第28話「ラスティアの過去―仇敵編③」
演説を終えたレクストは、祭壇から降りたあとも大勢の若者たちから手荒い歓迎と抱擁を受けていた。しかしその視界にラスティアの姿をとらえると、仲間たちをかき分け、まっすぐこちらへ向かってきたのだった。
「遅かったじゃないか、もう来ないのかと思ってたよ」
ごめんなさい。そうラスティアが言うよりも早く、エバが口を挟んだ。
「ずいぶん格好いいこと言ってたみたいだけど、目ではラスティアばかり探してたんじゃない?」
「そんなわけないだろ」
レクストが憮然とした表情をする。
「ほんとぉ? 少しくらいやましい気持ちもあったでしょ」
「そうそう、私たちとは何から何まで違うからねラスティアは」
「あまりやましい気持ちであたしたちの恩人に近づかないでほしいのよね」
ラスティアのまわりに集まってきた少女たちが口々に言う。
「恩人だなんて、いつまでもそんな――」
ラスティアの言葉をエバが片手をあげて制す。
「大丈夫、変に近づいてこようとする兄を止めたいだけだから」
「妹よ、それは余計な心配というものだ」レクストが厳めしい表情を浮かべながら言う。「ラスティアに手を出せるような人間はここにいないからな。逆に叩きのめされるのが落ちだ」
半年前。サイオスのもとを去ってからというもの、ラスティアは夢遊病者のようにディスタの街中を歩き回っていた。
ロウェイン家の人間でありながら、何をするでもなく漫然と城館で過ごす日々は、到底耐えられるものではなかった。誰にも、何一つ責められることはなかったが、周囲の人間たちからどのような目で見られ、何を思われているか。そのことを想像するだけで叫び出したくなる気持ちになった。
だから、ひとり城館を抜け出し、ひたすら歩いた。当然、目的があるわけではなかった。人々の暮らしも、その喧噪も、見聞きはしていても何の記憶にも残らなかった。
完全に陽が落ちると、誰の目にも留まらぬよう自室に戻り、やがておとずれる眠りをひたすら待ち続けた。そしてごく短い眠りのあとは、まだ陽も登らぬうちに城館を抜け出し、また歩き始めるのだ。
エバたちと出会ったのは、そんな日々のことだった。
エバは仲間の少女たちと共に、年相応の好奇心を満たそうと上層へと冒険しに来ていた。だが、兄の目を掻い潜ってまで目にした世界は、彼女たちにとってあまりにも残酷なものだった。
下層と上層を繋ぐ昇降機は、核晄炉に降りていくものを除くと、行政区や商業区、居住区といった区域からは遠く離れた「離外区」にしか存在しない。運の悪いことにそこは上層の住民たちにとっての吹き溜まりのような場所になっており、法の秩序からは完全に切り離されてた。
たとえ命を奪われたとしても、一歩でも「離外」へ踏み込んだ者が悪い。ディスタで暮らす人々にとっては一般常識ですらあった。守護隊ですら端から匙を投げだすような場所だった。
今こうしてエバたちの笑顔を前にしてなお、ラスティアは思わずにはいられない。あの日あの場所に居合わすことができたのは――エバたちを助けることはできたのは、確かに幸運だった。だが自分は、果たして間に合ったと言えるのだろうか、と。
誰の目も届かない、たとえ目の前で何が起きていようと誰一人として助けようともしない、あの薄暗い路地裏で、男たちに身につけていたものすべてを剥ぎ取られ、虚無のような瞳でこちらを見つめていた彼女たちを思い出す。
強姦していた男たちを退け、エバたちをレクストのもとへ送り届けた際、妹たちを目のあたりにしたレクストの顔と姿を、ラスティアは生涯忘れないだろうと思った。いかに自分が恵まれた境遇にいたかを思い知った。
そして、こんな自分にでも救える人々がいるということを。今はそれだけが、ラスティアの存在を確かなものにしてくれていた。
あなたたちに協力したい。すべての素性を明かしたうえで、そうレクストに申し出たとき、レクストはラスティアの手を強く握り締め、言った。
(君がどこの誰かなんて関係ない。俺たちの志に賛同し、共に戦ってくるれるなら、今日から君は俺たちの仲間だ――)
「ラスティア、俺たちと一緒にプトレマイオス大広場に行こう」
そのときと同じ顔、同じ声、同じ意志でもってレクストは言った。
「そして、アレフの一員として声を上げて欲しいんだ――君は俺たちに希望をくれた。下層のごみ溜めで暮らす俺たちを見捨てないどころか、命がけで守ってくれる人がいる。なにより、一人の人間として見てくれる人がいる。そのことを、君が教えてくれた」
レクストは後ろを振り返り、大勢の若者たちに目をやる。
「まだ同世代のやつらしか説得することができていないけど、今日という日を堺に仲間はもっと増えていくはずだ。だから――」
「私の方こそ」ラスティアは最後まで言わせなかった。「あなたたちのおかげで、救われたの」
何を言われているかわからなかったのか。レクストは一瞬困惑した表情を浮かべたが、ラスティアの微笑を前に顔を火照らせ、頭を掻いた。
その様子を、エバが気恥ずかしいような、どこか誇らしいような様子で見守っていた。
「おい、レクスト。本当に武器はいらないんだな」
アレフの幹部であるジョールがレクストに声をかける。
「ああ、みんなもそれだけは絶対守ってくれ」レクストが全員に呼び掛ける。「上の連中に、俺たちの目的をはき違えられてはだめだ。俺たちがやろうとしていることはただひとつ、大観衆の前でディスタの議長様に大きな一声を浴びせかけることだ。毎年開放祭には護国卿も出席しているから、守護隊もそうそう手荒な真似は出来ない。俺は必ずこの機会を活かし、議長に対し下民の保護を約束させる。最低でも、そのための話し合いの場を設けるよう言質をとってみせる!」
