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プロローグ

 あの淡い緑色の光が、自分の最後にたどり着く場所だと思った。



 ξξξξξ



「――気づいたら、ここに来てたんだ」


 その少年の姿に、古書店の女店主アルシノは目を丸くした。


 店の外では、橙色の街灯に照らされた雪が絶え間なく降り続けている。そんな中、帽子も上着も身につけず、長いこと歩いてきたのだろう。少年はぐしょ濡れの状態で店の前に立っていた。


 アルシノは慌てて少年の手をとり、店の中へと引っ張り込んだ。


 氷のようになっていた少年の拳に痛々しい傷があるのに気づく。その周囲には、どす黒い血の塊がべっとりとこびりつき、固まっていた。


 アルシノは表情を強張らせながら少年の腕をつかみ、半ば引きずるようにして店の奥へと連れていった。


 店内には天井高く積み重ねられた本や巨大な本棚がいくつも置かれており、ありとあらゆる種類や年代ものの本が隙間なく並べられていた。

 老女と少年が店の中を横切っていくと、ランタン照明の淡い光がふたつの影を大きく揺らめかせた。


「真、何があったの」


 アルシノはシンと呼んだ少年を小さな電気ストーブの前へ座らせた。そして、清潔な白いタオルを頭から被せると、少年の顔を覗き込むようにしてもう一度たずねた。


「どうしてこんな夜更けに、私の店へ?」

「気付いたら、ここにいたんだ」


 もう一度、真が答えた。質問の答えにはなっていなかったが、アルシノは深くうなずいてみせた。


「その手のけがは?」


 今度は反応がない。一切の表情がなくなっているように見えるのは、寒さのせいだけではないようだった。その視線も、いったいどこを見ているのかわからない。焦点が定まっているかどうかも疑問だった。


「どこから歩いて来たの? あなたの家?」


 ゆっくりとうなずく。


「家で、何かあったのね?」


 アルシノは慎重に、言葉を選ぶようにしてたずねた。

「誰か人を、傷つけてしまったの?」


 シンは血のこびりついた両手で自分の頭を覆い、小さくうなずいた。


 ゴーン、ゴーンという低い鐘の音が、少年の肩をびくりと震わせた。本棚に埋もれるように置かれていた柱時計の針が、深夜の訪れを告げていた。


 アルシノは何とか言葉を紡ごうとしたが、わずかな息が漏れるだけで言葉にならなかった。電気ストーブの小さな機械音だけが響き渡る店内で、黙って少年の姿を見つめることしかできなかった。


 そのとき——


 カタカタカタという、まるで地震の前触れのような音が、どこからともなく聞こえはじめた。


 アルシノが素早く周囲に視線を走らせる。だが、何かが揺れているような気配はどこにも見当たらない。


「――おれ、《《あいつ》》を」


 何も気づいていないシンが再びつぶやいたとき。


 視界の中を眩い緑の閃光がほとばしり、二人は咄嗟に目を背けた。


 店内は瞬く間に淡い緑光で満たされ、一瞬のうちに二人を包み込んでしまった。


 光は、カウンターの上で開かれていた一冊の本から発せられていた。


 アルシノが息を呑み、言った。

「――アルグラフィア」


「アルシノ、この光は」


 アルシノは不安げに揺らぐ真の瞳を長いこと見つめ続けた。


 そして、意を決したように真の両肩をつかみ、言った。

「これはアルグラフィアと呼ばれる古の本。きっと、あなたを呼んでいるんだわ」


「呼んでる?」


「よく聞いて真」

 アルシノはアルグラフィアに目を奪われているシンの顔を自分の方へと向かせた。

「あなたはアルグラフィアに、この古の物語に選ばれたの。おそらく今日、あなたの身に起きた出来事が――何があったのかはわからないけれど――そうさせたのだと思う」


「俺の身に起きた、出来事……?」

「だから、あなたも選ばなければいけない」

「……選ぶ?」

「このまま今の現実に留まるか、それとも、物語の世界へと旅立つか」

「物語って――何を言ってるか、全然わからないよ」


 ひどく混乱しているようなシンに対し、アルシノはゆっくりとうなずいてみせた。


 再びシンのひやりとする手を取ると、もう片方の手で開いていた本のページに触れる。


 目を閉じたアルシノが何事かをつぶやくと、周囲の光はますますその輝きを強めていった。


 やがて二人の姿は光の中へと消えていった。



 ξξξξξ



「――ごらんなさい、シン」


 アルシノの声が、シンの意識を呼び起こした。


 いつの間にかシンは、鳥のようになってその世界を見渡していた。


 橙色に輝く空が、どこまでも果てしなく続いている。地平を縁取るようにしている太陽の光が、まさに今、沈んでいこうとしていた。眼下には深く生い茂る広大な森と、茜色の空を鏡のように反射させている湖が見える。凄まじい轟音をあげながら流れ込む巨大な滝に、黄金色にざわめく平原。そして、縦横に遠くつらなる山領――。


 自分の手足や体を認識することはできなかった。しかしシンは、確かにこの雄大な空を自由に飛び回っていた。


 意識の中の景色が次々と移り変わっていく。きらびやかな灯を無数に輝かせながらに空に浮かぶ都市、ひとつの山をそのまま削り取って造られたような彫刻のような街、天高く伸びた巨大な白亜の塔と、雄大な空を飛び交う何隻もの船――。


 現れては消え、消えては現れる幻想的な世界。


 そしてシンは、遥か上空に浮かぶ巨大な建造物を見た。荘厳な装飾と彫刻によって造られた天空の大聖堂が、今にも落ちゆく太陽の光を黄金色に反射させ、シンの意識を貫いていく。


