第23話「水上宮の侵入者」
本当に、あんなところに忍び込むのか。
レリウスの館の屋根に登っていたシンは、いたるところで焚かれている城内の篝火の明かりをその黒い瞳に反射させながらごくりと唾を呑んだ。
すでに時刻は深夜に近い。王の住まう王宮はもとより、広大な城内を動きまわっているのは夜警の兵士たちだろう。ざっと感知してみただけでも、途中で数えるのが嫌になるほどの人数がひしめいていた。
ときおり冷気を孕んだ夜風が吹き抜けていく。しかしそんなこととは関係なしに、先ほどからシンの体は定期的に強い震えに襲われていた。
恐い、という感情は確かにあった。だが、初めて本格的に自分の力を試すのだという高揚感も、そこには確かに混じっていた。なにより、上手くいけば久しぶりにラスティアと会って話すことができるかもしれないという期待感も募り、静かに佇んでいるといったことができなかった。
「まあ、誰かに発見されたら引き返してこればいいだけのことだ。とにかくやってみろ、一応私もついていってやる」
テラが宙を舞いながら言った。
無言でうなずくと、周囲の根源を全身に纏うようイメージした。
すぐに緑色の輝きが薄い膜のように全身を包み込んでいくのがわかった。
一度実践できるとあたかも当然のようにできてしまうことに最初シンは驚きを隠せなかった。テラ曰く、シンが想像し、明確に意志することさえできればエーテルはどのようなことにも応えるのだという。そう言われると何でもできるような気がしてしまうが、イメージすることはともかく、意志するいうことが恐ろしく難解だったのだ。
こうなったらいいなと頭の中で思い浮かべることはできても、「実在する」あるいは「実現させる」と当然のように思い込むことは生半可なことではないからだ。いわば「真実だと確信する」くらいのことができなければ発現させることができない。ほとんど記憶にないが、ザナトスで雪の嵐を出現させたのも、今考えると奇跡に近い行為だった。
実際あれ以来、目の前に何かを出現させるといったことは一度たりとも成功していない。テラが〈セレマ〉と呼ぶシンの力の本質を、シン自身はまったくといっていいほど使いこなすことができていなかった。
「おまえが空を飛べさえすれば、もっと話は簡単なんだがな」
「ごめん、さすがに無理。どうやればいいか全然わからない」
言いながら、準備運動のように軽く飛び上がってみる。まるでトランポリンの上にいるかのような勢いで上空へと舞い上がり、月が隠れた夜空の中くるくると回転しながら着地する。
やはり、とてつもなく高揚してしまう。当然だ。もといた世界ではオリンピック選手ですらできないような動きが、頭の中で思い描くだけで実践できてしまうのだから。
エーテルを纏いさえすれば、ヘルミッドやベイルのように常人には到底不可能な動きができる。これは肉体を強化している印象だが、剣などの物質にエーテルを纏わせればそれすらとてつもない威力を発揮する。
「まずはラスティアの部屋を探さないと。おまえ、知ってる?」
武者震いのせいで、言葉にもその力みが伝わってしまう。
「なんのためにこんなことをしていると思ってる。あの娘のエーテルを感知して自分で突き止めてみろ」
「いや、さすがにラスティアは難しいよ。エーテライザーでもない人間のエーテルは見分け? がつかないんだ」
「そんなことはない。一人として同じ外見をもつ者がいないように、エーテルもまた宿す人間によって輝き方や強さも異なる。アーゼムと呼ばれる者たちは己の目など使わなくとも何人をも見分ける術をもつからな」
「少なくとも今の俺には無理だよ」
「だからこその修練だ。あの娘のエーテルに気づけるまで集中して感知し続けろ」
「その前に見つかって追いかけまわされたりしなければいいけど……」
「今のおまえが全力で逃げれば追ってこられる者がいるとも思えんが。やっかいなのは何といってもエーテライザーだろう。アインズの中枢ともなればパレスガード以外にも多くのエーテライザーが守りを固めているはずだ。だがまあ、まずは夜警の兵に見つからないようにすればいい。瞳にエーテルを集約させるのを忘れるな、兵どもの視線や動きを先読みするんだ」
「わかってる」
王宮の最奥を見つめながらうなずくと、シンは両足に力を込めた。
今までは地面の上でいろいろな動きを試してはいたが、このような高所を飛び跳ねながら移動するのはさすがに初めての経験だった。
鼓動がこれ以上ないくらい早まっているのを感じる。最初はなんて馬鹿げたことを、と思わないでもなかったが、今は自分の力を試し、ラスティアに会いたい気持ちがシンを後押ししていた。
深く息を吸い込み、一度目を閉じる。
大丈夫だ、やれる。そう強く自分に言い聞かせると、鋭く息を吐き、シンは飛んだ。
胃の底が持ち上がるのような感覚とともに、レリウスの館からまた別の誰かの館の屋根へと着地する。
飛び移る途中、遥か下を明かりを手にした二人組の兵士が歩いているのが見えてヒヤリとしたが、まさか頭上を飛び跳ねていく人間がいるとは夢にも思っていないはずだった。
一度成功したことで、緊張と不安が一気に和らいだ。今度は走りながら隣の屋根へと飛び移り、そのまま立ち止まることなく王宮へと近づいていく。
そのままひと際高い建物の屋根にある鐘楼にたどり着くと、身を隠すようにして足を止め、前方を遮る巨大な城門へと目をやった。
