追加エピソード②「テルミア」
何か目的の店でも探しているのか、ラスティアはきょきょろと視線を動かしては、賑やかな街道を足早に歩いていく。その背中を見失わないよう、シンも慌ててすぐ後をついていった。
「さっきの人混みでのこともそうだけど、ラスティアと離れたら一瞬で迷子になる自信があるよ」
「そんなことないわよ」ラスティアが笑う「少なくとも、レリウスのいる城館にはすぐ戻れるはずだから」
「どうやって?」
「ほら、見て」
ラスティアが指し示した方角を見ると、建物の屋根の合間からシンたちがいた城館の上部と、いくつもの旗が風になびいている様子が見えた。
「ザナトスは大きな丘の上に造られた街なの。もし道に迷ったときは常に城館を見上げるようにしながら街中の道を上っていけば必ずたどり着けるわ」
「それを聞いて安心した」思わずほっと息をつく。「でも、ラスティアも初めての街なんでしょ? ずいぶん詳しいね」
「エルダストリーの地理や歴史はそれなりに学んできたし、何かと旅慣れてもいるから――あの店なんて良さそう。人の出入りもあるし」
元気よく振り向いたラスティアが指さしたのは、幼い頃絵本で見かけたような店だった。煉瓦屋根の看板には、今まで街中で目にしてきたとき同様、シンに読むことができない文字で何かが書かれている。
おかしなもので、会話には何も支障がないにも関わらず、エルダストリーで使われている文字についてはまったく判読することができなかった。
「ごめんラスティア、今更なんだけどおれ、ここの文字が読めないみたいなんだ」
ラスティアの驚いた表情が、すぐに申し訳なさそうな顔へと変わる。
「ごめんなさい、全然気づかなくて……文字が読めないというのは、その、以前から、ということ?」
「え? ああ、そうじゃないよ。こっちの世界ではどんな感じかは知らないけど、もといた場所では普通に読み書きできていたよ。学校にも普通に通ってたしね」
「ということは、エルダストリーで使われている文字が――西方諸国では大陸公用語であるロマリア語が使われているけれど――それがわからないということなのね」
「うん。ただ、初めてここへ来てラスティアたちの会話を耳にしたときは、何を言っているかはっきりわかったんだ」
空を飛んでいる最中、頭の中にラスティアの姿が映り込んできたことまでは流石に言わなわかった。そして、この世界の住人たちと接する中で気づいたことも。
それはラスティアたちがシンと同じ言葉を使っているのではなく、彼女たちの話している言葉が頭の中で勝手に翻訳されているのではないか、ということだった。その証拠にシンが理解する言葉の意味とラスティアたちの口の動きとの間には明らかな違いがあった。
逆にシンが話している言葉も、同じようにラスティアたちに伝わっているということなのだろうか。実際はどのような仕組みで意思の疎通が図れているかはわからないが、そこまで(誰かが、あるいは何かが)融通を利かせていながら文字については全く読めないというのはいったいどういうことなのか。
「そうね……以前、東の大陸から来た人と接する機会があったけれど、お互い何度も聞き返さないと言葉の理解が難しかったの。でもシンには全くそういうことがないし、むしろとても綺麗な発音をしているくらい」
「え、そうなの」
「それに、その声も――」言いかけて、一瞬視線を外す。「だから、文字についても全く問題ないものと思ってしまっていたの」
「おれにもよくわからないんだけど、とりあえず会話に支障がないだけでもありがたいと思うことにするよ。文字のことは……なんとかするしかない、のかな」
考えてもどうせ答えの出ない類の事柄だったため、シンは頭の片隅に疑問を追いやった。
「シンさえよければオルタナへ向かう道中、私が教えることもできるわ」
「それは、すごく助かるかも」
シンは二、三度頷いた。
「それで、早速で悪いんだけど、この店の看板にはなんて書いてあるの」
「『ハーグルム専門店、ゼファード』ね。ギルドの認定証もあるし、味と質については問題ないはず」
「ハーグルム? ギルド?」
「ハーグルムはテオスブロマーブルという常緑樹から取れる木の実のことよ。アーゼムやエーテライザーの非常食として重宝しているけれど、そのまま食べたら結構苦味があるし、お世辞にも美味しいといえる食べ物ではないわね」
おそらくエルダストリーでは常識とも思われることについても、ラスティアはすっかり慣れた様子で説明した。
「この店のように職人がお菓子にして売ることが多いわね。結構扱いが難しいらしくて、出される味は本当にそれぞれよ。だからハーグルム好きな人は、自分の舌にあったお店を見つけて常連になってしまうことが多いの」
