第16話「大いなる水の都」
その街はまるで、湖の上に浮かんでいるように見えた。
実際には河川の間の陸地になっている場所や湖の上に架けられた広大な橋の上に築かれたのだと説明されていたが、初めて目にしたとき、シンには到底信じられなかった。
二体の巨大な竜が刻まれたオルタナの外門を見上げるようにして潜りぬけていくと、いくつもの河川を行き交う多くの船と異国情緒あふれる街並みが目いっぱに広がっていた。
かなりの賑わいをみせていたザナトスでさえ、所詮いち地方都市に過ぎなかったのだと思えてしまうほど大勢の人々と喧騒とがシンたち一向を出迎えた。
秋晴れの陽の光を反射させる湖面や川面が街全体をキラキラと輝かせ、温暖な地域特有の色鮮やかな花や樹木とあいまって絵画の中の街並みのように見えた。
そんななか、先頭を行くラスティアを乗せた馬車が、長い隊列を組んで現れた王宮の騎士と家臣たちに出迎えられた。
ラスティアが馬車の中から姿を見せると、彼らは一斉に跪き、首を垂れた。が、次にその顔を見上げたときには、まるで石像にでもされてしまったかのように動かなくなってしまった。
先日アルゴード城の聖堂で行われた謁見と同じ蒼い祭服を着こんだラスティアは、神々しいばかりの美しさと高潔さでもって人々の前に現れ、その翡翠の瞳をまっすぐ目の前の男に向けた。
「この度アインズ王室に迎え入れられることとなりました、ラスティア・ロウェインです。出迎え、とても嬉しく思います」
沿道の両側には噂を聞きつけ駆けつけたオルタナの住人たちがひしめいていた。しかし、その全員が一瞬時が止まったかのように静まり返り、そして――爆発した。
「ようこそ、ラスティア様!」
「お待ち申しておりましたー!」
「なんと、まさにフィリー様の生き写しではないか!?」
「ほんと、すごくきれい!」
「いやあの瞳だけは違うぞ――本当に核光と同じ色をしているとは驚きだ」
「それに見ろ、あのご容貌を……」
「――まさにな。いったいエルダ様はどんな気まぐれであのような方をお創りになられるのか」
イレーヌから教わったという口上を一言一句違わず告げ終えたラスティアに対し、一団を代表する男が慌てて表情を取り繕うようにしながら歓迎の挨拶を返す。
担がれてきた天幕付きの台座に席をうつしたラスティアは、後ろで見送るようにしていたシンに対し一瞬顔を向けると、何か、もの言いたげな表情を浮かべた。
あるいはそれはシンの思い過ごしだったのかもしれない。気づけばラスティアは大勢の兵たちに囲まれ、王の住まうリヴァラ水上宮へと遠ざかっていた。
その光景は、シンにとってはまさに物語の中の一幕のようにしか思えなかった。
見目麗しき王女はすでに手の届かない場所へと遠ざかり、いまだ主人公足りえない少年は、ただひとすらその姿を見守ることしかできなかった。
一緒にいるという、数日前確かに交わした約束さえ、幻のように感じていた。
§§§§§
「私にはよくわからんな」
テラの突き放したような言葉が木の上から降ってくる。
「お前はあの娘の傍にいるためにここへ来たのだろう。毎日こそこそとエーテライズの修錬ばかりしているのは一体どういうわけだ」
「悪かったな、他にやることがなくて」
言いながら、目の前の川に向かって小石を投げる。
小石は一度も水に触れることなく一直線に飛び続け、そのまま対岸の木の幹へと突き刺さった。
今日一番の距離だったが、十分な威力だった。根源を瞳に集約させることで、突き刺さる際に舞い散った樹皮の欠片さえ克明に捉えることができた。
「小石でもこの威力なのに、剣なんかにエーテル纏わせるなんて……よく無事でいられたもんだよ」
「一概に比較はできんがな。特にお前とは」
テラがあいからわずの不思議な飛び方でシンの近くにある岩へと舞い降りてくる。
「まあ、ヘルミッドも相当自信があったんだろうが、所詮赤き輝きしか生じえない程度のエーテライズだったからな。その点ではベイルとかいう女と大差なかったともいえる」
「ヘルミッドとベイルの剣が光ったときのこと言ってるのか?」
「ああ。エーテルは集約したときの濃度によって色と輝きの強さが異なる。二人が見せた赤というのは一般的なエーテラーザーが纏わせる色だ。それぞれの輝き方を見る限り、相当の差はあったがな。より優れた器や技量をもつエーテライザーは纏う色が光に近い金色に近づく。エーテルを抑えることで輝き方もまた変わるが、相手の実力を見抜く一つの基準にはなる、覚えておけ」
素直にうなずこうとして、慌てて首を振る。
「いやいやいや、そんな危ない相手なんかに近づかないから」
「おかしなことを言う。おまえがそうしたくとも相手が迫ってきたら戦う他ないだろう。だからこそこうして修錬を重ねているのだろう? ああ違ったな、他にやることがないからだったか」
「……おまえ、嫌味とかも言うんだな」