若者たちの間から再び歓声が上がった。
その様子を眺めていたラスティアに近づいてくる人物がいた。
「まさか、本当に来るとは思わなかった。素晴らしいすぎるご家族様方にはなんと言ってきたんだ?」
ジョールがラスティアの耳元でささやいた。
「特には。最初から何も話すつもりはなかったから」
「お父上である偉大なる護国卿に俺たちの現状を伝えてくれると、これほど大掛かりかつ余計な手間をかけなくても済むんだがな」
「私ごときが直訴しても何も変わらないでしょうね」ラスティアは断言した。「大きく事を動かすとしたら、レクストが言うように大観衆の前で私たちの意志をみせつけるしかない」
ディスタ議長はもちろん、各国の有力者や大勢の王族貴族たちが集まる前で、堂々と下層の現実を突きつける。そうすれば、エルダストリーの守護者にして調停者を謳うアーゼムは――その代表である父は、レクストの訴えを無視することができない。そんなことをすれば西方諸国におけるアーゼムの存在意義を真っ向から否定することになってしまう。
「あなただってわかっているでしょう」
「もちろん、俺たちがこれからやろうとしていることを否定しているわけじゃない」ジョールは薄い笑みを浮かべながら続ける。「ただ、ロウェイン家の人間ともあろうものが、これほど使えないとは思ってもみなかったんだ」
アレフの一部の者たちが、自分を快く思っていないことは気づいていた。「おまえのような人間に、自分たちの何がわかる」口には出さなくとも、そのような姿勢や態度は伝わるものだ。彼らがラスティアを追い出そうとしなかったのは、ラスティアがエバたちを救ったという紛れもない事実と、アレフの指導者であるレクストがラスティアを認めてくれていたからだろう。
「私も、自分の力不足を実感しているところなの」
ラスティアは静かな口調で答えた。ジョールはふんと鼻を鳴らしただけで、それ以上は何も言ってこなかった。
「二人とも、不安が顔ににじみ出てるぞ」
二人のやりとりを知ってか知らずか、笑顔のレクストが二人の肩に両腕を回した。
「大丈夫、きっとすべてうまくいくさ。なんといっても俺は、がきのころにエルダその人から天啓を受けた人間なんだからな」
レクストは背後のエルダ像を見上げながら言った。皆の視線も自然とそちらへと向くが、全員がやれやれといった様子の笑みを浮かべている。
「まーたその話?」
エバも呆れたような声をあげた。
「夢だったのか現実だったのかはわからない。けど、そのときの言葉は今もはっきりと覚えてる。『心のおもむくままに生きなさい。あなたの行動こそが、エルダストリーの運命を導いているのだから』ってな。いつも俺の胸にはその言葉があった。集会場にエルダ聖堂を選んだのもそのためだ。俺たちの意志は、きっとエルダに届いてる。彼女が俺たちを導いてくれる」
「なんだか嘘くさいんだよねえ」
エバは疑い深そうな表情を崩さない。
「レクストにとっては真実なのよ」
ラスティアは笑いながらエバをいさめた。すでに三回以上は聞いた話だったが、レクストが嘘を言っているとは今まで一度たりとも思ったことはなかった。むしろ、その信念こそがレクストをレクストたらしめているとさえ考えていた。
「でもさ、私たちずっと一緒に育ったんだよ? それなのに私だけ聞こえないなんておかしいじゃない?」
「だから、絶対大丈夫さ」
エバの言葉など聞こえていないかのように、レクストは輝いて見える瞳をエルダ像に向けたまま力強くうなずいた。
「俺は自分が何のために生まれてきたか、何を成すべきかを知っている。今回のことも、別に施しを与えて欲しいがためのことなんかじゃない。俺はただ……どんな境遇にあろうと自らの意志次第で自由に歩んでゆける、そんな世界を創りたいんだよ」
いつも前を見据え、決して弱音を吐かず、周囲の人々に自信と勇気を与える。レクスト・フォレスターとはそういう人間だった。少なくともラスティアの目にはそう映っていた。
この人のために—――いや、この人のように生きたい。心からそう思った。そしてそれは、ラスティアだけのことではなかった。
「やってやろうぜ」
「ああ、俺たちの声をパーヴァスや上の連中に届けよう」
エレフの若者たちが口々に言い合う。
「確認するぞ」ジョールが言った。「解放祭の夜、開始の鐘を合図に全員が上に出る。目指すはもちろんプトレマイオス大広場だ。レクストが演説台に登るまでのあいだ、押し寄せてくる守護隊からレクストを守るのが俺たちの役目だ。そのためには、なるべく全員が広場に集結している必要がある。なるべく目立たず、人混みに紛れろ。間違えても今の格好のまま上に出るような馬鹿げた真似はするなよ――ただでさえ俺たちは臭う」
ジョールの最後の言葉には、皆が笑った。
「女もいることを忘れないで欲しいわね」
何人もの少女たちが一斉に声をあげた。エバが二、三度深くうなずき、ジョールは肩をすくめてレクストに場を譲った。
「さあ、決行だ。みんな、用意した服に着替えるのを忘れるな――」
レクストが笑いながら言いかけた、そのとき。
聖堂の入り口から見知らぬ一団が次々と押し入り、アレフの若者たちを強引に押しのけるようにしながら整然と隊列を組みだしたのだった。
若者たちの顔に、困惑と動揺が入り混じったような表情が浮かぶ。
あまりにも異様な光景を前に、アレフの集会場は一瞬にして静まり返っていた。