「お菓子か」
チョコレート、みたいなものなんだろうか。今までそれほど好きというわけではなかったはずが、シンの頭はすっかり「ハーグルム」一色になっていた。
「まずは入ってみましょう。私も何か口にしたいと思ってたところなの」
初めて足を踏み入れたエルダストリーの店の中は、おおいに盛況していた。
ほとんど席が埋まっている客のあいだを、清潔そうな制服を着た数人の店子たちが足早に動き回っている。
ラスティアがちょうど客の立ち上がったテーブル席に近寄り、手招きする。
「ずいぶん流行ってるみたいだけど」シンがまわりを見渡しながら言う。「人気のお店なのかな」
「きっとそうね。扱っているハーグルムも『ノスタリア産』って書いてあるし。この国の南方やペレーネという国でも採れるけど、甘みの質がだいぶ違うの。それも人気の理由なんだと思う」
注文をとりにきた店子の女性に、ラスティアは手慣れた様子でおすすめの商品を聞き出し、二つ頼む。
「ラスティアは、こういうお店によくくるの?」
「数年前までいろんな国を旅してまわったから」
「あ、さっき言っていた師匠っていう人と?」
ラスティアがうなずく。
「私が無理やり押しかけてお願いしたんだけれど」
シンが詳しく聞こうと口を開きかけたときだった。
店の扉が鳴らす涼やかな鐘の音が響き渡った後、店内の喧騒がぴたりとやんだ。
シンの向かい側に座るラスティアの視線が明らかに揺れたのを見て、咄嗟にうしろを振り向く。
見るからに上等な濃紺の外套を着こんだ数人の男女が、音もなく店内へと入って来るのが見える。
外套の下から覗く顔は、いずれも若かった。
「選別者か、珍しいな」
「いったい何の用かしら」
シンの耳に客たちの囁きが耳に届く。
(てるみあ?)
「悪いが、今は席が空いてない。少し外で待っていてくれないか」
店主と思わしき禿げ頭の男がカウンター越しに声をかける。
「いえ、食べにきたわけではありません」
先頭の若者が言った。
「ハーグルムをあるだけ買い取らせてほしいのです。支払いはそちらの言い値で構いません」
「ハーグルムを、あるだけだと?」
「ええ」若者がうなずく。「東への補給物資として。バルデス経由で向かうつもりなのですが、知ってのとおり彼の国ではノスタリア産のハーグルムはほとんど流通しておりませんから」
シンの周囲がにわかにざわつきはじめる。
「エル・シラは——アーゼムはテルミアまで参戦させるつもりのか」
「今回の半獣どもの侵攻はそれほどの規模ってことだろう」
「アインズが兵を派遣するのも時間の問題だな……」
テルミアと呼ばれた四人の若者たちは周囲の様子にはまるで構う様子はなく、まるでそこに存在していないかのような気配で佇んでいた。
「全部ってわけにはいかんぞ。こっちも客相手の商売だからな」
「売ってもらえる分だけで構いません。他の店にもあたるつもりですので」
「……少し待ってな」
店主が奥に引っ込んでいったあとも、満席の客たちは物珍しさと怯えとが入り混じったような視線を四人の若者たちに向けていた。
ただひとり、シンの向かい側に座る少女を除いて。
ラスティアはどこか落ち着かない様子でテーブルの上で両手を組み、じっとそこへ視線を落とすようにしていた。だが、その姿が逆に目についてしまったのか、やってきた若者の一人が――外套目深に被った年若い女の一人が――こちらを向いた。
その瞬間、彼女の瞳がかっと見開かれた。今までの静寂さを脱ぎ捨てたかのように大股でこちらへ近づいてくると、シンのことなど見向きもせず、ラスティアを見下ろす。
「なぜ、あなたがこんなところにいるのかしら、持たざる者」
ラスティアを見下すようにしている瞳と表情は、思わずシンが固まってしまうほど冷たかった。
「オヴェリア……」
ラスティアがぽつりとつぶやく。
シンは二人を交互に見た。そして、驚いた。
(この二人は――)
「なぜ、ここにいるのかと聞いているの」
「オルタナへ向かう途中なの」
「オルタナですって? 観光にでも行くつもり」
「そういうわけでは」
「このような時勢にいったい何を考えているの。せめて大人しく引きこもっていればいいものを、あなたの存在自体がロウェインの名を貶めるということをもっと自覚なさない。サイオス・ライオは、まだあなたと一緒に?」
「いえ、サイオスとはもう――」
「あなたはなに」
「え?」
突然オヴェリアの冷酷ともいえる視線にさらされ、言葉に詰まる。
いやそれ以上にシンは、二人の容姿があまりにもよく似ていることに驚きを隠せなかった。