ。おまえの心は、おまえになんと言っている」
テラの言葉に促され、シンの視線が自然と周囲へと向いた。
秋のような日差しが、どこまでも続く平原を鮮やかに照らしだしていた。空との境界、その緑と青のコントラストは目が痛くなるほど鮮明であり、遠くに見える巨大な山陵は圧倒的なまでの雄大さでもってシンへと迫ってくる。
一陣の風がシンの頬を撫でた。見ているようでまるで見えていなかった壮大な大地を前に、シンはしばらくのあいだその場に立ち尽くした。
そのとき、ぴたりと寄り添うような答えが、頭にふわりと浮かんできた。
以前、夢中になって読んだ物語『エルダストリー』。そのとき、心の底から思ったはずだ。
自分もこの主人公と同じように物語の世界に導かれ、与えられた力によって思うがままに――何もかも自由にいきてゆけたら、と。
けれどそれは、ただの現実逃避でしかないはずだった。
そのことを思うと、いつも鎖でがんじがらめにされたかのような気分になった。
胸の奥に浮かんだいくつかの顔が、まっすぐこちらを見つめてくる。
自分のせいで生活が崩れていったわけではない。むしろそれならあきらめもついたのかもしれない。
自分の力で人生を切り開く機会が与えられないことに、憤りとやるせなさを感じていた。
じわじわと首を絞められていくかのような息苦しさに、窒息しそうになっていた。
「……誰だって妄想のひとつやふたつくらいするはずだろ。なんでおれだけ……こんなことになってるんだよ」
思わず自嘲するような声が漏れた。
何の前触れもなく、こんな唐突に叶えられるなんて。
しかも、いまどき小学生ですら本気ですら考えない、馬鹿げた妄想が。
「なんでなんだよ……」
唖然とした表情のまま、再度周囲に目をやる。
「いくら否定しようと目の前の現実が変わることはない。いい加減己の身に起きたこととして受け入れたらどうだ」
「受け入れて……この世界を、自由に生きていく? 本当に、そんなことができるっていうのか」
「お前が望みさえすれば。すでにそのための力は与えられている」
シンは自分の両手を見つめ、開いたり閉じたりを繰り返した。
いつもと変わらない、変わり映えのしない体があるだけだ。
再びテラを見つめ、首を左右に振りながらため息をつく。
「……あの二人はおれと、なにか関係が?」
落ち着いて考えてみると、昨夜の出来事もシン自身が命の危険に晒されたというわけではなかった。
実際には目の前の鳥に守れながら、ただ突っ立ていてただけだ。だが、ラスティアとレリウスの――あの悲惨な光景を目のあたりにしてしまったことで、まったく関係がないとも思えなくなってしまっていた。
右も左もわからない世界でたった一人放り出されることもなく、面倒まで見てもらっている今、その思いはますます強くなっていた。
なにより自分は、間違いなくラスティアというあの少女のもとへ引き寄せられていた。
「エルダストリーにやって来たのはお前の意志だが、今この地で起きていることはエルダの意志ともいえる。何か意味があるのかもしれんな」
「エルダの意志?」
そうだ、その名は物語の中でも重要な意味を持っていた。
「『光の創造主エルダ。古の昔、この世界を創り出した――』」
思わず、そう口にしていた。エルダストリーの中で事あるごとに引用される一節だった。
昨夜ラスティアとレリウスが口にしていたはずなのに、記憶の中のそれとはまったく結びついていなかった。
「創世記の一節か。共鳴していて気づいたが、なぜかおまえの中にはこの世界に関する知識がところどころ存在しているようだな」
「そのエルダが、おれをあの森に呼び寄せたってことか」
「さあな。創造主の考えなど私にはわからん。ただ、最も大切なのはおまえ自身の意志だということは知っている。かつてこの世界に生きる者は、誰もが自由な存在だった。だが今は違う。あらゆる欲望が入り込み、運命という縛りがヒトを制限している。それを宿命や使命、あるいは呪いと呼ぶ者もいる。だが、異なる世界からやってきたおまえは、唯一この世界に縛られない存在だ」
シンはあらためて上空のテラを見つめ返した。何か、とても大事なことを言われているような気がした。
「おまえは、何を知ってるんだ」
「私は私の望みのために、知るべきことを知り、成すべきことを成す。そのような存在と認識している者だ。おまえに会いに来たことも、話していることも、すべてはそのためだ」
「あ、おい!」
そのまま飛び去ってしまおうとするテラを見て思わず叫ぶ。
「悪いが食事の時間だ」
「食事!?」
「長い時間空を飛び、昨夜はおまえと共鳴までしてしまったからな。糖の補充が必要だ。まあ、そう慌てるな。何事も理解するには、それにふさわしい時と状況というものがあるものだ。もしおまえが必要とするならば力の扱い方も教えよう」
「本当か!」
「その代わり、いま一度問おう」
空中で静止したテラが、太陽を背にシンを真っすぐ見下ろしてくる。
「先ほどおまえが口にした『自由』とはなんだ。おまえはどのような意志のもと、この地を歩んでいこうとしている。私にとってはそれこそが重要だ」
(自由……意志……)
逆光に目を細めながらテラの言葉を反芻するが、頭に浮かんでくるのは言葉にならない疑問だらけだった。
自然とラスティアとレリウスの眠る荷台へと目が向く。
「何も考えられない。今はあの二人についていくことくらいしか—―」
「なるほど、よくわかった」
テラが両の翼を大きく羽ばたかせ、空へと舞い上がっていく。
「わかった? 何がだよ!」
「自由になどと言っておきながら、おまえには己の意志というものがまるでない、ということがだ。せっかく与えられた力も、人間たちのいう“宝の持ち腐れされ”というやつだ。なればこそ、かならず伝えよう」
「伝える?」
「唯一無二のその力、その扱い方をな。おまえは危うくてかなわん」
その言葉を最後に、テラはシンが見守るなか深い森の中へと消えていった。