第16話「病の少女」
ダフの言葉を最後に三人は黙々と歩き続けた。
自分とは遠い世界の――文字通り異なる世界の出来事でありながら、どこか身近な出来事のように感じられていた。
もちろん、シンにダフのような経験はない。それでも、いくら働いても先の見えない毎日のことだけは知っていた。
生活のためとはいえ、高校生のバイトで稼げる額などたかがしれていた。いくら稼いでも自分で使える金など微々たるものだった。無限に吸い取られていくような気がして、すべてむなしくなった。
せめて自分のせいで生活が困窮したのであれば、まだあきらめもついただろう。だがシンの場合はそうではなかった。
どうして自分だけが――そんな思いはあらゆる可能性をシンから奪い、「どうせこの生活からは抜け出せない」といった気持ちを引き起こした。結果、いろんなものから目を背けてきた。そうしていなければ、周りと比べいかに自分が惨めかということを思い知らされてしまうから。
赤すぎる夕焼けが徐々に沈みかけようという中、黙々と歩き続けるダフの細く小さな背中には、まるで先の見えない自分の身の上だけでなく、病に冒された姉の存在までもがのしかかっているのだろう。
まるで、ほんの数日前の自分のように。いや、別世界にやってきたはずの今も、もとの世界での問題が解決されたわけではない。そのことが、シンの胸にあらためて重くのしかかってくる。
ラスティアの母親のことを聞いたときもそうだ。シンは自らの手足に繋がれている鎖を目にするたびに、今自分はエルダストリーという異世界にいるのだと言い聞かせた。
(とにかく今はこれから先どうしていけばいいか、そのことだけを考えろ)
そうする以外他ないだろう、と。
ダフの後について大通りを折れると、今までの喧騒が一気に遠ざかっていった。そのままどんどん細い道へと進んでいくと、すれ違う者もほとんどいない路地に出る。薄汚れた壁や建物に体を預けるようにして座り込む人々をぽつらぽつらと見かけるようになった。
(雰囲気が、今までと全然違う)
ちらちらとまわりに目をやりながら、自然と肩を狭めるようにして歩く。
自分なんかが踏み込んではいけない場所のような気がして仕方なかった。
(――くれぐれも街中から出ぬよう)
レリウスの言葉が頭に浮かび、シンは何度もラスティアに伝えようとした。だが、ラスティアのどこか思い詰めたような表情と、ダフの痩せ細った背中を見ていると、どうしても言葉が出てこなかった。
やがて目の前に見えてきた大きな外壁を通り抜けると、突然視界が開けた。
寄せ集めの材料を組み合わせた小屋や、うす汚れた布を張り巡らしただけの天幕が所せましと並んでいる。その隙間を縫うようにダフはどんどん先へと進んでいく。
ラスティアは立ち止ることなく歩き続け、シンもおぼつかない足取りでひたすらその後を追った。
しばらくしてうしろを振り返ると、今通り抜けてきた壁がザナトスの街を取り囲むようになっているのがわかった。
シンたちがやってきたレイブン側とは別方向、それも外壁の向こう側に位置するような場所だったため、目に入らなかったのだろう。ダフの言葉の通り、ここはザナトスの外側にあたる場所らしかった。
まるで街に出入りする人々から身を隠すかのように。
ダフよりぼろぼろの、衣服とも呼べない布に身を包んだ人々が、淀んだ瞳をあらぬ方向に向けながらいたるところに転がっていた。ときたま通り過ぎる者たちがシンたちをじっと見つめてくる。その視線から目を背けるように、シンは二人からなるべく離れないようにして歩いた。
突然ダフが足を止め、天幕の一つへと入っていった。
「姉ちゃん、起きてる?」
今までとは打って変わったようなダフの優しげな声が聞こえてくる。
「ダフ、どこへ行ってたの」
すぐにか細い声がそれに続いた。
「なんだかよくわからないけど、話を聞きたいって変なやつらを連れてきたよ」
ダフが中から顔を出し、シンとラスティアに中へ入るよう目くばせをした。
ラスティアが躊躇うことなく薄暗い天幕の中へと入る。シンは一瞬腰が引けたが、周囲の人々から注目を浴びていることに気づき慌てて後に続いた。
ダフとラスティアの背中越しに一人の少女の姿が見えた。地面に直接敷いた薄い布の上で、上体のみ起こしている。
ひどく大人びた表情のせいかシンよりずっと年上のように見える。ダフよりは多少整った身なりをしていたが、そこから露出している腕や胸元は異常なほど白く、骨が浮き出ていた。顔だけは妙に火照っており、どこか艶めかしい色気のようなものがあって、何だかシンはまともに目を合わすことができなかった。
「あなた方は……?」
リリと呼ばれた少女は重い息を吐くようにして聞いた。
ラスティアが膝をつき、少女と目線を合わせる。
「私はラスティア。ギルドであなたを助けようとするダフを見かけて、ここまで案内してもらったの。あなたたちの力になれると思って」
「力に……?」
リリの琥珀色の瞳が大きく揺れる。
「いつから、どんな症状が?」
「え? あの、七日前から体が熱くなって……動こうとすると全身に痛みが」
「関節が痛むのね」
「は、はい」
「他には?」
「あとは……体が重く感じて」
「以前にも同じようなことが?」
「いえ、こんなことははじめてです」
「ちょっとごめんなさい」
ラスティアが近づくとリリは反射的に身を反らしたが、ラスティアはまるで気にする様子もなくそのまま額に手を当てた。
「かなりの熱ね。口をあけて――喉や頭の痛みは?」
「あります……ずっと続いるせいであまり気にならなくなってしまいましたけど」
