プロローグなきエピローグ③
「力至らず、不徳の致すところ」
そう言ってマールズは巨体を軽く傾けるようにして頭を下げた。
「良い。アルシノの意志がアルグラフィアに働きかけている以上、そう簡単に決着がつかぬことはわかりきっておる」
マールズの前に座す《《ローグ》》が、顎に手をやりながら言う。
「ラウル王の躰は確かに惜しかったが、此度のストレイについて知れただけでも収穫よ」
ローグとマールズは月明かりが差す豪奢な一室にいた。置かれた家具や調度品は恐ろしく高価な品ばかりだったが、二人が放つ存在感や雰囲気、そして交わされる内容からは到底不釣り合いな場となっていた。
「今度の依り代はリザのパレスガードですか、しばらくはその姿ままおられるので」
「わからぬ。偶然傍に転がっていた故、憑りついたにすぎん。ストレイが派手に打ち倒しおったおかげでこうして表に出てこられているが、こやつが意識を取り戻せばルーゼンのときと同じくまた人格の裏に潜むことになろう。まあ、我の思い通り動かぬときはおまえに殺させて躰を奪うか、また別の依り代を見出すかするだけだが」
ローグは、いやローグに憑りついたアヴァサスは事もなく言った。よく見るとその瞳には濃紫に輝く灯のような光が揺らめいている。
「ラウル王の軀をなくしたのは俺の失態、その処罰、いかようにも受ける覚悟」
マールズが抑揚のない声で言うと、アヴァサスはくくくと笑いながら軽く手を振った。
「あまり似つかわしくない言葉を吐くのはやめておけ。だいたい、おまえの命を奪ったところで新たに生まれ落ちてくるだけであろうに。また名前を覚え直す苦労が増えるだけだ」
「しかし、ラウル王のような躰はなかなか手に入らぬのもまた事実」
「だからこそ、この国の奥深くにまで根を張り巡らせていたのだが……死者は使者で扱いが難しく、手間がかかる。生前から我のエーテルを流し込み続け、躰が朽ちていかぬよう特殊な施しも必要だ。しかしまあ、もう過ぎたことよ。たとえとり憑けていたとしても徐々に腐敗は始まろうし、結局は一年ほどしかもたなかっただろう——目的を果たすには十分な時間だったがな」
「アインズとバルデスの間で本格的に戦端を開き、ひいては西方諸国全土に戦火を広げていく……案外難しいものですな」
マールズが笑う。
「俺にとっては煩わしいだけのことですが、ラカクやミラーナあたりは上手くやるでしょう。実際、イストラとディケンは完全に掌握したようだ」
「確かにな、まったくもってあやつらの領分だ。とはいえ北と東の侵攻もアーゼムの勝利で幕を降ろすことになるだろう」
「随分な力の入れようだったようですが、なかなかにしぶとい」
「アインズ支配に乗じて根絶やしにするつもりだったが……腐ってもアーゼムといったところか。だが、その力をだいぶ削り取ったのは間違いない」
アヴァサスがローグの顔のうえに思惑を巡らせるような表情を浮かべる。
「アーゼムで思い出したが……あれはなかなかに面白い芽に育つかもしれん」
「先ほど話していたフィリーの娘、ですかな」
マールズが首を傾げる。
「ずいぶんと面白い業を扱うという」
「それだけではない。此度のストレイとのやりとりを見て気が変わった。ストレイとフィリーの娘との間には何か、アルシノの意志といった結びつきを感じる。いろいろ考え込んでおったせいで失態を晒す結果となってしまったが……仮にあの者たちが大きく育ち、多くの者たちを率いて我に挑んでくるようなことになれば、此度の失態は『闇の創造主』復活のための礎となろう。《《そのために必要な情報はすでに渡した》》からな」
「完全なる復活を果たされるためにはアルシノの与えし宿敵すら必要とするとは、まったくもって因果なことですな」
マールズが単調な言葉でもって頷いてみせた。
「まるで自分には関係がないかのような言い草だ」
アヴァサスが気を悪くした様子もなく続ける。
「まあ、おまえたちにはおまえたちの欲望があろうし、かつてそう仕向けたのは他ならぬ我だ。協力してくれるだけで感謝するとしよう」
「もったいなきお言葉」
マールズが軽く頭を下げる。
「して、これからどうするおつもりで」
