第4話「変異種」
「ラスティア様、もう行かなくては」
ややあって、レリウスが声をかけた。
「追手のことはもちろんですが、いつ変異種が現れてもおかしくない」
言いながら、周囲の森へと視線を走らせる。
ラスティアはしばらくの間彼女自身がエルダと呼んだその像を見つめていたが(エルダ……どこかで聞いたような気がする)、やがて静かにうなずくと、これ以上ないくらい静かに、そして丁寧に、少女の体を横たえた。
「窮地を救ってくれたうえ、ここまで連れて来ていただき、ありがとうございます」
ふらりと立ち上がったラスティアから突然礼を言われ、シンは面食らった。
「いや、おれはなにも」慌てて首を左右に振る。
「私たちはこの場を離れます。変異種たちが徘徊する夜の森はとても危険ですし、先ほどの襲撃者たちが再び追ってくる可能性もあります。あなたの……その力を、あそこまで見せつけられてすぐに引き返してくるということは考えにくいですが」
言いながら、何かを思い出したかのように表情を強張らせる。
「この場を離れるに越したことはありません」レリウスが場を取り持つようにして素早くうなずく。「幸い、あそこにまだ使えそうな馬車が」
レリウスが指さす方を見ると、場違いなほど落ち着いた馬が四頭、荷台に繋がれたままぶるぶると首を振っていた。
実物を見るのはシンも初めてだった。ここへ来てからというもの、目に映るすべてが今までの日常とかけ離れすぎていた。あまりにも異常なことばかりで、その一つひとつにまで気が留まらなくなってしまっていた。
「急ぎましょう――それでその、あなたは」
「よければ君も、私たちと共に来てはもらえないだろうか」
ラスティアが驚きに満ちた表情で隣のレリウスを見上げる。
「命の恩人を放って立ち去るなどと、アルゴードの名が許さない」
レリウスの申し出に驚きながらも、これまでの出来事と周囲の状況に内心気が気ではなかったシンは、一も二もなくうなずいた。
「あの、助かります、すごく。これからどうすればいいかとか、全然わからなくて」
気を使って申し出てくれた、というわけではなさそうだった。どういうわけかラスティアとレリウスの顔には安堵の色がありありと浮かんでいた。
こんな得体の知れないやつと一瞬たりとも一緒にいたくない。そう思われていないことに心底ほっとした。
「そうと決まれば急ぎましょう。お互い聞きたいことは山ほどあるだろうが、詳しい話はまたあとに」
シンは再びラスティアに肩を貸し、馬車のある場所まで歩いた。前を行くレリウスもまだ足取りが怪しかったが、助けを借りようとする素振りは一切見せなかった。
どうして、こんな。
いったい、ここはどこなんだ。
今まで自分がいた場所とはあまりにもかけ離れた世界とその現実に、シンはいまだ夢から覚めきれていないのだという気持ちを捨てきれないでいた。
「道中必要な荷だけ残し、お二人の休める場所を空けます。急ぎ森を抜けるためには少しでも軽い方がいい」
レリウスの言葉がシンを現実へと引き戻す。
シンはラスティアを太い樹の幹に寄りかからせるようにして座らせると、すぐにレリウスのもとへ向かった。
「指示してください、おれがやります」
何も言われていないとはいえ、傷を負っているレリウスを働かせてぼうっと突っ立ていることはできなかった。
「ありがたい。さすがに、思うように動けなくてな」
口惜しそうなレリウスに変わり荷台へと乗り込み、荷を下ろし始める。
「一人では難しいものもあるだろう」
「気にしないでください。なんだかすごく体が軽くて、重いって感覚がなくなってしまった気がするんです。自分でも無気味なくらい」
「……本当に、ふがいない」
そう言ってレリウスはシンの横にたたずみ、道に沿うようにして倒れている大勢の亡骸をじっと眺めていた。
シンはその光景を決して目に入れないようにしていたが、レリウスの背中が視界に入ると、いくら人ごととはいえ胸にくるものがあった。
レリウスよりよほど辛そうに見えたのがラスティアだった。先ほどからずっと目を閉じたまま荒い呼吸を繰り返していている。その度にレリウスが声をかけていたが、「大丈夫」と小さくうなずくのみで、一向に落ち着く様子がなかった。
最後の荷を下ろし終え、足早にラスティアのもとへ向かう。
「用意できたよ」
「助かります」
絞り出すような声だった。
