第10話「長い夜のはじまり」
この日、シンにとっての夜はいまだ終わる気配をみせなかった。
心の中の雲が取り除かれたかのようなラスティアから感謝の言葉を伝えられ、「また、明日ね」と別れの言葉を交わした、まさにその直後。シンがベッドに倒れ込むよりも早く、再び扉を叩く音が聞こえた。
シン付きの小姓が恐縮しきった顔で現れ、「レリウス様が自室まで来てほしいとの仰せです」と告げてきたのだった。
あまりにも間が良過ぎたせいで、もしかしたらラスティアが部屋を出て行くまで待っていたのかもしれないと思った。
すっかり薄暗くなった城内を案内されている途中そのことを訊いてみると、小姓は素直に「左様でございます」と頭を下げた。
「レリウス様にラスティア王女がシン様のお部屋に来られている旨をお伝えしましたところ、お二人の話が終わるまで待つよう言われました」
(別に悪いことをしたわけじゃないよな……)
そのはずが、なんだか叱られるためにレリウスのところへ向かっている気がした。
シンはふと、修学旅行のことを思い出した。クラスの女子たちがシンの部屋に忍び込んで来たのが見つかり、なぜか部屋にいただけのこっちが叱られるという、なんとも理不尽な思い出だった。
ほんの数年前のことなのに、今となっては別の誰かの記憶みたいになっていた。そんなことより今は、レリウスの話とはいったい何なのかということばかり気になった。
いくらラスティアの方からやって来たとはいえ、王女などという身分の人と夜更けに二人きりで部屋にいたというのは、やっぱりマズかったんじゃないか。何か、変な疑いを駆けられたのではないか。そんな考えがぐるぐると頭を回り、気づいたときにはレリウスの部屋の前という有様だった。
「シン様をお連れしました」
「ああ、入って貰って構わない」
小姓に促され中に入ると、そこは広い書斎のような部屋だった。
柔らかな明りの灯る室内には、ソファーに腰かけているリヒタールとルノ、それにグラスを片手に石造りの壁に寄りかかっているフェイルの姿があった。
「来たかシン。さあ、座ってくれ」
レリウスが立ち上がってシンを出迎えた。
背後には巨大な本棚があり、分厚く年季の入った本が隙間なく並べられている。
なぜかシンは、その光景にひどく見覚えがあるような気がして、少しのあいだ呆然と立ち尽くした。
「シン、どうした」
「あ、ごめん」
慌ててレリウスの方を向き直る。
「何か、話があるって聞いたんだけど……」
「ああ、ちょうど二人にこれまでの経緯について話し終えたところだ」
リヒタールとルノを見ると、二人はなぜかシンの視線を避け、助けを求めるようにレリウスの方を向いた。先ほどの二人の様子からはあまり考えられない態度だった。
「レリウス、本当にこの少年がバルデス軍を?」
「何度もそう説明したはずだが」
ルノの問いにレリウスが苦笑して応える。
「何度聞いたところで容易く頷けるような話ではないだろう」
リヒタールはほとんど睨みつけるようにしながら言った。
「ザナトスに猛吹雪を降らせて五万ものバルデス軍を撃退したなどと……そこらのエーテライザーは無論、アーゼムの、それも継承者たちでさえそんな芸当は不可能だ」
「ですが、事実です」
フェイルが片手揺らしたグラスの中を見つめながら言う。
「シンには、それができる。私やアルゴード侯、ラスティア様、ザナトスの執政官、その場に居合わせた二千のベルガーナの騎士たちも確かに目撃したことです。ザナトスの住人たちは口々に『エルダの御業』だと言い立て、いったい何が起きたのかとそこかしこで議論し合っておりました。騎士団の面々にはアルゴード侯が固く口留めしていましたが、こんなことはいくらでも漏れ出してしまうものです。そう遠くないうちにアインズはおろか、西方諸国全域にまで知れ渡ってしまうでしょう。もっともどれほどの真実が伝わるか、何人の人間がこのことを信じるかまでは預かり知らぬところですが」
流暢に語るフェイルに対し、リヒタールが皮肉げな笑みを浮かべる。
「なるほど、確かにおまえーーフェイルといったかーー主観を交えず人を納得させるという点では十分な説明だ。だが、バルドー侯相手には少々尊大にすぎるな。レリウスはおまえという人間を買って連れてきたのかもしれんが、他の領侯たちまで同じと思わぬ方がいい」
リヒタールがフェイルの言葉とその振る舞いに否定的な感情を示したことはシンにさえわかった。まるで物怖じする様子もなく優雅に頭を下げるフェイルに対し、あからさまに鼻白んだ表情を見せる。
「無理はない。実際この目で見てきた私でさえ、あれは本当に現実のことだったのかと思い返すことがある。もちろん、偉大なるエーテライザーの業を疑う気はないがね。シン、あのフクロウ――テラは今どこに?」
二人のやりとりなど気にしていないかのようなレリウスの質問に対し、シンは降ろしかけていた腰を再度浮かせながら応えた。
