追加エピソード③「蔑視」
「彼は私の恩人で――」
ラスティアが言った。
「恩人ですって? あなたの? いったい今度は何をやらかしたというの」
あまりにも横柄で無遠慮な態度に、まったく関係のないシンもさすがに心穏やかではいられなくなる。「何かおまえに関係があるのか」と言ってしまいたい気持ちにさえなっていた。
しかし実際には無暗に口を挟めるような空気ではなかった。その証拠に、オヴェリアの発する敵意といったものの凄まじさに、先ほど囁き合っていた客たちもすっかり黙り込んでしまっていた。
「それは――」
「サイオス・ライオはいったい何を考えてあなたなんかを弟子にしたのかしら」
オヴェリアは自分で訊いておきながら、ラスティアの返答などまるで聞いていなかった。
「いくら導師とはいえ、自由に振る舞うにも程があるわ」
「言い過ぎだ、オヴェリア」
いつの間にかオヴェリアの後ろに控えていた青年が、彼女の肩に手を置く。
「僕たちごときがどうこう言えるお方じゃないだろう?」
青年はオヴェリアの発言を諫めながらも、どこか不自然な笑みを浮かべている。
シンほど黒というわけではないが、それに近い髪と瞳をもつ、端整な顔つきの青年だった。
そのことが余計、彼の表情の不自然さを際立たせていた。
「エル・シラでもアンブロでも散々口にされていたことよ。エバセル、あなただって知っているでしょう――『トレギアの英雄』が聞いて呆れるわ」
エバセルと呼ばれた青年は形だけ困ったような表情を浮かべ肩をすくめた。
「サイオスを貶めるような発言はやめて」
ラスティアが静かに立ち上がり、座ったままのシンをよそにオヴェリアと正面から向き合う。
思わずシンは壁に背中を張り付けるようにして互いの視線に入らないようにした。
「貶めているのはあなたよ」オヴェリアは口の端を吊り上げながら言った。「そうでしょう? ハーノウン。あなたの存在そのものがサイオスを――いえ彼だけじゃない、ロウェインの血を引く私たち全員を貶めているのよ」
「オヴェリア、私はロウェインの名に恥じ入るような生き方はしていないわ」
オヴェリアの表情に、なにか、危うい感情が降りてきたのが、シンにもわかった。
「なんですって? 私に向かって、今なんと……?」
オヴェリアのただならぬ気配に一瞬怯んだ表情を見せたラスティアだったが、引くようなことはしなかった。
「あなたに――父や姉たちに恥じるような生き方を、私はしていない」
その瞬間、オヴェリアの瞳が蒼き光に輝いた。
「どの口が言ってるの!」
オヴェリアの叫びとともにラスティアの体が店の端まで吹き飛び、壁へと叩きつけられた。
店内の客たちが叫び声をあげながら一斉に飛び退く。
「ラスティア!」
シンが慌ててラスティアのもとに駆け寄る。
(またあの力か!)
「だめだよ、オヴェリア」
エバセルがオヴェリアを諫めた。残りの二人もひどく慌てた様子でオヴェリアの前に立ち塞がる。
「個人的な理由でエーテルを扱うことは禁じられているだろう」
そういいながらも、あの不自然な笑みを引っ込める様子はない。
「なにがおかしいんですか」。
気づけば、そう口にしていた。
「ほら、そこの彼も怒っているみたいだ」
エバセルが困ったようになおも笑いかける。
その表情と態度が余計、シンの感情を逆なでした。
「こんなことをしていおいて、謝ることもできないんですか」
「ああ、悪かったね」
「やったのはあなたじゃないでしょう」
「やられたのも君じゃないだろ」
(――ふざけるな)
その瞬間、光の奔流がシンの身体を取り巻いた。
まるで生き物のように蠢き、相手を威嚇するかのような輝きはしかし、シン自身には目にすることも、意識することもできなかった。
周囲の客たちもシン同様、突然現れた光に目を奪われるようなこともなく、固唾を呑むように突然始まった揉め事の成り行きを見守っている。
しかし、オヴェリアたちは違った。瞬時に表情を強張らせ、半身に立つようにして身構える。
「器保持者……!」
「今の発現は何だ」
「それに、あのエーテルの過多は――」
オヴェリアたちの表情に明らかな動揺の色が浮かんだ。
エバセルも今まで浮かべていた笑みを引っ込め、探るような目つきでシンを見つめる。
「……僕たちに全く感知させないなんて、君、そこいらのエーテライザーではないね。だが、テルミアたる僕たちに牙を向けるような真似はどうかと思うよ」
「争うつもりはありません」シンがさらにエバセルを睨みつける。「ただ、黙って見ているつもりがないだけですよ」
「確かに、ずいぶんと頼もしそうな『恩人』じゃない、ラスティ」
今までとは打って変わり、凶悪な笑みを浮かべたオヴェリアが言う。
「いったいどこで知り合ったの。私にも紹介してくれない?」
一瞬、オヴェリアの身体が蜃気楼のように揺らめき、そして、こちらに向かって一歩踏み出した。
(なんだ、今のは)
オヴェリアのただならぬ様子に、シンも気づきはじめていた。
「よせオヴェリア」
エバセルがオヴェリアを手で制す。
「掟を忘れたわけじゃないだろう。それにーー彼はどこか、得体が知れない」
「シンも、お願い」ラスティアも身を乗り出しかけていたシンの腕を掴む。「彼らはアーゼムとなるべく修練を積んだ選別者たちよ。特にオヴェリアはロウェインの――」
