第19話「動乱の序章」
（どんな境遇にあろうと、自らの意志次第で自由に歩んでゆける世界……）
ラスティアの言葉がシンの頭の中で反響する。
それは、もといた世界で幾度となく願ったことではなかったか。
貧困という名の生活から解放され、家族を養うことはもちろん今後の生活についてなんのしがらみもなく、自分の行きたい場所へ行き、なりたいものになる。
自分の力次第でいくらでも羽ばたいていける。そんな人生を送ってみたいと、日中のふとした瞬間に、くりかえされる夜の合間に、眠る前の暗闇の中に、自分は願ったのではなかったか。
だからこそ、エルダストリーという名を始めて耳にしたとき、思ったはずだ。
もしかしたら自分は、この世界で自由に生きてゆくことができるかもしれない、と。
まざまざと突きつけられた現実を前に色褪せてしまた景色が、見るみるうちに彩を取り戻していく。
シンは、まっすぐフェイルを見つめているラスティアの、その横顔から目を離せなくなった。
誰もが言葉を失うような状況のなか、フェイルの高らかな笑い声がザナトスの空に響き渡った。
腹を抱え、前かがみになりながらなおも笑い続ける。
「いったいおまえはどこぞの王だ！ いや、王でさえそんな世迷い事は口にしないな。世界を創るって、冗談にも程が過ぎるぜ！」
「冗談なんかじゃないわ」
ラスティアは表情ひとつ変えずに言った。
「な、なら、おまえのいう世界を創る方法とやらを教えてくれよ」
人を小ばかにするようなフェイルの態度に、シンはだんだん腹が立ってきた。
今までの自分の境遇はもちろん、たった今抱いた思いさえ馬鹿にされたような気がしたからだ。そしてそれはダフも同じようだった。シンと同じような顔でフェイルを睨みつけている。
「そこまで言うからにはこのクソったれな世の中を変えてしまうような、そんな冴えたやり方ってやつをおまえは知ってんだろ？」
ラスティアはうつむくように視線を落とした。だが、それも一瞬のことだった。
すぐに顔をあげ、フェイルに対し再び口を開きかけた、そのとき——。
ラスティアはフェイルを通り越し、遥か遠くを見つめるようにした。
「あれはなに」
ラスティアの視線につられるように、全員が同じ方向へと目を向ける。
そこには暗闇に覆われた景色が広がっているだけのように見えた。
シンには最初、ラスティアが何を見ているのか、何を言っているのかわからなかった。
しかし、ラスティアの険しい表情に釣られてよくよく目を凝らしていると、シンの瞳は間違いなくこれまで映していなかったはずの光景を映し始めた。
それは不思議な光景だった。
暗闇が落ちた平原に、さらに黒い線が一本、まるで地平の縁をなぞるかのように引かれている。
「まさか、騎兵かよ」
目を凝らしながらフェイルが言う。フェイルの目にも同様のものが映し出されたようだった。
「騎兵って、なんでそんなもんがここへ来るんだよ」
今まで黙っていたがダフが突っかかるように聞いた。
「おまえに会いにでも来たんだろうさ」
フェイルがそっけなく突き放す。
いつの間にかシンの目にも、黒い甲冑を身に纏い、黒い馬に跨った大勢の人間たちが横に長い行列をつくりながら一糸乱れぬ動きでこちらへ近づいてくるのが見えていた。
「――間違いない、バルデスの黒騎士だ」フェイルの表情が一気に険しくなる。「アインズの国境警備隊は何を見張ってやがったんだ」
「黒騎士って、バルデスの正規兵がなんでこんなところにいるんだよ」再びダフが聞く。「まさか、攻めてなんかこないよな。何の宣言もなく戦争なんてをおっぱじめたらアーゼムが黙ってない」
「俺が知るかよ。でもまあ、仲良くしましょうってやつがあんな大軍差し向けたりはしねえな。少なく見積もっても一万はいるぜ……よほど腹が立つことでもあったか、あるいは是が非でも手に入れたいもんがあるのか。せめてこちらの言い値でお買い上げいただきたいもんだ」
まだ距離があるとはいえ、フェイルの言う黒騎兵たちは確実にシン達のいる外周へと迫ってきていた。
突然ラスティアに腕をつかまれ、シンは驚いて彼女に目をやる。
「シン、『バルデスの大軍が迫っている』と、そうレリウスに伝えて。もっと近付いて来れば見張りの兵も気づくかもしれないけど、ここにいる誰かが駆けつければ最も早く情報を伝えられるわ。一瞬の判断の遅れが命取りになる」
そう言うラスティアの視線は片時も前方の大軍から離れない。
「お、おれが？」シンはラスティアの顔をのぞき込むようにして聞いた。「ラスティアはどうするんだよ！」
「ここに残るわ。もしあの軍勢が攻めてくるなら、なんとしても食い止めなければ」
「馬鹿かおまえは」フェイルが間髪入れずに言った。「おまえひとりに何ができる。あんなのが一気に押し寄せてみろ、たとえルードの阿呆を何人並べようが一瞬の足止めにもならん。ここら一帯跡形もなく踏み潰されて終わりだ」
「ここには大勢の人が暮らしているのよ。もし彼らが攻め込んできたらどれだけの被害が出るか、あなたにだってわかるでしょう」