 美しいという言葉の意味を、初めて知った気がした。


 いつまでも、こうして眺めていたい。心の底からそう思った。しかし、鳥のようになっていたシンの意識は、抗うことのできない強大な力によって地上へと引きずり込まれた。


 次にシンの意識は、一人の美しい少女を映しだしていた。


 驚くことにその周囲には、死体の山が築かれていた。少女はその腕に、もう一人のやせ細った少女をかき抱いていた。


 大勢の死の中でただ一人残された少女は、怒りと悲しみとが入り混じったような表情で何かを口にしていた。その声がシンの意識に届くことはなく、少女からもシンの姿は見えていないようだった。


 彼女のそばにいってあげたい。強くそう思った。いや、行かなくてはいけない。そんな使命感にも似た感情が、シンの心をかき乱した。


 もう少しで、手が――意識が届く。そう確信した、そのとき。


 シンはもといたアルシノ店の中で、血のこびりついた右手をめいっぱい差し伸ばそうとしている自分に気づいた。


「……いま、俺が見ていたのは?」


 落胆、というのとは違う。まるで自分の一部を置き去りにしてきてしまったような気がして、シンはその本から目を離すことができなかった。


「エルダストリーと呼ばれる世界よ。アルグラフィアから旅立つことのできる、物語の世界」


「エルダストリーって……前にアルシノが俺に貸してくれた本じゃないか」

「ええ、そうね。でもあれはアルグラフィアを私がアレンジして単に書き直したもの。やがて現れる物語ストレイのために」

「なんだって?」


「よく聞いて」アルシノが真をまっすぐ見つめながら言う。「もしあなたが望むなら、この本が——アルグラフィアが、あなたを本物のエルダストリーへと導いてくれるわ」


 アルシノは首につけていたペンダントをはずし、差し出した。反射的に受け取ってしまった真は、アルシノの顔とペンダントを交互に見つめるようにした。


 まるで宝石のようだが、よく見ると青く透明な小瓶であることがわかる。恐ろしく精巧な文様が刻まれており、中には液体のようなものまで入っている。


「これは?」


「エリクシールと呼ばれる霊薬よ。わかりやすく言うと、魔法の薬といったところかしら」

 そう言って、一瞬いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「その薬を飲んだ瞬間、あなたはエルダストリーへと旅立つことになるわ。もっとも、あなた自身が真に望んでいればの話だけれど」


「……本気で言ってるの」


「あなたはもう、その世界が実在することを知ってしまったはずよ」アルシノが真の胸を優しく撫でた。「頭ではなく、ここでね」


 シンは、自分の胸がいまだかつてないほど激しく脈打っていることに気づいた。それは先ほどの光景を目にしたときから、一向に収まる気配がない。

 何より、最後に目にした少女の姿がシンの頭に――胸に、焼き付いて離れない。


「今日、あなたに何があったのかはわからない。正直、私には想像することさえできない。だけどその出来事こそが、あなたがこの本に――物語に選ばれた理由となったはずよ……今まで何度もこの店に通っていたんだから、そうとしか考えられないもの。だから、選びなさい真」


 アルシノは黙り込んでいるシンの両肩を強くつかんだ。


「今の現実を生きるか。それとも、アルグラフィアの求めに応じてエルダストリーへ旅立つか。それと引き換えに物語は、《《あなたの望みをひとつだけ叶えてくれるわ》》」


「俺の、望みを?」 

 思わず、そんな言葉が漏れた。

 自分が口にしていることの馬鹿馬鹿しさを笑い飛ばすことができない。


「エリクシールを飲んでごらんなさい。そうすれば、すべて明らかになるはず」


 真は手の中にある小瓶をあらためて見つめた。

 蓋と思わしき箇所をそっとはずし、中をのぞき込んでみる。


「さあ、『扉』を開いて」


 まるでアルシノの言葉に導かれるように、真は小瓶を傾けた。


 すべての液体が、喉の奥へ伝い落ちていく。


 次の瞬間。真の身体が燃えるように熱くなった。


 大量の血液が体中を駆け巡っていくのがわかる。自分とは違う、何か別の生き物が体の中で暴れまわっているような気さえした。

 到底立っていられる状態ではなくなり、膝をつく。高熱を出したときのように意識がもうろうとなり、声ひとつあげることすらできなくなった。


 それでも、少しも怖くはなかった。


 優しく抱きしめてくれているアルシノのおかげか。それとも、このまま死んでしまってもいいと本気で思っていたせいか。


⦅汝、新たな世界への旅立ちを願うか――⦆

 アルシノの声が、遠く頭の中で響いた。


(ここから逃げ出せるなら――)

 シンの意識が、はっきりと答えた。


⦅その扉を開くのは、汝の真なる意志――⦆


(いつか夢見たような異世界で、《《すべてを忘れて》》、今とはまったく違う人生を生きられるなら――)


 《《今夜の出来事》》が、《《今日につながるすべての最悪》》が次々と浮かび上がり、薄れ、消え去っていく。


⦅汝がそれを望むなら、エルダストリーへの扉は開かれる。そして歩むがいい、物語の日々(ブックオブデイズ)を――⦆


 アルシノの言葉が、急激に遠ざかっていく。


⦅――最後の希望⦆


 残ったのは闇。


 ただひたすら、闇へと落ちていく。


(……希望)


 その言葉だけが、やけに頭に残っていた。


 今の自分には、絶対口にしてはいけない言葉のような気がしていた。


 眠っているのか目覚めているのか、夢なのか現実なのかもわからない。深い暗闇の中を、どこまでも落ちていく。それが今のシンには、この上なく心地よかった。


 真の記憶は、そこで完全に途切れた。


⦅――意志することを行え⦆


 誰のものともわからない声が、最後に響いた。

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