「しばらくは様子見だな。アルグラフィアの中でもっとも多くのエーテルを宿すのは登場人物どもよ。大勢の死なくして我の必要とするエーテルをかき集めることなど到底不可能。アインズの支配はまさにその火種を創り出すためだったのだが……今回のストレイがウォルトほどにまで育てば、そしてフィリーの娘が母親――とまでは言わぬが——多くの者たちを率いる『英雄』への道を歩むのであれば、この先必ずや我らとぶつかることになろう……それこそ、大勢のカラクタどもの命を巻き込んでな」
「それこそがアヴァサス様復活の足がかりとなる、と」
アヴァサスが月明かりの差す窓の下へ歩み寄る。
「そこまではわからん。あのストレイ、シンと言ったか……我にはなぜあやつがアルグラフィアに選ばれたのか、まるでわからん。これまでのストレイはもちろん、ウォルトの足元にも及ばぬ脆弱さだった。実際、この者の息の根ひとつ止められておらん。決定的に殺意が足らぬのだな……此度の北と南の争いも、予想していたほどカラクタどもの血は流れなかった。せいぜいアーゼムを弱体化させたにすぎん。我の造りし二つ目の月が満ちるには、この大地を燃やし尽くすほどの戦火が必要なのだ。だが、我にはいくらでも時間はある。そのために必要な種子など、いくらでもまき散らせよう」
そしてアヴァサスはうしろの寝台を振り返り、大きなシーツを裸体に巻き付けながら震える女に笑いかけた。
「のう、リザよ。おまえの胎に宿した我の子が、この国を支配するのを待つも、また一興だと思わぬか」
§§§§§
アインズより北東、ザナトスへと至る街道を横目に広がる深き森の中を、一人の少年が歩いていた。
その背には、きつく目を閉じ、短く荒い呼吸を繰り返す少女の姿もあった。苦し気な表情を浮かべながら全身を委ねるその姿からは、危機に瀕している様子がありありと窺えた。
「もう少し、我慢してくれよ……」
その少年――シンは、激しく息を切らせながら草木の生い茂る道なき道を一歩、また一歩と歩き続けた。
「どこかひらけた場所があったら……一旦、休もう」
返事はおろか、意識すらない少女――ラスティアに、くりかえし言葉をかける。
オルタナを出てから丸二日が経っていた。
なに一つ口にしないままひたすら北へと逃げ続けてきたシンの体は、すでに限界に近かった。
すでにグルも尽きかけ、次にエーテルを使うときが最後だと、シン自身わかっていた。だからこそ、夜が明けてからは肉体の力のみでラスティアを背負い、道に迷ってしまわないよう木々の隙間から街道を確認し、ひたすら歩き続けた。
それでも、エーテルを扱うほどではないとはいえ、体力を使えば糖を消費するのは同じことだった。結局のところシンは、八方ふさがりのような状況に陥っていた。
木の根から伸びた蔦に足をとられ、前のめりになって倒れそうになる。咄嗟に出した手で樹の枝をつかみ、ぎりぎりのところで体を支える。ずり落ちそうになったラスティアを片手で押し上げるが、上手く体重移動ができずそのまま膝をついてしまった。
「……ごめん、もう限界だったみたいだ」
できるだけ振動を与えないようラスティアの身体を大きな樹の幹に預けると、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
木々の隙間から見える空の青さが、きつく閉じた瞼のうえからでも感じられた。
自分たちの境遇など知ったことではないというかのような晴天だったが、今のところ悪天候から身を守る必要がないのは救いだった。
呼吸を落ち着かせようと、深く息を吸い込み、吐き出す。
この世界にやってきてから、エーテル抜きに力を出し切った記憶などなかった。
自分が無力な子どもでしかないことを、あらためて思い知らされる。
それでも、悲観するようなことも、途方にくれるようなこともしなかった。今のシンにそんな余裕はなかった。
ラスティアの状態は良くなるどころかオルタナを脱出してきたときから酷くなる一方のように見えた。
逃げ出してきた当初は、以前のように時間が経てば回復してくれるだろうと思っていた。だが、時間が経てば経つほどラスティアの症状はひどくなり、表情から血の気がなくなっていった。