「あなた以外に同じような症状の人はいる?」
「いえ、私が聞く限りでは」
「ダフは? 調子はどう?」
「なんで俺にまで聞くんだよ」
ダフが言う。
「いいから答えて」
「腹が減っている以外は絶好調さ」
おもしろくもないといった様子でそっぽを向く。
「無暗に人へうつすような類の病ではないわ」
「人にうつすだって?」
ダフが身を乗り出しがら聞く。
シンも途端に息がしづらくなった気がした。
「大丈夫よ、周囲の根源が乱れていないから心配はしていなかったけれど」
「エーテルって――まさかあんた、エーテライザーなのか」
驚きの声をあげるダフに、ラスティアがゆっくりと首を振った。
「少しばかり知識があるのと、たんに基本的な業を扱えるだけよ」
「あなたたちは、いったい……?」
リリがラスティアとシンを交互に見つめる。
「ごめんなさい、訳あって今は話せないの」
「俺たちみたいな人間に身分は明かせないってか」
「お姉さんを診てもらえるなら私たちのことなんてどうでもいいでしょう」
ラスティアが事もなさげに言うと、ダフは舌打ちしながら黙った。
「非礼を承知で言うわ。あなたは、体を売って生計を立てていると聞いた」
ラスティアはためらいがちに、だがはっきりとした声で聞いた。
リリがダフへと視線をやる。ダフは気まずそうにうつむいた。
「そうです」
リリがため息交じりにそう言った。
シンはいたたまれなくなり、すぐにでもこの場所から出ていきたくなった。それと同時に、やるせない、ひどく落胆した気分に襲われていた。
昨夜目にしたばかりの、幻想的だったザナトスの街が、自分の中で急激に色褪せていくのがわかったからだ。
もといたはずの世界となんら変わらない光景が――自分なんかとは比べものにならないほど報われない人たちが当たり前のように存在し、現実のものとして現れたからだ。
よくよく思い出してみれば、シンが読んだエルダストリーの物語も決しておとぎ話のようなものなどではなく、むしろその逆だった。
主人公の青年ウォルトの目を通して描かれた英雄譚であると同時に、あらゆる人の生と死とを描いた群像劇でもあった。そこには心躍るような冒険もあれば、多くの悲劇もあった。そのひとつひとつの物語に、シンはどうしようもなく心惹かれたのだ。
物語として読むのと実際に目の前に突きつけられるのとでは、心にのしかかる重さがまるで違う。そんなあたりまえのことに、シンは今更ながら気づいたのだった。
エルダストリーにやってきて数日が経ち、この世界のことを徐々に受け入れられるようになってきたからこそ、ダフとリリ二人の境遇を前に、息を潜めたくなるどころか、今すぐにでもこの場からいなくなりたい思いに駆られていた。
「もしかしたらだけど、《《それ》》が原因かもしれない。相手の――客になった男のもっていた悪いものが、あなたにうつった」
「それはどんな病気なの」
リリより先にダフが聞いた。
「はっきり言うわ、リリ」
ラスティアはダフには応えず、リリの方をまっすぐ見つめながら口にした。
「もし私が恐れている病であれば、とても危険な状態よ。仮にこの先、一旦病状が落ち着いたとしたとしても、あなたの命はそう長くはないかもしれない」
「なに言ってんだよ!」
詰め寄ろうとするダフをリリの鋭い視線が止める。病弱の少女が見せるような威厳ではなかった。むしろシンには、彼女が厳しい母親のように見えた。
リリはしばらくのあいだラスティアと見つめ合っていたが、やがて小さくうなずくと、深々と頭を下げた。
「もしかしたら、とは思っていました」
「そんな――そんなことないって!」
ダフが叫んだ。リリは黙って首を振った。
「仕事を教わった方から聞いてはいたの。覚悟していたことよ」
「リリ姉ちゃん、こんな女じゃなく、ちゃんとした治療師に診てもらおうよ! 治療師ならきっとなんとかしてくれるって――」
「アーゼムか、高序列のエーテライザーであれば、もしくは」
「馬鹿げたこと言ってんなよ!」ダフがラスティアに叫ぶ。「そんなとんでもないやつらにどうやって診てもらえってんだよ!」
「ダフ、いいの」リリの静かな、だが決然とした声が天幕の中へと響いた。「もういいのよ。むしろ私はあなたの方が心配なくらい」
その姿が、なぜかシンの中にいる人物の面影と重なった。
(どうして、似ても似つかないのにあいつの顔が浮かんでくるんだ)
あらためて突きつけられ、息が詰まりそうになる。
自分がここにいるということは、もといた世界に――家族のもとに、自分はいないのだということを。
しばしの間、四人の間を沈黙が支配した。
誰もが何かを言おうと探り合っているような空気のなか――
「ラスティアは、どうしてここに来たの?」
気づけば、そうつぶやいていた。
三人が同時にシンを見る。まるではじめてそこに人がいることに気づいたかのように。
「きみはこの人たちの力になるために、ここまできたんだろ」
あまりにも他力本願な言葉だった。言ってしまったあとで自分が情けなくなる。
それでも口にせずにはいられなかった。もうこの姉弟のことが人事のように思えなくなっていた。
ラスティアが深くうなずき、口を開きかけたときだった。
「そこにいるのは誰」
ラスティアは途端に入口の方を振り向き、鋭く言い放った。
少しの間のあと、天幕全体に影を落とすほどの大男が現れた。
「盗み聞きをするつもりはなかったんだが……あんたらがいったいなにをしてくれるか、俺も知りたくてなあ」
大男は小汚い髭を撫でながらそう言った。