レリウスたちの城館があるのは城壁の外側であり、ラスティアがいると思われる王宮はその内側に位置している。
昼間は大勢の人間が出入りしているはずの城門も、夜が更けた今近づこうとする者は一人としていない。何人もの兵士が城門のいたるところで目を光らせている。おそらく緊急の伝令でもなければ通過するのは不可能だろう。
「飛び跳ねていくだけではここから先は進めないようだぞ」
テラがシンの頭上を回旋しながら言う。
「わかってる。城門の外側と内側とじゃ見張りの数が段違いだ」
エーテルを張り巡らすようにしながら感知の輪を広げていくと、いたるところに兵の存在が感じられた。
「それに、あきらかにエーテライザーだと思う人間が複数、いる」
「気をつけろ。アーゼム並の感知能力をもっている者がいるとは思えんが、無暗にエーテルを引きつけてしまうとさすがに気付かれるやもしれん。纏うエーテルは最小限に留めろ。それに、おまえにはどうにもならん唯一といっていい弱点がある、前に教えただろう」
「わかってる、糖の枯渇だろ」
以前ザナトスで意識を失ったあと、テラから言われた話を思い出す。
「そうだ。セレマを発現させるようなことをしなければ一気に枯渇するようなことはないが、エーテルを纏っているだけでもグルは消耗し続けていく。今のおまえのように想像することも意志することも不慣れな場合、さらに消耗が激しい。枯渇すればエーテルを扱えないどころか、命すら危うくなる。それだけはなんとしても回避しろ」
「空腹を感じたり、めまいがしたらマズイんだよな」
「ああ。無理をせずとにかく一旦引くことだ」
「引くもなにも、あんなところどうやって超えてけばいいんだよ……」
城壁の上にもむろん通路が設けてあり、何人もの兵が篝火を掲げながら行ったり来たりを繰り返している。さすがにこの暗闇のなか鐘楼の陰に隠れているシンを見つけることは難しいとは思うが、大声で叫べば簡単に聞こえてしまうほどの距離だ。今ままでのように飛び越えていこうとすればさすがに発見されてしまう。
「だからこそいい修練になるというものだ。今の状況と自分に何ができるを照らし合わせ、どうすればいいか考えを巡らせろ」
「えぇ……」
今の状況と言われても、とんでもないことを仕出かしているとしか思えないし、自分に何ができるかといえば、人の何倍もの身体能力を発揮できるようになったことくらいだ。
シンにとっては十分ありがたい――いったい何がどうなってそうなったかはわからないけれど――恩恵ではあったが、屈強な兵士たちが守る広大な王宮内に忍び込むとなると、どうしても心許ない気持ちになってしまう。
「もう何回も同じこと言ってきたけどさ、おれホント、一介の学生でしかなかったんだって。わかる? 人と争うとか、危険なこととか、まったく関係のない世界で生きてきたんだよ。こんなでかい城どころか隣の家に忍び込んだことすらないの。頼むからそのつもりでおれに助言してくれ」
「なるほど、私が考えている以上におまえは無能だというわけか」
「そうだよ、まったくその通りだよ」
「まったく、今までのとはえらい違いだ……」
「なんだって?」
「なんでもない――あの兵どもを別の方向に陽動してしまえばいいだろう。足元の屋根の一部を引き剝がして城壁の反対側にでも放り込んでやれ。それなりの物音がすれば見張りの意識もそちらへ向くだろう」
「それくらいだったらできる、かな」
シンは少しの間考え、うなずいた。
昼間も河原の小石を狙ったところに命中させる練習をしていたばかりだ。
フェイルがザナトスの塔の上でベイルの手首を狙い打ちした技を見て、真似するように始めたことだった。後で聞いたところ、フェイルは常に投擲用の鉛を隠し持っていて、それなりの距離であれば十中八九命中させることができるのだという。
仮に誰かと相対しなければならなくなったとしても、武器を使ったり直接拳で殴り合ったりするよりよほど自分に合っているような気がした。
加減を誤れば直接殴るよりヤバイ結果になりそうだけど……。
テラに言われたとおり、天然石できた薄い屋根の一部を何枚か引き剥がしてみる。エーテルを纏っていなければ両手で持っても相当の重量がありそうだった。
河原の小石と違い多少勝手は違ったが、だいたいでいいなら狙ったところに放り投げられそうな気がした。
「兵たちの気がそれたら一気に城壁を超えて下に降りろ。いくら城内とはいえ闇に紛れてしまえばひとまず身を隠せるだろう」
「わかった」
息を呑むように頷くと、兵たちのいない場所へ、なるべく上に向かって放り投げた。
夜気を切り裂くようにして打ちあがった固まりは、しばらく後、思わずシンが身を縮めてしまうほど大きな物音をあげながら城壁の一部へと落下した。
「なんだ今の音は!?」
「急げ、他の見張りをかき集めろ!」
複数の兵たちの声と、警笛のような音が鳴り響きだす。
想像以上の騒ぎに怖気づいていたシンだったが、「行け!」というテラの声に背中を叩かれ、一気に城壁へと飛び上がった。
想定通り、兵たちの意識はシンたちとはまるで反対方向へと向いていた。シンが城壁を走り抜け、飛び降りた後になっても誰一人としてその動きを視界に留めた者はいなかった。
王宮の敷地内に降り立ち、水面に映る見目麗しきリヴァラ水上宮を目前にしたとき、シンは自分でも驚くほど容易にラスティアの気配を感じとっていることに気づいた。
体の震えは、いつの間にか止まっていた。




