第7話「光と闇の前触れ」
広間の中へ入って来たその少女を前に、誰もが声を失っていた。
まるでラスティア以外の時間が止まってしまったかのようだった。誰ひとりとして身動きひとつできないまま、視線だけが彼女の流れるような動きに合わせて釘付けになる。
見る者すべてを圧倒してしまうほどの美が、そこにあったからだ。
白銀の髪飾りで結い上げられた茶褐色の髪は透き通るように煌めき、全身を包むロングドレスは見事なまでに均整のとれた曲線を否が応にも際立たせていた。
なにより、揺らめく明りを受けて輝く翡翠の瞳が、見る者の目をとらえて離さない。
「皆様、そうまで見つめてしまってはラスティア王女もお困りでしょう」
ラスティアの傍らに控えるようにしていたレリウスの妻イレーヌが誇らしげな笑みを浮かべている。
「あ、ああ。すまない」
レリウスが慌てて席から立ち上がると、全員が急いでそれに倣った。
シンも慌てて立ち上がったが、椅子の脚に引っ掛かりよろけてしまった。そんなシンを見て、ラスティアが少し笑ったように見えた。
「こちらが、この度アインズ王室に迎え入れられることとなったラスティア王女――ラスティア様、この二人は私の古くからの友人、バルドー侯リヒタール・シュナイツとシャンペール侯ルノ・ベイリッチです。私の帰郷を知り駆けつけて来たのです」
ラスティアは、リヒタールとルノに向き直り、まっすぐ二人を見上げるようにした。
「ラスティア・ロウェインと申します。この場でお二人にお会いできたこと、大変光栄に思います」
それは、極めて自然な出会いの挨拶の一つに過ぎなかった。ラスティア自身、特に何かを思って発した言葉とは思えなかった。だが――
リヒタールとルノは、まるで誰かに膝を折られでもしたかのようにがくりと跪き、そのまま地面に着こうかというほど深々と頭を下げた。そしてすぐに顔を上げ、驚愕と恍惚とが入り混じった表情で彼女を見つめ続けた。
困惑するラスティアをよそに、レリウスは隣のイレーヌ同様、誇らしげな表情で友人たちを見守っているのだった。
「俺は、見誤っていた」
隣でフェイルが独り言のようにつぶやいた。
「何かあるどころの騒ぎじゃない。彼女は……ラスティア王女は、あの外見だけで国を揺るがす」
フェイルの言葉を受け、シンはあらためてラスティアに目をやる。まるで映画の中から抜き出して来たかのようで、現実に存在しているとすら思えなかった。だが実際には、ただ姿を見せただけでリヒタールとルノというアインズの重鎮ともいえる二人を跪かせてしまった。そのことがラスティア・ロウェインという少女の行く末を暗示しているように思えた。
§§§§§§
レリウスたちの強い勧めにも関わらず、ラスティアは頑なに上席に座ることを拒否した。
まだ公にアインズの王女として認められたわけではないから、というのが彼女の言い分だったが、ほとんど性格的なことが理由だろうというのはシンでさえわかった。
わからなかったのは、どうしてよりによって自分の隣に座ってしまったのか、ということだった。なぜかラスティアは頑なにそこへ座ることにこだわった。
席についてからは、ラスティアが動くたびに瑞々しい花のような香りがふんわり漂ってきて、そのたびに頭がぼうとした。顔半分だけ真っ赤になっていやしないかと何度も右の頬に手をやったくらいだ。
ラスティアとイレーヌが加わり、ほとんど中断されていた晩餐があらためて始まった。
最初のうちはリヒタールもルノもラスティアを前に動揺を隠せないようだったが、シンに話しかける彼女を眺めているうちに落ち着きを取り戻したようだった。
「ねえ、シン。ちゃんと食べてる?」
「もちろん、ラスティアが来る前にもういただいてたよ」
「全然手をつけたようには見えないけれど」
「あー……ちょっと、レリウスたちの話を聞くのに夢中になってて」
そんな言葉を交わしておきながら、今だに目も合わせられなかった。ラスティアの外見については出会ったときから事あるごとに感嘆させられてきたが、顔の化粧はもちろん全身をドレスアップした彼女は特に、一度見つめてしまったら二度と目を離せなくなってしまうような、そんな気さえ抱かせた。なんとか話を続けるだけで精一杯だった。
「遠慮はいらないよシン、この場は君を歓迎する場でもあるのだから」
レリウスが大仰にうなずく。
「レリウス、彼らのことをあらためて紹介してくれないか――先ほどは訊きたいことが多すぎてどうにも頭が回らず、失礼をした」
ルノがまっすぐに頭を下げる。リヒタールも優雅な仕草でそれに倣った。
「よく見ると――失礼ながら、そこまで漆黒に近い瞳と髪は見たことがない。いったいどちらの生まれなのかな」
シンは口の中に入れたばかりの肉の塊を慌てて飲み込んだ。濃厚なソースがついていたはずが、ほとんど味もわからなかった。
「――おれなんかにそんな丁寧な言葉を使ってくれなくていいですから」
なんと説明したらいいかわからず、咄嗟に思いついたことを訊き返す。