「俺は食い止める方法のことを言ってる、それができなかった後のことなんか知るかよ。そもそも他人の命なんざどうでもいい。自分の身を守れるかもわからん状況ならなおさらだ」
「なら、あなたもすぐに逃げて――お願いシン」
ラスティアは懇願するような表情でシンを見る。
「なに言ってるんだよ、ラスティアも一緒に逃げよう！」
ラスティアははっきりと首を横に振った。
「言ったでしょう、私はここであの軍を止めなくては――そんな顔しないで、ちゃんと考えがあるの。ダフとリリは私と一緒に。きっと私のそばにいてくれた方が安全だわ。特にリリは走って逃げられるような状態じゃない」
ダフは二、三度うなずいたが、何を言われているかわかっていないようだ。シン同様、いまだ状況が呑み込めていないのか、黒騎士の大軍を前に呆然と立ち尽くしたままだった。
「だからシンは急いでレリウスに伝えて。すぐにベルガーナの兵を動かしてくれるはずよ……もしかしたらオヴェリアたちも動いているかもしれない」
ラスティアが独り言のようにつぶやく。
「彼女たちが『バルデス経由で東へ』向かったのだとしたら、あの軍勢にも必ず気づいたはず……そうよ、オヴェリアたちと遭遇していたとしたら、バルデス軍がここまで進軍してくること自体異常だわ……アーゼムほどの権限はないとはいえテルミアであるオヴェリアたちの存在は決して無視できないはず。それに国境から何の報告もないのは、いったい——」
「アーゼムに、テルミア？」ダフが混乱する様子で言った。「あんたら、本当に何者なんだよ！」
「今の話に、その瞳の色……おまえまさか」
フェイルはラスティアを問い詰めるような表情を浮かべたが、すぐに首を振って言い直した。
「おまえはあの軍勢を本当に一人で食い止めようってのか。いや、そもそも奴らはいきなり攻め込んでくるつもりなのか。まずは脅してやろうって魂胆かもしれな——」
足もとから伝わる確かな振動が、フェイルの言葉を遮った。
はっとした様子で再度視線を向けると、黒騎士たちが一気に馬足を加速させ、これまで押し溜めていた力を一気に解放するかのような勢いのままこちらへと迫ってくるのが見えた。
言葉を失う四人だったが、腹の底を直接揺さぶられるような振動へと変わるにつれ、全員の顔から血の気が引き、表情が一気に強張る。
外周で暮らす者たちも、いったい何事かと、ようやく遠くを見やりだす。しかし彼らの目ではいまだその全貌を伺うことができないのか、うつろな視線でまわりを見渡すことくらいしかできていなかった。
「脅しってわけじゃなさそうだな」フェイルが後ずさりながら言う。
「早く、時間がないわ！」ラスティアがシンに対し叫ぶ。
「でも！」
「私たちはひとまずあの塔の上へ！」
ラスティアが鋭く指差した方向には、外壁の手前にぽつんとそびえる崩れかけの塔が見えた。
「あそこならあの軍勢に飲み込まれず済むはずだし、私も状況を把握しやすいわ――ダフ、早くリリを連れてきて！」
有無を言わさないラスティアの指示に、茫然と立ち尽くしていたダフもはじかれたように天幕の中へ飛び込んでいく。
「あのおんぼろの見張り塔がまた同じ機能を果たそうとはね」
フェイルが独り言のような言葉を吐いた。
「いよいよ世界は動乱の時代へ、か……」
「城館に戻る道のことは覚えてる？ 仮に迷ったとしても人に聞けば必ずわかるわ。お願いシン、あなたには力が――きっとあなたなら誰よりも早くレリウスのもとへたどり着ける！」
走って！ そのラスティアの言葉に突き飛ばされるようにして、後ずさる。
足をもつれさせ、何度も後ろを振り向きながら、シンはようやくもと来た道を走りだした。
そのあとは、もう無我夢中で走った。息を切らしているかどうかもわからなかった。外壁付近ではじめてうしろを振り返ったとき、ちょうどバルデスの軍勢が外周の先端に届こうとしていたところだった。
そして――
暗闇の中、明かり一つ灯さない一万もの軍馬と黒い騎士たちが大煙をあげながら突進してくるのが見えた。
その光景は、まるで黒い津波がすべてを飲み込んでいくかのようだった。
隙間なくし見つめられていたおんぼろの小屋や天幕は、いとも容易く蹴散らせてしまっていた。不幸にも彼らの行く手を阻む形になってしまった者たちは、駆け抜けざまに頭を叩き割られ、長く鋭い槍で背中を貫かれ、あるいは勢いそのままに馬の蹄に押しつぶされた。
到底信じられない光景を前に、シンはしばしの間放心したように立ち尽くしてしまった。
目に映るすべてが飲み込まれていく。周囲の人々は耳をつんざくような悲鳴を上げながらザナトスの街中へ逃げ込もうと押し寄せて来る。
ラスティアたちが逃げ込んだ塔を飲み込んでしまうのも時間の問題と思われた。
シンは再び無我夢中で走り出した。
｟きっとあなたなら誰よりも早くレリウスのもとへたどり着ける！｠
最初シンにはラスティアの言っていることがまったく理解できなかった。だが、ひたすらレリウスの元へ戻ろうとしている今、はっきりとその意味を実感していた。
いつの間にかシンは、誰よりも早く、誰の足でも追いつけないような速さで、ザナトスの街をかけていたのだった。
