第30話「セレマ」
全員の視線が一斉に空へと向いた。
今までどこを飛んでいたのか、白いフクロウが螺旋を描きながら音もなく舞い降りてくる。
「テラ！」
そう叫ぶシンを、皆が驚きの表情で見つめた。
「おまえ今までどこにいた！？」
「そんなことはどうでもいい。私は今、おまえの中に宿った確かな意志に興味がある」
「おいおい、なんなんだよこりゃ」
フェイルが半分顔をひきつらせながら言う。
レリウスやミルズ、ダフも目をまんまるにしながらテラを見つめている。バルデスの大軍にさえ臆していないベルガーナの騎士たちですら同じ表情をしていた。
バルデス軍が粛々と迫っている緊迫した状況のなか、全員が目を瞬かせるようにしながら我が目を疑っている。
しかしテラはまわりなどには目もくれず、すべてを見通すかのような黒く丸い瞳を真っすぐシンへと向けてくる。
「お、おれの意志……って？」
シンはまわりをはばかるように聞いた。
「それこそが本来の力を呼び起す。今こそ真の力を発揮するときだ」
さすがにこの世界でもフクロウが人の言葉を話しているのは異常らしく、ラスティアもレリウスも、声ひとつ出せなくなっていた。
「今はそんなわけのわからないこと言ってる場合じゃな――」
「あの軍勢を止めてみろ、シン」
「は？」
「今のお前にならできる」
「なに言ってんだよ……」あえぐような声が漏れる。「できるわけないだろそんなの」
「シン、この――この鳥はいったい」
レリウスがようやくといった様子で口をはさんだ。
シンはなんとも答えようもなく、黙って首を振るしかなかった。
「レリウスと言ったな」
テラがレリウスの方へ顔を向ける。
「あ、ああ」
「なにか行動を起こすにはほとんど猶予もないだろう。ここはこいつに賭けてみろ。おまえたちが足掻くよりよほど希望がある」
レリウスはこれ以上ないほど真剣な表情でテラとシンとを交互に見つめた。そのまま迫る軍勢に目を向け、しばしのあいだ何かを考えるようにしていたが、再び視線を戻したときには不思議と何かを悟ったように、ゆっくりとうなずいてしまった。
そして後方を振り向くと、静かに片手を上げた。
「皆、私が指示を出すまで待機だ。いや――全員直ちにここを離れ、後方の援軍と合流せよ！」
さすがのベルガーナの兵たちも互いに顔を見合わせ、動揺した様子で口々に何かを言い合った。
一気に騒然となった主たちに感化され、馬たちが嘶く。
「そ、それはどういう意味ですか」
ミルズが慌てたように言う。
「いま言ったとおりだ。当然のように私が指揮を執っているが、むろん勅命を受けたわけではない。すべて私の独断であり、その責は私一人が負うべきものだ。そのうえで命じる――ミルズ、執政官として今回のことを王と重鎮たちへ伝えよ。これがあればおまえの話はすべて受け入れられる」
レリウスは中指にはめていた指輪はずし、ミルズに受け取らせた。
「こ、こんなと、鳥？ が言ったことを信じるのですか――この少年に何ができると」
「ミルズ、私は驚かない。私とラスティア様はすでに何度も彼に窮地を救われている。それに、私たちにとってシンは文字通り空から降って来た幸運そのもなんだよ。このフクロウと同じように」
レリウスはもはや笑ってさえいた。
「我々も残ります」
先頭の騎士が猛然と進み出てレリウスに告げる。
先ほど塔の下からレリウスの指示を仰いだ男だった。
「れ、連隊長？」
ミルズが咄嗟に聞き返す。
「号令が下ってさえしまえば、それほど時を置かず衝突してしまう距離です。何より街の人々を見捨て、かのアルゴード侯を置いて逃げおおせるなどできようはずがありません。我々はベルガーナの騎士です」