リヒタールとルノ、それにイレーヌは不思議そうな表情でシンを見つめ、そのままレリウスへと視線を移した。
「シンはまだ我々のことをよく知らないのだったな。皆にもシンのことは私たちを救ってくれた通りすがりのエーテライザーとしか伝えていなかった」
レリウスが苦笑しながら言う。
「通りすがりのって……」
「すまん、シン。皆、シンはその……かなり遠く、遥か異国の地から旅をしてきた少年でな。いつの間にかレイブンの森深くをさ迷っていたみたいなんだ。私たちがそこで窮地に陥っていたとき、本当に偶然、まさに奇跡のように出会い、助けてくれたというわけだ――いや、詳しいことは訊かないでくれ」
リヒタールとルノが何かを言い出そうとするのを片手を押し出すようにして制す。
「シン自身、特別な事情あって人には言えぬことが多いし、そもそも西方諸国一帯については知らないことばかりで難儀しているところなのだ。いらぬ詮索をして困らせることは絶対にやめてほしい。しかしだ、その素性や人間性になんら怪しいところはない。この私がアルゴードの名誉にかけて保証する」
そこまで言われてしまっては何も言えないだろう、と。そんな表情をありありと浮かべている三人をよそにレリウスが続ける。
「シン、なぜ我々がシンのような少年にもこのような扱いを、ということだったな。それはエルダの恩恵を受けし者――器保持者という意味だが――彼らには最大の敬意をもって接しよ、というのがエルダ教を信奉する者の教義だからだよ」
「エーテライザーに、最大の敬意?」
確かに言われてみればラスティアとレリウスも、出会った当初からシンが戸惑いを感じてしまうほど丁寧に接してくれていた。命を救ってくれた相手だからということもあったのだろうが、必ずしもそれだけではないような気がしていたのだ。
「もちろん、誰が相手でもそうするわけではないぞ? 己に与えられた恩恵を世のため人のために使うようなエーテライザーに対しては、ということだ。私たちの窮地を何度も救ってくれたシンは、まさにそうするに値する人間だ」
「そうだ、バルデスのヘルミット将軍をものの見事に撃退した話など、ぜひともお聞きしたいものだ」
リヒタールが言う。
「それに、ザナトスを襲った猛吹雪のことも」
両腕を組んだルノが眉間に深いしわを寄せながら唸る。
「バルデス軍を背走せしめるほどの天候とは……まさにエルダの御業としか言いようがない」
一瞬、その場になんとも言えない沈黙が起きた。しかしそれは、実際にその場にいたシンとラスティア、レリウス、フェイルのみのものであり、残りの三人には決して共有することのできない間でもあった。
シンがザナトスで発現させたその現象は、ラスティア王女はもちろんアインズ全土を救った「エルダの御業」として報告されていた。
シンの存在とその功績を大々的に報告すべきだと言い張るラスティアに対し、レリウスが頑なに首を振ったからだ。
レリウスは言った。天候すら操るエーテライザーの出現は、アインズのみならず、周辺諸国にとって由々しき事態である。かの存在がどのような立場、考え、思想のもと、どの国あるいは誰に与しているのか。それらがはっきりしないままシンの存在だけが知れ渡ってしまえば、西方諸国はおろかエルダストリー全土に激震が走る。だから、今はまだ伏せるべき時だと。
それでもラスティアは、バルデス軍、特にヘルミットやベイルはシンの存在に気づいているのだから隠している意味がないと言い張った。だが、ザナトスの異常気象とシンとを結びつけるのはさすがに無理があり、たとえ説明したところで誰も信じないだろうというレリウスの反論には肯かずにはいられないようだった。
そのような経緯から、シンについてはラスティア王女への襲撃とヘルミット将軍の手を退けてくれた類まれなエーテライザーということのみが伝えられることとなった。
加えてレリウスは、ベイルの存在についても報告していなかった。書簡や伝令で説明できるようなことではないうえ、彼女が主導した襲撃事件の裏には、ほぼ間違いなくアインズの権力争いが絡んでいると考えていたからだ。
「ザナトスは――アインズ全土にいえることだが――吹雪どころか雪すら滅多に降らぬ土地だ」
何も気づかない様子のルノが考え込むようにしながら言う。
「しかも季節はいまだ秋を迎えたばかり……我が国にとってまさにエルダの御業としか言いようがないが、バルデスにとってはまさにアヴァサスの魔手でしかなかっただろうよ」
リヒタールが皮肉めいた口調で笑った。だが――
アヴァサス、と。その言葉を耳にした瞬間。
シンの耳に、その頭に、何者かの嘲笑が聞こえたような気がした。
あまりの不吉さ、その禍々《まがまが》しさに、震えすら走った。
もちろん、シン以外誰にもそのような様子は見られない。
シンは、いま自分が感じたことの意味がまるで理解できず、ただひとり得体の知れない何者かの気配に怯え、自然と両腕をさすった。
そう、それは間違いなく恐怖という感情に違いなかった。




