第27話「力なき者の末路」
耳鳴りのするような沈黙が、周囲を支配した。
シンたちが凍りついたように固まるなか、ベイルが握りつぶされた手首をかばうようにして後方へと下がる。負傷した人間とは思えないほど俊敏な動きだった。
「あ、あぁ……」
ラスティアはベイルのことなど気にも留めていないようだった。痛いほどの静寂の中、よろよろと塔の外縁へと歩み寄る。
「私はここで引かせてもらう」
ベイルがヘルミッドの背後に回り込み、言った。
「しばらくその腕は使いものになるまい。ずいぶんと醜態ばかり晒しているようだが、そんなんで《《あの方》》の期待に応えられるのか？」
「あなたには関係ないこと」
ベイルはそっけなく答えると、塔の暗がりへと身を投げ出してしまった。
さきほどのリリと同じように。
二人のやりとりを、シンをはじめ、誰も見てはいなかった。
ラスティアがふらふらと塔の外縁に歩みより、下をのぞき込む。
そして、その場へ崩れ落ちた。
レリウスが慌てて駆け寄りラスティアの身体を支え、苦痛に満ちた表情でその先から目を背ける。
「ね、姉ちゃん……？」
ダフもふらふらと下を覗き込み、そして――立ち尽くした。
シンには皆と同じようにそこを覗き込む勇気はなかった。
「また、まただ……」ラスティアがぽつりと言った。「また私は何もできず、こんな——」
「みすぼらしい娘一人が落ちたくらいで大仰なことだ。東とはずいぶんと命の重さが違うらしい」
『引け』
シンが――いや正確にはテラが突然シンの口から言葉を発した。
『おまえもこれ以上手出しは出来ないはずだ』
（テラ……？）
｟おまえの仲間を助けたいわけでもあいつをどうにかしたくなったわけでもない。ただ、おまえのあまりの不甲斐なさに口を出したくなっただけだ――なぜ、奴の手を離した｠
テラの言葉に、身体どころか意識まで凍りつく。
（そうだ。おれがあいつの手を離しさえしなければリリは――）
ヘルミッドはシンの様子を興味深げに伺う。
「引け、か……どうにも不可解なやつだ。俺やベイルを圧倒するほどのエーテライズを見せつけておきながら、考えられないような失態を犯す。そうかと思えば絶対的強者のような物言いもする……その気配も、発しているエーテルも、何もかもが……いったいどういうことか」
ヘルミッドや後ろに控える黒騎士たちから、得体のしれない何かを見つめるような視線を感じた。
「確かに、おまえ相手では兵を呼び寄せようとも相当の被害が出るだろう。俺自身もただでは済むまい」
『だろうな。おまけにここは塔の上で、一度に登ってこられる数も限られている。いたずらに兵を負傷させるだけだ。だが安心しろ、私におまえたちをどうこうしようとする気はない。下手に追いつめて手負いの獣のようになられても面倒だしな。というわけで、さっさと引き上げたらどうだ』
「いいだろう、おまえの言うとおり引くとしよう。ちょうど残りの兵たちも到着する頃だ」
ヘルミッドは静かに片手を上げ、バルデス側の国境を指差した。
全員の視線が一斉にそちらへと向く。
目を細めるようにしたのも、一瞬のことでしかなかった。
皆、一様に息を呑む。
暗闇の地平が広がる中、赤い線が横一線に走っているのが見えた。
それは松明を掲げた黒の騎兵たち――バルデスの大軍に相違なかった。
今塔を取り囲んでいる軍勢の、おそらく数倍にも上ろうかというほどの数だった。
「――後続がいたのか」
レリウスがつぶやくように言った。
「あれが本隊だ。あまり時間をかけているとベルガーナはむろん、アインズ全土から兵が集まってきてしまうからな」
「最初から一気に王都まで攻め入るつもりだったのか」
「攻め入るなどと、勘違いしないでもらおう。何度も言うが目的はあくまで邪教徒粛清にある」
「我が国がそのような戯言を認めるはずがない。それを見越しての進軍だろう。つまりは邪教徒粛清という名ばかりの大義を掲げた侵略戦争――」
「どうとでも言うがいい」ヘルミッドがレリウスの言葉を遮る。「アインズ、バルデスどちらを支持するかは西方諸国それぞれが決めること。我らの大義の前にはアーゼムとてうかつに介入はできまい」
「評議会を甘く見ると痛い目に遭うぞ。いくら東と北にかかりきりとは言え、アーゼム動けば世界も動く――わかっているだろう」
「ああ、だが事はすでに始まっている。おまえたちがどう出るかは知らないが、何もせずにいれば大きな流れの中に呑み込まれるのみ。せいぜい足掻くことだ」
ヘルミッドはそう言い残し、控えていた黒騎士たちを引き連れて塔から去っていった。
最後にいわくありげな視線をシンへと残して。
「そろそろ潮時ってところか」