それ以上言葉はいらないだろうとでもいうかのような目でレリウスを見つめる。
ミルズは一瞬考え込むような素振りを見せたが、すぐに頷いてみせた。
「私も出来る限り最後まで見届けさせていただきます。正確な情報を伝えるためにも――いやご心配なく。すでに王都へ早馬も知らせていますし、いよいよとなったらこのミルズ、風よりも早くこの場を立ち去ってご覧にいれます。こう見えて馬の扱いは得意ですから」
断固として動かないぞという二人の様子を見て、レリウスはいたしかたないといった表情でうなずいた。
「さあ、シン」
テラが再びシンに迫る。
シンは震えながら首を横に振った。
「あ、あんな大勢相手に何をしろって」
「いい加減、認めたらどうだ」
テラのその声には苛立ちと、明らかな怒りとが混じっていた。
「なぜかは知らないが、おまえの頭の中にはおまえにとって必要と思われる知識がそろっている。それでも私がいないと基本的なエーテライズさえできないのは、おまえが目の前の光景を現実のこととして受け入れていないからだ。それが可能なのだと、信じていないからだ」
もしかしたら、という思いは常にあった。
いま自分のいる世界のことや、テラから教わったエーテルの存在とその扱い方。その一つひとつを目にして、経験していくたびに、もしかしたら自分にも物語の主人公と同じような力が？ と。だが――
「信じられるかよ」なんとか絞り出した声で言う。「あんな……本の中のことが、現実になるわけない」
そう。テラが言った知識というのはすべて、アルシノという老女が営む古書店で見つけた物語、一冊の本から得たことに過ぎない。たとえ今、目の前の光景すべてが現実のことだったとしても、自分みたいな人間が物語の主人公のように振る舞えるはずがない。
「情けない奴だ。隣の娘にこれほど強靭な意志を見せつけられておきながら、おまえは自分の力を試してみようともしないのか。これほどの現実を突きつけられてなお、おまえは自分の身に降りかかっているはずの出来事をわが身のこととして捉えられない。この場にいながら、どこか他人事のように考えている。だが、先ほどは違った。初めてお前の中に私が感じとれるほどの意志が芽生えたはずだ。この娘を――ラスティアを助けたい、というな」
シンの黒い瞳とラスティアの翡翠のそれとが重なり合う。しかしすぐにテラへと視線を戻す。
「でも、おれにそんなことは――そうだ、さっきみたくおまえが俺を操ってなんとかしてくれれば！」
「今の状況をこれまでのように共鳴で乗り越えるのは不可能だ」
「な、なんでだよ……おまえは、あいつらをどうにかできる方法を知ってるんだろ？ 今までみたいに何とかしてくれよ！」
「エーテルを纏う程度の力であの大軍勢を退けることは不可能だと言っている。この場を切り抜けるためにはお前のみが扱える力に頼る他ない。さあ想像せよ、あの軍勢を消滅させる現実を」
「消滅って――」
「信じろ、おまえの中に宿る知を。自分にはそのような力があるのだと確信しろ。そして目の前に起きる現象を創造し、必ずそうするのだと確信しろ。意志するのだ。さすればこの世の根源がおまえに応え、創造が現実のものとなる。それこそがおまえにのみ与えられた力の本質、〈セレマ〉だ。今まで教えたエーテライズなどその枝葉に過ぎん。シン、この世界と今ここにいる自身の存在を認めろ、明確な意志を抱いたおまえに勝てる者など存在しない！」
「おい……そろそろやばいだろ」
フェイルの言う通り、バルデスの大軍勢がいよいよ目前に迫りつつあった。
「シン……こんなことに巻き込んでしまってごめんなさい」
隣でぽつりと、ラスティアが言った。まっすぐバルデス軍を見据えていた翡翠の瞳が、ゆっくりとシンへと向く。
