第5話「黒と翡翠の瞳」
ラスティアが必死に上体を起こし、荷台の外を覗き込むようにする。
シンもラスティア同様外へと視線を向けた。しかし激しく揺れる荷台から見る景色は、先ほどと変わった様子はなかった。
「早い――」
しかしラスティアの視線は、後方の森の奥深くにいる何かを確実に捉えているようだった。
「原型を留めてる個体よ。おそらくは一体」
「よりによって足つきとは――このまま引き離します、捕まっていてください! 少年、もしものときは頼む!」
レリウスがさらに激しく手綱を振るう。
返事をするどころか激しい揺れに立っていることもできず、どすんと尻もちをついた。
(頼むって、どうすりゃいいんだよ!)
⦅次から次へと難儀なことだな⦆
一人理解が追い付かないシンに対し、再度あの声が響く。その瞬間、再びシンの意識がうしろへと遠のく。
⦅覚えておけ、全てのエーテライズは『感知』することから始まる。まずは周囲のエーテルを己の瞳に集約させろ⦆
何を言われているのかわからないまま、シンの視界が一気に拡大した。森の暗がりすら見通せるようになると、木々の合間から凄まじい勢いでこちらに迫って来る一体の獣が――いや、今まで見たこともない生き物の姿がはっきりと捉えることができた。
(……なんだよ、あれ)
意識の中でさえ、唖然とした。
どろどろに溶けかかった巨大な狼、とでも言えばいいのか。まるで大量の酸をかけられたあとのような姿と苦痛に満ちた表情を浮かべながら、確実にこちらへと迫って来る。
(なんなんだよあれは!)
⦅苦しみのうちに彷徨い歩く、もとは聖獣と呼ばれていたものの成れの果てだ。救いを求め、生あるものを己の中に取り込もうとする⦆
(中に、取り込む?)
⦅あやつらは生きたまま人を食らう⦆
「危ない!」
ラスティアが叫ぶと同時に、変異種の牙が荷台の端へと届いた。
今まで以上に荷台が揺れ、大きく傾く。
「ラスティア様!」
レリウスが必死に後方を見やりながら叫ぶ。そんな中でもきつく手綱を握りしめ、なおも馬速を緩めない。
しかし声の主に身体を明け渡す形になっていたシンはまるで動じた様子も見せず、吹き飛びそうになったラスティアの体を抱き寄せた。
「あ、ありがとうございます」
ラスティアの言葉はしかし、シンには――声の主には届いていなかった。
⦅恐れるな。おまえはこの世界を構成している根源を自在に操ることができる唯一の存在だ⦆
(なんだって)
⦅意志することを行え。さすればエーテルがおまえに応え、どのような想像をも発現させるだろう⦆
(お願いだからわかるように説明してくれ!)
⦅ひとまず今はあの変異種を仕留めることだけを考えろ。必ずそうするのだと、確信しろ⦆
(そんなこと――おれにできるわけないだろ!)
⦅だろうな。共鳴しているとおまえの混乱と軟弱な意志が手に取るようにわかる。しばらくは羽を焼くことになりそうだな⦆
呆れたような声とと共に、ベイルを撃退したとき同様、シンの手元が眩いほどの輝きを帯びはじめた。
「「許せ、エルダの子よ。今のこやつにおまえを還す意志はない」」
またシンの口から、シンの声と重なるようにして何者かの声が響いた。
手元から放たれた光弾が凄まじい勢いで後方の化け物に――再度襲いかかかろうとしていた変異種と呼ばれる生き物に直撃する。
激しい爆発音と閃光が闇夜の森を切り裂いた。
「助かったぞ少年!」
レリウスが叫ぶ。
⦅おまえの脆弱な意志のせいで殺すまでには至らんだろうが、足止めくらいにはなったはずだ⦆
(おれの、意志のせいだって?)