フェイルの言葉が白々しく響き渡る。
「誰かは知らないが、礼を言う」レリウスがはじめてフェイルに声をかけた。「なんにせよ、危いところではあった。この子らには無念な結果となってしまったが……」
「それはどうかな」
「どう、とは？」
「あんたも俺と同じようなことを――」
レリウスはフェイルの言葉を片手で制し、傍らのラスティアに視線を向けながら小さく首を振ってみせた。
フェイルはひょいと肩をすくめると、塔の縁ぎりぎりまで身を乗り出しながら遠くバルデス軍を眺めた。
「よほど少なく見積もっても四万はいるな、ありゃ。まさかここまで本腰を入れて攻めて来るとはね。よほど周到に悪だくみしていたとみえる。だが、どうして下で待機させている兵でもって一気に攻めない？ ザナトスを落とすには十分の数だろうに」
「後続の軍と合流し、気勢を整えたうえで一気に攻め込むつもりだろう」
レリウスがフェイルと同じ方角に目をやりながら言う。
塔を降りたヘルミッドが、野太い号令のもと待機させていた兵たちを動かした。
松明に照らされた顔は、塔の上にいるシンたちを見上げている。しかしそれも一瞬のことであり、すぐに馬首をひるがえし、先頭を切って後方へと引いていった。
後方の友軍と合流するのは明らかだった。
「長時間待機させた軍を動かし、いきなり戦闘に突入させるのは案外難しい。わずか二千とはいえ我が軍と間近で向き合っている今のような状態ならなおさら、な。外周の人々を排除することでザナトスを威圧し、そのうえでラスティア様と私を捕らえてしまおうとしたのだろうが……シンの実力を相当甘く見積もっていたな、もしくは自分の力を過信していたか」
「ま、事態が好転したわけでもないけどな。むしろ相当悪くなってるぜ」
なぜフェイルがこのような状況で笑っていられるのか、シンには不思議で仕方なかった。
「これだけの兵力差があれば街を取り囲むだけで制圧完了だ」
「こちら側が降伏すればな」レリウスが言う。「とはいえ、今背を向けているバルデス軍を攻めるだけの戦力もない」
「いっそのことおまえが指揮官の首をとっておけばよかったんじゃないか。それか、人質にとるとかよ」
フェイルがあきれたような表情でシンを見る。
シンには何とも言いようがなかった。ラスティアの様子ばかりが気になり、その背中から目を離すことができなかった。
レリウスが険しい顔のまま首を振る。
「指揮官を殺されたとなれば塔を取り囲んでいた兵たちも黙っていなかっただろう。ましてや人質などと、そんな屈辱を味わうくらいなら死を選ぶような相手だ。そもそもシンは――シンにそのようなことをするいわれはない。ヘルミッドを退けてくれたことだけでも感謝しなくては」
「ま、あの大軍に押しつぶされもせず、この場で殺されるもしなかっただけでもエルダに感謝だな。ずいぶんとんでもないやつらとめぐり合っちまったわけだが」
今の緊迫した状況にはまったく相応しくないようなフェイルの態度だったが、一人の少女を無惨にも失ってしまった沈黙よりはよほどマシなように思えた。
ラスティアの、小さくなってしまった背中と、そのはるか向こう側に見える軍勢に、まるで現実味が伴わない。
「私のやったことは、なんだったの」
ふと、ラスティアが言った。
「ラスティア様？」
「バルデス軍を止められないどころか、リリひとりさえ守れなかった……いったい私は、何をしたかったの」
「……ちがう」
今まで口を閉ざしていたダフが、ぽつりといった。
「あんたが――ラスティア様がいなければ、俺も姉ちゃんも、とうにバルデスの騎兵に踏み潰されるか、頭を叩き割られていたさ」
「ダフ……」
「でも、でもさあ」
そこでダフは、こらえ切れなくなったかのように崩れ落ちた。
「こんなこと言って悪いんだけどさあ！ なんとか――助けてほしかったなあ！」
ラスティアはダフの肩を強く抱き寄せると、頭に顔を押し付けるようにしてつぶいた。
ごめんなさい、と。
「ラスティア様」レリウスが両の拳を握りしめながら言う。「あなたは出来る限りのことを――」
「力が欲しい……！」
ラスティアが叫ぶ。
「せめて、私の手の届く人たちを守れるだけの力が！ ロウェインの力が——私に器さえあれば、こんなことには……！ エルダよ、なぜ私にだけ与えなかった！ どうして私はこれほどまでに無力なの！」
どうしてぇ！
ラスティアのその幼子のような叫びはしかし、答える者とていないまま、血のように赤く染まった地平へと消えていった。
その光景はいつまでもシンの心に焼き付いて離れず、この先いくら月日が流れてもシンの記憶から消えることはなかった。
