第1話「アルゴードの秋」
目の前には、黄金色に輝く大海原が広がっていた。
陽の光を浴びた見渡す限りのムギが、微かな冷気をはらんだ心地よい風に吹かれ、一斉になびいている。
小休止がてら馬車を降り、勧められるままに小高い丘の上まで足を運んでいたシンは、その光景を前にしばし言葉を失った。
初めてこの世界にやって来たときのことを思い出していた。文字通り空を飛びながら、目の前の景色にただ見惚れることしかできなかったときのことを。
「どうだ、シン。アルゴードが誇る大穀倉地帯の風景は」
後ろからレリウスが声をかけてくる。その声は隠しようがないほどの慈愛と誇りに満ち溢れていた。
「すごいよ、本当に」
ありきたりの言葉でしか表現できない自分が腹立たしくさえあった。
「特に気候が穏やかなアルゴード領はアインズの食糧庫と言われるほど実り豊かな土地なのよ」
シンの隣に立つラスティアが目を細めながら言う。
「その通りですラスティア様。それにゼーレ河にミレーユ湖、トレント大森林がもたらしてくれる数々の自然の恵みも欠かせません。他にはどのような特徴があるかご存じですか」
レリウスが教師然とした口調で問う。
「アルゴードの主要都市レーンは王都や国間公路、いわゆる〈街道〉からも程近くアインズ第二の都市と呼ばれるほど人の往来が盛んだわ。それにアルゴード城があるミレーユの湖畔は西方諸国の中でも風光明媚な場所として知られ要人たちの別邸も数多くある。つまり、アルゴード侯領はアインズにとって最も重要な領地のひとつである、と」
「またまたその通りです」
レリウスはうやうやしく頭を下げて見せた。
ザナトスからの道中、レリウスとラスティアはたびたびこのようなやりとりをした。
レリウス曰く、これからアインズ王室に入るラスティアに必要な知識をできる限り与えたいのことだった。が、ラスティアがレリウスの問いに答えられないということはまずなく、その博識さに尊敬の念を抱かずにはいられなかった。同時に何も知らないシンにとっては二人のやりとりがそのまま自身の知識となって頭に収められるため、大いに助かってもいた。
「皆さま、そろそろ出発してもよろしかったでしょうか!」
ベルガーナ騎士団連隊長、トール・レックスが丘の下から呼びかけてくる。
レリウスとラスティアが手を振ってそれに応えた。
今シンたちは、ベルガーナ騎士団護衛のもとレリウスの治めるアルゴード侯領へ向う道中にあった。
事の始まりは、シンがバルデス軍の侵攻を食い止めてから三日後のことだった。さまざまな事後処理や今後の対応に追われていたレリウスたちのもとへ、王都からの密書を携えた使者がやってきた。
ベルガーナ騎士団二百を伴いオルタナへ向かうようにとの勅命が記されていたことから、バルデス軍侵攻の折レリウスの副官として働いた連隊長のトールが後任と入れ替わる形で同行することになった。
バルデス軍に対してはセイグリッド砦から呼び寄せたベルガーナ騎士団二万と、ザナトスを含めアインズ北東部を治めるリュヒター侯の兵三万によって国境の守りとすることが決定した。
すでにレリウスとミルズはベルガーナ騎士団全軍をザナトスへ呼び寄せていたたため、バルデス軍が去ったあとも二万の軍勢はそのままザナトス入りすることとなった。
三万もの兵を引き連れてきたリュヒター侯がザナトス入りしたこともあり、シンたちはずいぶんと物々しい雰囲気の中アルゴードへ旅立つこととなったのだった。
とはいえ、糖の枯渇というわけのわからない体調不良のせいで丸二日以上ベッドから起き上がれなかったシンは、今回の顛末についてはまるで把握していなかった。
ようやく自由の効く身となったときには、すでにアルゴードへ向かうための準備は全て整えられてしまっていた。というよりむしろ、シンの回復を待っていた感すらあった。
そんなわけでシンは、よく状況も呑み込めないまま恐縮しきりの状態で馬車へと乗り込み、道中レリウスやラスティアから詳しい説明を聞いた、という有様だった。
ザナトスの執政官であるミルズはシンたちを見送る際、「いっそこのまますべての任を放り投げて皆様に同行したくなります」と嘆いていた。
ワルムとして、これから果たすべきことが山積みなのだろう。シンには想像することしかできなかったが、ミルズの疲弊しきったその様子には同情するしかなかった。
それでもラスティアは「あなたなら大丈夫」と言い切り、短いながらも共に苦難を乗り切った仲間として別れを惜しみながらザナトスを後にしたのだった。
「だいたい、あんたがここにいることがおかしいだろ」
「別に無理やり着いてきたわけじゃないからな。ま、お前なんかよりよほど役に立つさ」
ベルガーナの屈強な騎士たちに守られた馬車まで戻ってくると、ダフとフェイルが相変わらずといった様子で言い合っているのが見えた。
「俺はラスティア様のお付きとして傍にいさせてもらうんだ」ダフの言葉に力が入る。「ただくっついてきただけのあんたとは違うね」
「雑用くらいしかできないお前と一緒にするなよ。俺という人気にはおまえのようなお子ちゃまなんかにはわからない冴えた使い方ってもんがあるのさ」
フェイルが涼し気な顔で言うと、ダフは顔を真っ赤にさせて悪態をついた。
「ふたりとも今のところは道中を賑やかにしてくれることしかできていなようだが」
言いながらレリウスが苦笑する。
ザナトスを発ってからというもの、ダフとフェイルの口から聞こえてくるのはいつも同じような言葉の応酬だった。だいたいはダフがフェイルに突っかかっていき、よせばいいものを、フェイルが大人気もなく挑発するものだから、いつも火に油を注ぐ形になっていた。