⦅このまま引き離せばもう追ってくることはないだろう⦆
シンの意識が再びもとへと戻る。
⦅あとは任せたぞ。久方ぶりのことで少々疲れた⦆
(任せたって――)
「あのっ」
すぐ近くからそんな声が聞こえ、シンはふとそちらを見た。そのときになってシンは自分が片手でラスティアを抱きしめていることに気づいた。
慌てて手を放し、身を引く。
「ご、ごめん」
「そんな、助かりました」
「私からも最大限の感謝を!」
御者台からレリウスが言う。
「アルゴードの名にかけて、このご恩は必ずお返しします」
レリウスはしばらくの間かなりの速度で馬を走らせたが、あの怪物が追ってこないと見るや、少しずつ鞭を振るう回数を減らし始めた。
「ラスティア様、こんな状況ですがどうか少しでも体を休めてください」
再度レリウスが声をかける。
ラスティアはさきほど以上に顔面を蒼白にさせ、息遣いもいよいよ荒くなってきていた。
「大丈夫なの、相当具合が悪そうに見えるよ」
「すみません」
ラスティアは苦し気な表情で再び体を横たえると、静かに目を閉じた。
ほとんど整備されていない道を、三人を乗せた馬車がひたすら走っていく。
荒い車輪の音が静寂を取り戻した闇夜の森に響き渡るなか、先ほどの襲撃などなかったかのような沈黙が続いた。
(……なんだったんだよ、あの化け物は)
今になって全身に震えが走る。
膝を抱え、顔を埋めたままひたすら体を小さくする。しかしいくらそうしていても、膨れ上がってくる不安や恐怖を抑え込むことはできない。
唯一頼りになりそうな例の声も、まったく聞こえなくなってしまった。
余りにもいろんなことが起こりすぎて、頭の芯から疲れ切っていた。それなのに、考えたくもないことばかり頭に浮かんできてしまう。
ひとり物思いに沈んでいくことに耐えきれず、すぐ隣で横たわる少女へと視線を移す。
(どうして、こんな森の中であんな危ない目に逢ってたんだろう)
見た目的にはまるでそうは見えないが、彼女は自分たちの身を守るためだったとはいえ、ためらうことなく相手の命を奪う人間だった。シンは確かに、その光景を見ていた。だが、そのときの姿と今隣で横になっている少女とが、どうにも結びつかない。
むしろここではそれがあたりまえの日常ということなのか。
だとしたら、いよいよ自分は、いったいどうやってこんな場所へやってきてしまったのか。
最後に覚えているのは、自宅の窓から眺めていた吹雪の夜だ。
いったいあれから何があったのか。そもそも、今着ている服すらそのときと違うというのはどういうことだろう。
まるで今に至るまでの記憶を抜き取られてしまったような感覚だった。
考えるのをやめたはずが、気付けば堂々巡りをしている。
(とにかく、なんとかしないと)
そう自分い言い聞かせながら衰弱しきったラスティアの横顔を眺めていると、その視線を感じとったのか、微かにラスティアの目が開いた。
「あ、ごめん」
咄嗟に謝ってしまう。
「あなたはいったい、どうして私たちのいた、あの場所へ……?」
「え」
それははっきりとした質問というより、夢うつつの言葉のように思われた。
「いったいどうやって、私たちのもとへ来てくれたの?」
「……わからないんだよ、おれにも」
首を振りながら答えた。
気を抜くと疑問ばかりで頭が破裂しそうになる。何も考えなくすることで、どうにか目の前の現実を受け入れることができていた。
「なにも、わからないんだ……」
ラスティアはしばらくのあいだじっとシンを見つめていたが、やがてぽつりと口にした。
「あなたのその瞳、吸い込まれてしまいそうな黒……はじめてみた」
お互い様だよ。すぐに眠りの中へと落ちていったラスティアに対し、そうつぶやいた。
君みたいな綺麗な人――そんな、翡翠の宝石みたいな瞳を持つ人なんて、生まれてこのかた見たことがない。
だからこそ余計、これが現実の出来事だなんて思えなかったんだ。
本作に目を通していただき、ありがとうございます。おもしろい、続きが気になると思ってもらえた方は、どのような形でも構いません、反応をお寄せいただけましたら幸いです。今後の励みとさせていただきます。