「でもおねがい……もしあなたに何かできるなら、そんな力があなたにあるなら、ここにいる人たちをたすけて」
ラスティアのかすれたような声に、自分の中の何かが動いた。
バルデス軍の歩みがぴたりと止まる。
しかし次の瞬間、何重にもなって隊列を組んでいた馬上の黒い騎士たちが地響きのような揺れを伴い、大量の粉塵を巻きあげながら駆け迫ってきた。
その圧倒的な光景を前に、シンはむしろ夢見心地のようになっていた。
「無理だ、テラ……あんな大勢を消滅させるなんて、おれには」
「なら、どうにかあれを押し留められるような現象を思い浮かべろ。それができなければこの場にいる者全員、踏み潰されて終わるぞ」
（あれを、押しとどめるような……？）
「レリウス様！」
ミルズの悲鳴が上がる。
「おまえはもう行け！」
「ですが！」
（誰もが、何もできなくなる……あの日みたいに？）
｟そうだ、シン。思い描け、お前の中の現実を｠
（あまりにも無力だったあの日……どんな力も及ばない、圧倒的なまでの風景）
そのとき――
「……雪だ」
迫りくる軍勢を前に呆然としていたダフが、ぽつりとつぶやいた。
ダフの前に舞い落ちたそれは、確かに雪の一粒だった。
「急になんなんだよ、この寒さは。じ、尋常じゃねえぞ」フェイルが両腕を激しくさする。「ふ、震え、が、止まらねえ」
「まさか、この時期に雪なんて」
ラスティアの息を呑むような言葉はしかし、やがて絶え間なく降り注ぎはじめた雪の前にかき消された。
「そんな――この季節に、ましてやザナトスに雪など、ありえない！」
ミルズが驚愕した表情で空を見上げ、叫ぶ。
それはベルガーナの兵たちはもちろん、バルデス軍ですら同じだった。
明らかに騎馬の速度が落ち、その全員が次々に空を見上げはじめた。
もはや、舞い落ちるどころの騒ぎではなかったからだ。肩に降り積ってしまうほど大量の雪と、全身が震え出すほどの寒波がその場にいる全員を襲った。
ラスティアとレリウスが蒼白な表情でシンを見つめる。それは決して寒さだけのせいではないようだった。
「これは、あなたが？」
「まさか、シンなのか？」
シンは二人の問いに答えなかった。いや、答えられなかった。自分でもわからないうちに、あまりにも深く、自身の記憶へと分け入っていたからだ。
シンの瞳はバルデス軍を見つめているようでありながら、すでに何ものも映していなかった。
いや、シンは確かに見ていた――かつて目にしたはずの、母を失った日の光景を。
そして――
シンの漆黒の瞳が、ラスティアのそれと同じ翡翠のごとく輝いた。
「――根源色」
ラスティアが目を見開き、叫ぶ。
「シン、あなたまさか！」
「……ああ、エルダよ」
シンを見つめるレリウスの祈りはしかし、すぐそばにいるシンの耳にも届かなくなる。
吹雪という言葉すら生ぬるい、暴力的までの雪の嵐が巻き起こった。
すべての視界を奪われ、すぐ隣にいる者の姿すら見えなくなる。大勢の者たちの何かを伝えようとする叫びも、真横から叩きつけてくる雪と風で掻き消され、五万にも及ぼうかとういうバルデスの軍勢は完全なる遭難状態に陥った。
息すらまともにできない悪夢のような状況の中、激しい混乱と恐怖に駆られたバルデスの黒騎士たちは無我夢中でもときた方角へと馬首をひるがし、馬ともども寒さで自由の効かなくなった手足を必死に動かしながら一気に逃走しはじめた。
はるか上空へと飛び上がり、遠巻きからその光景を眺めていたテラは一羽にしてつぶやいた。
「これが、おまえの絶望の風景か、シン」
その日――五万もの軍勢をもってアインズ領へと侵攻したバルデス軍は、たった一人の少年の前に崩壊し、敗走した。