搾取する側とされる側という、これまでの二人の関係性がそうさせてしまうのかもしれないが、フェイルのような人間がラスティアたちに同行したいと言い出したのはシンにとっても意外だった。そのことをレリウスが許可したことについても。
フェイルとレリウス、それにラスティアの間でどのようなやりとりがあったのかはわからない。だがシンにとってはどちらかというとありがたいことだった。
見るからに規律と誇りを重んじる屈強そうな兵たちに囲まれていると、何もせずとも息が詰まりそうになった。ダフとフェイルの子どもじみた言い争いが、程よく周囲の緊張を緩めてくれた。
ダフは十二歳(おそらくそれくらい、と本人は言っていた)、フェイルは二五歳(三〇近くだと思っていた)ということもあり、シンはわりと歳が近いこの二人となるべくなら打ち解けたいと思っていた。しかしシンが話しかけようとすると、二人とも明らかに口数が減ってしまうのだった。
そのためレリウスなんかはダフとフェイルの口論が止まらなくなると「シン、出番だぞ」とまで言ってくる有様だった。ラスティアはよく隣で笑っていたが、シンとしてはあまりいい気分ではなかった。そしてそれは、ダフとフェイルだけのことではなかった。
ベルガーナ騎士団の面々も、明らかにシンを避けているように見えた。道中ほとんど話す機会もなかったが、ふと視線が合ったり近くを通ろうとすると、不自然なまでに目を逸らしたり道を開けようとしたりするのだ。最初は気のせいかと思っていたが、丸一日も行動を共にすれば嫌でもわかってしまった。
シンと堂々と接してくれる人間といえば、ラスティアとレリウス、それに先ほど声をかけてくれたトールくらいのものだった。しかしトールについては連隊長という立場上、シンを無視するような真似はできないからだろうと思われた。そう考えると、やはりまともに話せるのはラスティアとレリウスだけということになった。
「この先のトレントの森を抜けたら、いよいよアルゴード城が見えてくる。長旅の疲れを癒せるよう、これでもかというほどもてなすつもりだからそのつもりでいてくれ」
シンが馬車に乗り込むと、レリウスが陽気な声で話しかけてきた。
シンたちが乗っているのは質素ではあるが堅牢な造りの六頭引の馬車で、シンとラスティア、レリウス、ダフの四人がゆったり座れるほどの空間があった。
フェイルはレリウスに与えられた馬に跨り、堂々たる姿ですぐ近くを並走していた。そのため窓を挟む形でダフとの言い争いが絶えなかった。
「ラスティア様も、王都の方で手筈が整うまでは我が城に滞在していよとのご命令でした。王室へ迎え入れるとの決定が下ってからひと月は経過しているはずですが……王宮もだいぶごたついているようです。予想はしていましたがね」
レリウスは思案気な表情で顎を撫でながら御者席の兵に対し出発するよう合図した。
馬車が走りだすと、すっかり慣れてしまった揺れを感じながら、シンは再び周囲の景色に目をやった。
これまでの道中、皆と話しているとき以外は常にそうしてきた。エルダストリーの大地は常にシンの心をとらえて離さず、見飽きるという気持ちを一切起こさせなかった。
「私のこともそうですが、やはりバルデスの件が大きいのでしょう……ザナトス強襲という一報を受け、ラウル王やアーゼムがどう出るか。それにシンのことも」
「え」
突然名を呼ばれ、慌てて振り向く。
しかしレリウスは特にそのことには触れず、深くうなずくのみだった。
「それに、ラウル王の容態も気になります。確かに今回のことは王の名のもとに出された勅命ですが、病状によってはディファト王子あるいは宰相あたりの指示ということも考えられます。私が出立するときは意識もはっきりとされていましたが、今はどうなっておられるか……とにかく、今の段階では何もわかりません。さすがにアルゴード城に戻れば詳しいことがわかるかと思いますので、今後のことはまたそのときに」
「アルゴードでのおもてなしは楽しみではあるけれど、ゆっくりくつろいでばかりもいられないわね」
「なあに、それはそれ、これはこれですよ。すでに早馬で触れは出していますからね。家の者たちが総出で出迎えてくれるはずです」
レリウスがはしゃぐような笑みを浮かべながら言った。
幾多の危機を乗り越え、家族のもとに帰れる。そのことを思うと喜びに耐えません。ザナトスを出立する直前、公の場で伝えられたレリウスの言葉だった。
その後、ラスティアやミルズ共々深々と頭を下げられ、バルデス軍を退かせた礼を述べられたときはさすがに固まってしまった。
自分でも何をどうやったのかもわからないまま重々しい感謝の言葉を受け止めなくてはならかったシンは、「いや」とか「そんな」などいう言葉を返すだけで精一杯だった。
それでも、五万もの大軍勢に突撃される一歩手前の光景を目のあたりにした今となっては、ラスティアたちを助けられたことは心から良かったと思えた。
一方、シンの胸には一抹の不安と、そして、いつの間にか手にしていた力に対する恐怖に近い感情が色濃く残った。
身体の調子を取り戻し、ラスティアに連れられてバルデス軍を撃退したという雪原へと出向いたシンは、自分の仕出かしたことの大きさに――そのときの記憶はほとんどなかったが――その、あまりにも信じ難い現象を前に、途方に暮れるしかなかった。
これから何が待ち受けているのかわからないまま、シンはそれでも先へ進むしかなかった。
この世界で生きてゆくうえで、ラスティアたちと行動を共にする以外他に、道は見えなかったから。




