第33話「シン対ローグ」
「……シン?」
うしろから、ラスティアのかすれた声が聞こえた。
「……なんか、ギリギリな感じでごめん」
シンがローグの片腕を抑えつけながら言った。
「こんな展開になるとか、思ってなくて」
ラスティアが一人になったときを見計らって声をかけよう。最初シンはそう考えていた。だが、その口から語られた話は、自分が今ここにいる目的はおろか、息を吐くことすら忘れさせた。
水上宮の奥深くで待ち受けていたのは、シンが予想していたような照れくさい再会などではなかった。
自分などには想像もつかない、あまりにも凄惨な、ラスティアの過去だった。
「どうして――」
「盗み聞きするつもりは、なかったんだ……ただ、君に会いに来ただけで」
シンは振り向くことなく言った。さまざまな感情が胸の中でごちゃまぜになり、どんな顔をすればいいかわからなかった。
「止められた……?」
先ほどの獣じみた様子とは明らかに違う。もとの様子を取り戻したローグが、驚愕の表情でシンを見つめる。よほど衝撃を受けたのか、片腕を突き出したまま彫像のように固まっている。
そんななかシンは、自分が驚くほど冷静でいることに気づいた。ローグにラスティアを傷つけさせないよう、確実に力でもって抑えつける。
「貴様、何者だ」
そんなことは、いくら尋ねられても答えようがないと思っていた。
もといた世界ですら何者でもなかった自分が語れるようなことなど何一つとしてなかった。
突然こんな世界に放り込まれ、成り行きに身をまかせるようにしてここまでやってきた。
だが、こうしてローグの前に立ち塞がったのは間違いなく自分の意志だった。
「答えろ!」
「おれは、ラスティア王女のパレスガード……みたいなものです」
ラスティアの顔を見て言ってのけるほどの勇気はもてなかった。ただ、過去にラスティアを苦しめ、いま確かに彼女を殺そうとしていた相手を睨みつけてやるだけの覚悟はあった。
「そう、この少年が、あなたの盾というわけね」
リザがいくばか冷静さを取り戻したような声で言った。
「一人で私たちを呼び出すななんて不用心にもほどがあると思っていたけれど、身の危険を回避するだけの手立ては用意していたということね。こうなってしまった以上後には引けないわ――ローグ!」
そうリザが叫んだ瞬間、ローグの瞳が再び赤く輝き、その内からさらなるエーテルが湧き出てくる。
抑えつけていたはずのローグの片腕に再び力が宿り、シンの胸元へ迫ろうとする。伸ばされた腕には、その瞳と同じ輝きを放っていた。だが、先ほどの禍々しいまでに暴力的なエーテルは見る影もなくなっていた。
それでも、纏っているエーテルを解いてしまえば自分はもちろん、うしろにいるラスティアさえ容易く貫いてしまうだけの圧は十分感じ取れた。
だからこそシンは、どうしようもなく込み上げてくる感情を抑えることができなかった。
こんなものを、この人に向けたのか。
シンの周囲でエーテルが激しく渦巻く。同時にシンの指がローグの腕に激しく食い込んだ。
「があっ!」
ローグの顔が苦痛に歪む。
「悪いけど、あなたには負けるが気がしない。おれの纏うエーテルの方が遥かに上だから」
「馬鹿な、そんなはずは! いくらあの方がいないとはいえこの俺が」
傍から見れば、シンとローグは互いに片腕を封じるようにして固まっているようにしかみえない。だが実際は、ローグの内から発現されている赤きエーテルと、シンの周囲を渦巻くエーテルが激しくせめぎ合っているのだった。
それはまるで、力比べの様相を呈するかのようだった。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉ――」
さらにエーテルを絞り出そうというのか、ローグが腹の底から吐き出すような唸り声をあげる。
対照的にシンは、相手の姿とそのエーテルをつぶさに観察し、いま自分にできることをじっと考えていた。
(こんな大量のエーテルを纏った状態で手を出したりなんかしたら、たぶんおれは、この人を殺してしまう。かといってこのまま抑えつけているわけには――)
この力最大の弱点は、テラの言う糖の枯渇にある。今のところまだ体の変調は感じられないが、いつこの前のように意識を失ってしまうかわからない。
自分はいったいどれほどのエーテルを呼び寄せ、扱うことができるのか、シンは測りかねていた。というより、まったく把握できていなかった。
今この瞬間もいつ限界がきてしまうかわからない。そうなれば自分はもちろん、ラスティアの命も危うくなってしまう。だからといって目の前の相手の命を奪ってしまうようなことはできない。いくら別世界での出来事とはいえ、自分には到底考えられないことだった。
どうする……!
必死の形相でエーテルを発現させていくローグと正対しながら、シンははじめてラスティアを振り返った。
立ち尽くすようにしながらも、食い入るようにこちらを見つめてくるラスティアの翡翠の瞳が、シンの視線と重なる。
(……時に仲間と呼べる人もいてくれたけど――一瞬のうちに失ってしまった)
以前見聞きしたラスティアの言葉が、そのときの姿が、シンの脳裏によみがえる。
(私には――ひとりも友人と呼べる人がいないから)
(――用もないのになぜ創った……なぜ私をこの世に送り出した!)