「ザナトスを出発してからは全然見てないよ。一応、何度か呼びかけてみたりはしたんだけど、気づいているのか無視しているかもわからないし、そのやり方が合っているのかもよくわからなくて」
「フクロウが人間の言葉を理解し、ましてや話しかけてくるなどと……おまえから聞いたのでなければ治療院にでも放り込んでやるところだ」
リヒタールの表情がさらに歪む。
一方、固く腕を組み黙り込んでいたルノは一点を見つめるようにしなが低く唸った。
「なんとも奇怪な……いや、世界はまだまだ人知の行き届かない物事で溢ているということか。エルダのお創りなられた世に今一度思い馳せるべきかもしれない」
「いくら言葉を重ねてもこれ以上おまえたちの理解は得られないだろう。今はひとまず話を先へ進めたい。シンも来てくれたことだしな」
自分もレリウスに呼び出されて来たのだということを思い出し、背筋が伸びた。
「シン、これからのことについて今一度確認しておきたい。君はこのままラスティア様と行動を共にしてくれるという認識で良かっただろうか」
あらため訊かれ、シンは反射的にうなずいた。
「ザナトスを発つ前にも伝えたけど他に行く宛はないし、今のところ……帰る方法もわからないから」
(もしおれが帰りたいと言ったら……もといた世界に戻れるのか)
(望んでここへ来たなら、その逆もしかりだろう。おまえがそう願えば――真に意志さえすれば叶えられるはずだ)
以前交わしたテラとの会話が思い出される。あのときは目の前に広がるエルダストリーの世界に感動し、その意味についてよく考えられなかった。だが、後々思い返してみるとおかしなことに気づいた。
そもそも自分は、ここへくることなど望んでいなかった。子供じみた憧れや妄想を抱いたことは確かだったが、そんなことを本気で願うほどおめでたい人間ではなかったつもりだった。最近ではエルダストリーという本の存在すらすっかり忘れていたくらいだ。だから、「その逆もしかりだろう」と言われても、もといた世界になど帰れるはずがない。
そんなこと考えながら、シンは慎重に言葉を続けた
「あの鳥ーーテラからは『自由にやれ』なんて言われたけど、今のところ特別やりたいと思うことも、どこかへ行きたいとも思えない。そもそもおれは、この世界のことなんて全然知らないし……それにさっき、ラスティアとも約束したところだから」
「約束?」
「あ、できればこれからも一緒にって言われて……だから、いいよって」
自分でも驚くくらい口が回らず、焦る。
「そうか、ラスティア様は直接伝えられたのだな」
レリウスはなぜか満足そうな笑みを浮かべながらひとり頷いた。
「それでレリウス、君はこれからどう動くつもりだ」ルノがもどかしいとばかりに身を乗り出す。「王女抜きでこのように集まったということで察しはついているが……」
「むろん、ラスティア様に次期国王となっていただくべく行動する」
思わず息を呑んだ。
(ラスティアが、国王?)
「それも、当のご本人にはそれと気づかれぬように、な」
「なぜそのような回りくどいことをする。いやそもそもラスティア王女に継承者候補に名乗りを上げる意志はあるのか」
「いや、夢にも思っていないのではないかな」
レリウスが笑いながら言うと、ルノとリヒタールは頭が痛いとばかりに額へ手をやった。
「なんとなく、そう思っていたが……おまえというやつは」
「王女の意志抜きでこのような大それた話を進めるとは、君でなければ正気を疑っているよ」
「今はまだその時期ではないし、言う必要もない」
「そんな悠長なことを言っている余裕はないぞ。国王選定の議までもう半年を切っている、おまえもわかっているだろう」
「だが、いくら私たちが王になるよう迫ってもラスティア様は決して首を縦には振らないだろう。今いる王子王女を差し置いてそのような大それたことはできない、分不相応だと言ってな。まだ付き合いの浅い私にさえ簡単に想像できることだ。だからこそラスティア様にはあくまでご自身の意志で立ってもらわなければ。それがサイオスからの助言でもある」
「サイオス・ライオが?」
「ああ。ラスティア様を王とするためには、彼女自身が望んでそうなることが肝心だと」
「だが、私が食事の席でお話した限りでは、今君が言ったようなことを実行するのは難しいお人のように見えた。権力とは無縁の、というか」
「まさにな」レリウスが笑いながらうなずく。「ラスティア様が水晶の玉座を目指すべく立ち上がるとすれば、それは民の暮らしが脅かされるとき――すなわち、エルダストリーの安寧が乱れるときだろう」
「エルダストの安寧が乱れる……? それはアーゼムの使命のことを言っているのか」
「ああ。いくら器がないとはいえ、ラスティア様の中には確かに十二従の――ロウェインの血が脈々と流れている。それが彼女を苦しめているともいえるが……今の、この混迷の世には――我が国が生き残り、これまでも繁栄し続けていくためにはなんとしてもあの方の存在が必要なのだ」