「よくわからないけど、許されるようなことじゃないだろ」
シンがオヴェリアとエバセルを睨みつけたまま言う。
「そこまでにしてもらおうか」
店内の張り詰めた空気と沈黙を切り裂いたのは、落ち着いた響きの、けれど有無を言わさぬ声だった。
奥に引っ込んでいた店主が、大きな袋を抱えさせた店子を引き連れて店の中央に立つ。
「白昼堂々と、それも常人相手にエーテルを振るっちまうとはな。最近のテルミアってのは随分としつけがなってないらしい」
「お言葉ですが、彼女も一応『我々側』の人間でして。それにその連れである彼も」エバセルはそこで視線をシンに向けた。「僕たちの見立てではかなり上位のエーテライザーですよ」
「俺の店で騒ぎを起こし、周りの客を怯えさせたことについてはどうなんだ。自分たちがどんな存在か、アンブロでもう一度厳しく学び直してくるんだな」
「そのことについては、心からお詫びを」
今まで黙っていた一人がエバセルを押しのけるようにしながら店主に向かって頭を下げる。
「……いま売れるだけのハーグルムだ。払うもの払ったらとっとと出ていってもらおうか」
「そうさせてもらいますよ。行こうオヴェリア、確かに今回のことはこちらに非がある」
エバセルはオヴェリアの背中に軽く手を添えて促すと、一瞬シンに目をやった後、扉に向かって歩き出した。
「迷惑をおかけしました。これは代金とは別にお詫びとしてお受け取りください」
頭を下げたテルミアの一人が何枚かの銀貨をカウンターに置く。
「あなたが何をしようとしているかは知らないし、興味もないわ」
オヴェリアがラスティアを見下ろしながら言う。
「けれど私たちを、ロウェインの名を汚すような真似をしたら――わかってるわね」
ラスティアは口を結び、オヴェリアから向けられるあまりにも冷たい、侮蔑の視線を真っ向から受け止めていた。
二人の容姿や会話から察するに、おそらく血縁者なのだろう、ということくらいシンにも分かった。だが、その相手から向けられる感情としては、見る者の心を痛めずにはいられない凄惨さがあった。
オヴェリアは一瞬シンを一瞥すると、濃紺の外套を翻し、残りの三人を引き連れ店を出ていく。
エバセルと呼ばれていた青年は最後まで意味ありげな瞳をシンに向けていた。
シンは彼らから一度も視線を外さなかった。そのせいか、四人が姿を消した瞬間、一気に全身から力が抜けた。
「ごめんなさないシン」
ラスティアがシンの腕を掴んだまま言った。
「私たちのことに巻き込んでしまって」
「そんなことより、大丈夫なの」
「ええ。オヴェリアも本気ではなかったから」
そう言って、ふらつきながら立ちあがろうとするラスティアを慌てて支える。
「本当に? 全然そうは見えなかったけど」
ラスティアは苦笑したように首を横に振った。
「彼女が本気だったら、しばらくは立ち上がれなかったでしょうね」
「まさか、噂のハーノウンとやらにお目にかかれるとはな」
こちらにやってきた店主がラスティアに言う。
「お騒がせして申し訳ありません」
ラスティアが頭を下げる。シンもつられてそれに倣う。
「まったくだ。だがまあ、俺にとっちゃアーゼムだろうがテルミアだろうが、ハーノウンだろうが客のひとりだ。特別扱いはしない」
店主は乱雑に倒れていたテーブルと椅子を片付けはじめた。シンとラスティアもそれを手伝う。
「このお詫びは必ず――」
「いらねえよ」店主はすぐに遮った。「あいつらが十分すぎる額を払っていきやがったからな。今いる客全員の分を支払っても釣りがくる」
「なんだよゼフ、おまえが奢ってくれるってのか」
常連と思わしき客のひとりが声をかける。
「俺の懐が痛むわけじゃねえ」
ゼフと呼ばれた店主が言うと、周囲の客たちは一斉に歓声を上げた。
「当然、おまえらの分もな」
「いえ、そういうわけには」
ラスティアの発言を無視するかのようにゼフが目くばせすると、うしろから店子の一人がやってきてシンたちが片付けたテーブルに皿を二つ置いた。
「一度注文した以上はしっかり食べていってもらうからな」
皿の上にはチョコレートのような色をした大きな木の実が乗せられており、綺麗な白いソースが上品にかけられ、緑の小さな葉がちょこんと添えられていた。
見るからに甘そうなスイーツ系料理を前に、シンの腹はあまりにも正直な音を立てた。
「結構なことじゃねえか、さっさと食っちまいな」
ゼフがシンに対しにやりと笑ってみせた。
シンは若干赤くなりながら再び席についた。なんだか知らないが、今はとにかく身体中が甘みを欲していた。
ラスティアも落ち着かない様子でシンの前に座る。
その時になってシンは、ゼフ以外の人間たちが盗み身するようにラスティアの方を見ていることに気づいた。
そしてそれは、決して好意的なものではなかった。
どこか、人を値踏みしているような。何か、触れてはいけないものを遠巻きから眺めているかのような。その視線と周囲の空気は、シンが初めて口にしたハーグルムの新鮮な甘みをわからなくさせてしまうほどの居心地の悪さを感じさせた。
周囲の視線や囁きに晒され、無言のまま料理を口に運ぶ目の前の少女に対し、シンはかける言葉を失っていた。