「嫌味ではない。そんな軟弱な意志では先が思いやられると言っている、何度も言わせるな。おまえのみに許された唯一無二の力〈セレマ〉、その根幹は類まれな想像力と、それを現実のものとする揺るぎない意志だ。この二つがそろわなければいくら無尽蔵にエーテルを扱えたとしても宝の持ち腐れにしかならんぞ」
「あんな大軍勢を相手にすることなんてもうないだろ」
シンがぼそりと言うと、テラは明らかに鼻で笑うような素振りを見せた。
「そうであればいいがな」
フクロウの癖に、なんて人間くさい奴だと思った。
「おーい、シン!」
振り向くと、川岸の道をゆっくり歩いてくるフェイルの姿が見えた。
均整のとれた長身と鍛え上げられた身のこなしのおかげですぐにそれとわかる。
「久しぶりー、どうしたのー!」
シンが叫び返すと、軽く片手を上げるようにして応えてくる。
「館のやつに訊いたら、いつも裏手の川に行かれているようですって言われてな。こんなところで何やってんだ――よう、テラ」
目の前にやってきたフェイルが、隣のフクロウへ声をかけた。
人間の言葉を話すフクロウを前に誰もが当惑し、右往左往するなか、いち早く順応したのがフェイルだった。だがテラはむしろそうした相手が苦手なのか、フェイルが姿を見せるとだいたい黙り込んでしまうのだった。
「ちょっとした訓練だよ。フェイルの方こそ忙しいんじゃないの?」
フェイルは人の悪そうな笑みを浮かべながらうなずいた。
「まあ、それなりにな」
五日前オルタナに着いてからというもの、シンのまわりにいた数少ない顔見知りの人々の生活は激変していた。
レリウスは、王宮に程近いアルゴードの館に到着したそのときから大勢の人間に取り囲まれてしまった。
シンに対し「どうか、自分の家だと思ってくつろいでほしい。入用なことがあればなんでも言ってくれて構わない」とだけ言い終えると、挨拶する暇もなくどこかへ連れていかれてしまった。リヒタールとルノも同じようなものだった。
フェイルはいつの間にか姿を消していたが、その日の夜ひょっこり戻って来て、レリウスから仕事を任されたと聞かされた。
ダフはアルゴード城での続きよろしく、立派な小姓になるため毎日遅くまで働き、夜は夜でいろいろと学ぶべきことがあるようだった。同じ館にいても、要人のように扱われているシンとは暮らしている部屋も過ごしている場所も違うため、ほとんど顔を合わせなかった。
そしてラスティアとは、彼女が出迎えの一団と一緒に王宮へ向かってから一度も会っていない。一緒にいると言っておきながら、実際は同じ王宮の敷地内にいる、というただそれだけのことになっていた。だから、先ほどテラから言われていたことは、実は至極もっともなことだった。
「そんなことよりおまえ、まだ一度も街へ出てないって本当かよ」
フェイルが心底驚いたといった様子で訊いてくる。
「そんなことないよ、これから行ってみるつもりだったから」
嘘ではなかった。
オルタナに滞在すること五日。館と裏手の河川敷を行き来しながら、エーテライズの修錬だけをする毎日に疑問を感じ始めたところだった。
いったい自分はここで何をしているのか、と。いや、何をすればいいのかと、常に自問するような毎日だった。
ある意味ラスティアと離れたことは、これからの事を落ち着いて考えるいい機会になった。
一人で生きていく術を、どうにかして身に付けなければならない。ラスティアと交わした約束とは関係なしに――いや、だからこそ強く思った。
まずはエルダストリーというこの世界のことについて人並の知識を身につけようと思った。そうするためには、一度あの活気あふれるオルタナの街へ飛び込み、人々の暮らしに触れてみるのが一番のような気がした。
世の中の仕組みや一般常識を学び、せめて安全な場所であれば大手を振ってあるけるくらいにはなりたかった。
それに、どうしても行ってみたい、行っておきたい場所もあった。
「やっぱり行ってねえじゃねえか。マジかよおまえ。レリウスからアルゴードの証書貰ってんだろ? レリウスも今はどうしても手が離せないってんでずいぶん気にしてたんだぜ」
シンは首から下げていた皮袋の中から掌ほどの大きさの羊皮紙を取り出し、フェイルに見せた。
「そう、それだよ」フェイルは呆れたように言った。「せっかくアルゴート侯爵付けで何でも買えるってのに」
「そんなこと言われても、申し訳なくて使えないよ」
「申し訳ないことなんてあるかよ。おまえは文字通りこの国の危機を救ったんだぜ? 本来なら王宮の敷地内に館の一つや二つ与えられてもおかしくないさ」
「もらったところでどうにもできないよ。今でも十分良くしてもらってるのに、特に必要なものもないしさ」
「必要なもんじゃない。欲しいものを見つけ、手に入れんだよ! 欲望のままに飲み食いし、抱きたい女を買う! おまえはそれだけのことをしたんだ、なんも悪いことなんざねえさ。それこそが冴えたやり方ってもんだぜ?」
フェイルがシンの肩に手を回し、もう片方の手でまっすぐ街へと指さした。
「さあ、いざ行かん。ここは『大いなる水の都』だぜ、シン?」