(また私は、何もできず、こんな——)
(でもお願い……もしあなたに何かできるなら、そんな力があなたにあるなら、ここにいる人たちをたすけて……)
――器を宿さない、持たざる者……この世界では、エーテルこそが力……だけどラスティアは……
(——そうだ。本当なら、この力は、君みたいな人に)
前を向き、再びローグへと視線を向ける。
激しく食いしばるようにしていたローグの表情が目に見えて引きつった。それは恐怖という感情以外のなにものでもなかった。
シンの漆黒の瞳が、根源色へと輝いていた。
「――こい」
シンの口からその言葉が発せられた次の瞬間。あたり一帯のエーテルが、これまでとは比較にならないほどすさまじい勢いでシンの元へ集約しはじめた。
それはさながら台風のような有様であり、シン以外の存在を認めないかのような暴力性でもって吹き荒れはじめた。
ローグは相対するどころか、もはや立っていることすらできずその場にひざまずき、その場に留まるのがやっとのようだった。
エーテライザーでもないラスティアとリザはその身を壁に預け、膨大なまでのエーテルの圧に吹き飛ばされそうになるのを必死に耐えていた。
シンが呼び寄せ、集約させたエーテルはやがてその行き先を天へと向け、夜明けの近づいた空を貫いていった。
それは突如としてエルダストリーの大地に築かれた緑色の淡き輝きを放つ光の柱となり、天を貫いた。
「引いてください。おれとあなたとの差が、これでわかったでしょう」
シンがローグを見下ろしながら言った。
「まさか、まさかそんな……」
だがそんなシンの言葉も、今のローグの耳にはまるで届いていないようだった。
「こんな大量のエーテルが……それに根源色などと、これではまるで——」
「ローグ!」リザが片手で身を支えながら叫ぶ。「一旦この場は収めなさい!」
「し、しかしこれは……この者は」
ローグの視線がシンとリザの間を行ったり来たりしながら大きく揺らぐ。
「ラスティア王女!」さらにリザが叫ぶ。「今度は私の方から機会を設けます。先ほど話していたことについては――それに、此度のことについても、ひとまずは互いに沈黙を守ることとしましょう!」
リザの言葉にラスティアは一瞬厳しい表情を浮かべたが、やがって強くうなずいて見せた。
シンはそのやりとりを見届けると、安堵のため息をついた。目的を果たしたせいか、エーテルを呼び集めるというシンの意志も消失し、これまでの光景が嘘だったかのようにエーテルが霧散した。
「今の騒ぎでさすがに人が集まって来る。あなたたちもすぐ立ち去った方がいいわ」
リザはそう捨て置くと、いまだ足元がおぼつかないローグを引き連れ部屋を後にする。
シンはいつまでも自分から目を離そうとしないローグから、どこか尋常ではない様子を感じとり激しく胸をざわつかせた。
だが、それもラスティアに手を握られるまでのことだった。
「シン、私たちも」
驚いて振り向くシンにラスティアが言った。そのままシンを強くひっぱるようにして歩き出し、リザたちとは反対側の出口へと向かう。
外には夜明けの空が顔を出し、辺りは何事もなかったかのような平穏さを取り戻していた――というわけにはいかないようだった。
今になってシンは、大勢の人がこちらへ向かって動き出している気配を、そのエーテルを感知しはじめた。
そもそもここは、アインズの中枢、リヴェラ水上宮の中だ。いくらその外れにあるとはいえ、今のような騒ぎを起こしておいて気づかれないでいる方が異常だ。
ラスティアに手を握られ、どんどん先をゆくその背中を見つめながら、黙々と歩く。
(……どうして、何も言ってくれないんだろう)
前をいく少女はいま、なにを考えているのか。どんな感情を抱いているのか。想像することすらできず何も口にだせない。
ラスティアの足取りに迷いはなく、誰にも見咎められないまま王宮内を抜けていくと、やがて高い生垣に囲まれた場所に小さな扉が見えた。
ラスティアがためらうことなく扉を開くと、中はさまざまな草木や花々が咲き乱れる小さな花園のようになっていた。
シンの鼻に朝露に濡れた花たちの甘い香りが漂ってくる。しかしそんな香りも、突如として抱き着かれたラスティアからただよう芳香には到底かなわなかった。
「ありがとう、シン」
あえぐような声をあげ固まってしまったシンだったが、ラスティアの肩が小さく震えていることに気づき、おずおずと――できる限りそっと、両手を添えた。
この人を守れという内なる叫びが、その意志こそが、ローグの攻撃を間一髪防げた理由に他ならなかった。
「間に合ってよかった」
シンがいま言えるただひとつの――心からの言葉だった。