「あの……よければ、このまま俺が運んじゃっても?」
「……お願いできますか」
ラスティアは一瞬ためらったのち、小さくうなずいて見せた。
シンが身をかがめると、ラスティアはおずおずと体をシンの背中に預けた。
不思議なことに、ラスティアの体からはほとんど重さを感じなかった。しかし実際にはそんなはずがない。彼女はシンが見惚れてしまいそうになるほど非の打ちどころがない、均整のとれた体形をしていたが、単に細身というわけでもなかった。
(これも、おまえの仕業なのか)
⦅ああ。だが、もとはおまえの力だ。共鳴によって手を貸しているにすぎん⦆
相変わらずわけのわからない答えが返ってくる。シンは難しい顔のまま首を振った。
(今は、自分にできることをしよう)
前向きな気持ちになったわけでは決してない。なんでもいいから体を動かし、少しでも他のことを考えていないと目の前の現実に押しつぶされそうになる。
レリウスが敷いてくれていた布の上にラスティアを降ろし、横にさせたあとは薄手の毛布を胸元までかけた。
「ありがとう」
ラスティアが顔を傾けるようにして言う。
些細な動作ひとつとるだけでも辛そうだった。シンには彼女のその表情、その仕草が、あまりにも儚く映った。そして、とてつもなく美しいと思った。
一瞬とはいえ見惚れるようになってしまい、場違いなことを考えた自分にバツが悪くなる。シンは目を逸らすようにして曖昧にうなずいた。
荷台の外でレリウスが頭部から顔面にかけて止血のための布を巻いてるのが見えた。
「大丈夫なんですか」
荷台の上からシンが聞くと、レリウスは笑いながらうなずいた。
「念のためさ。私もアインズ騎士の端くれだ、この程度の傷など何の問題もない。かなり揺れると思うが森を抜けさえすればひとまず安心だろう――準備はよろしいですか?」
荷台を覗き込み、横になっているラスティアへも声をかける。
ラスティアがうなずいてみせると、レリウスは御者席へと上がり、「はいや!」という掛け声とともに手綱を振るった。
想像以上の揺れに、後ろに倒れ込みそうになる。
「しばらくのあいだ揺れますが我慢してください。なるべく早く森を抜けなくては――」
レリウスが前方を見据えながら言った。
確かに、座っているだけで尻が痛くなるほどの揺れだった。荷台の外へ目を向けると、鬱蒼とした木々がかなりの速さで横へと流れていくのが見える。
このような状況のなか人心地つけるわけがなかった。むしろ、ただ座っていることで今まで抑え込んでいたさまざまな疑問や不安、そして恐怖といった感情が、頭と胸の奥深くから一気に膨れ上がってくる。
シンは膝を抱えるようにして隣のラスティアに目をやる。
いくら成り行きとはいえ、一人ではないということに心から感謝していた。
シンには、彼女がどうしてこれほど弱っているのかわからなかった。確かに野党のような男たちからひどい暴力を受けていたが、そのことが原因で苦しんでいる、というわけではないような気がしていた。
レリウスのような外傷も見当たらず、どこか痛がるという様子でもない。なにか、重い病にかかっているような、全身が衰弱しきっているような、そんな印象を受けた。
不安に思いながら見つめていると、彼女の両肩が微かに震えていることに気づく。
「寒いの」
シンが訊くと、ラスティアは薄く目を開け、小さく首を横に振った。
「……今になって、怖くなったんです」
言いながら、両手でゆっくりと自分の二の腕をさするようにする。
「うん……あんな目に遭ったら誰だって」
「大勢の人の死を見るのも、人を殺めるのも、初めてのことではないんです。ただ……身を汚されそうになったのは、初めてで」
この少女が大勢の男たちに何をされそうになっていたかを思いだしたとき。シンの頭の中に何かが過った。しかしそれも一瞬のことであり、シンの意識に昇るようなこともなかった。
シンにはかける言葉ひとつ見つからなかった。目を覆いたくなる光景の数々と、当事者である少女を前に気配すら消したくなる。シンは今まで以上に体を小さくした。
「あんな――」
ラスティアがさらに何かを言いかけた、そのとき。
荷台の外から胃の底を震わすような雄たけびが響き渡り、顔をあげた。
さらに轟くその声に、シンは思わず身を固くし、息を呑んだ。瞼を開いたラスティアの瞳とぴたりと重なる。
「ラスティア様、変異種です!」
前方でレリウスが叫んだ。