(器によるエーテルを扱えないかわりに、己の生命をその代用としているのだ)
アヴァサスの言葉がまざまざと思い出される。その上ラスティアは、アヴァサスの攻撃をまともに受け、ひどく体を痛めつけれられていた。
誰かに診せなくてはいけないと思いながらも、シンには何の当てもなかった。そもそも普通の医者でいいのかも判断がつかず、医者がどこにいるのかもわからなかった。
アインズの街道は確かに栄えていたが、今や国中から追われる身となったシンとラスティアが助けを求めたとしても、手を差し伸べてくれるどころかアインズ兵に通報されかねない。ましてや今のシンは、エーテルを使えばそのまま意識を失ってもおかしくない状態だった。
今回の事件に関する情報がどれほどの速さと範囲で知れ渡っているかはわからないが、これまでの経験上、自分たちの見た目が恐ろしく目立ってしまうことは十分理解していた。安易に街へ降りていくような真似はとてもできなかった。
だからこそシンは、ザナトスを目指していた。
ザナトスには、執政官が——ミルズがいる。それに、シンたちをオルタナまで送り届けてくれたベルガーナ騎士団の連隊長、トールも戻っているはずだ。バルデス侵攻の折にはともに前線へ居合わせ、シンたちがオルタナに発つ頃にはラスティアとレリウスに心から忠誠を誓っているように見えた。
あの二人なら、きっと力になってくれる。というより、シンには他に頼れる人間など思い当たらなかった。
エルダストリーの地利に疎いシンですら、このままエル・シラへ——ラスティアの父親がいる場所までたどり着けるとは考えていなかった。
今まで聞いた話によると、エル・シラは最初シンが落ちてきたレイブンという国のさらに先、ランフェイスという国にあるはずだった。そこまでの長い道のりをラスティアを背負ったまま一気に辿りつけるはずがない。道中力になってくれる協力者が不可欠だった。
「せめて何か、食べる物さえあれば……」
力ない視線を周囲に向けてみるが、何の知識もないシンには、口にできる植物が何かなどわかるはずがなかった。ましてやエーテルも扱えないまま獲物を狩って調理する、などということは実質不可能に近かった。
「おれが絶対者なんて、聞いて呆れるだろ?」
ラスティアに顔を向け、つぶやく。
アインズ兵に見つかる危険を冒してでも、街道を進むべきだっただろうか。道中、幾度となくそんな考えがよぎった。
たとえ大勢の兵士たちに発見されたとしても、最低限の食事でもってグルを補充してエーテルさえ扱うことができれば、どうにか切り抜けられるのではないかと考えないでもなかった。ただ、オルタナを出るときはとにかく必死で、誰にも見つからないことだけを考えて走り抜けてきてしまった。
一度も意識を取り戻すことのないラスティアの様子が、シンの焦燥をより一層掻き立てていた。
自分だけどこかの人家に忍び込み、食べ物を探して戻ってくる。それが一番いい方法な気がしていた。だが、今の状態のラスティアを一人残していくことが心配で仕方なかった。
いっそのことラスティアを担いだまま——とも考えたが、今度は何事かあったときに彼女を庇いながら対応しなければならなくなる。
少なくとも陽が沈む前までに、決断し、行動に移さなければならなかった。夜の森のなかにラスティア一人を残していくことなど絶対にできなかったからだ。
「……なさい」
ふと、ラスティアの口からそんな言葉が聞こえた。
「ラスティア!?」
「……おかあさま、許して――」
ラスティアの固くとざれた瞼の端から、一筋の涙がこぼれた。
シンは上体を起こしたまま黙り込み、かける言葉もないままラスティアを見つめ続けた。
(シン、遥のことを、お願いね……)。
呼吸することさえままならなかった猛吹雪の中、抱きしめられた母の胸の中で聞いた、最後の言葉。
「ラスティア……ここに来る前のおれに、自由なんてなかったんだ。おれを庇って―—おれのせいで死んでいった母親の、その言葉が重たすぎて……妹にも、申し訳なくて……ひたすら、働いたよ。まわりを羨みながらさ。そこに自由なんてもんはなくて、ただ、毎日、同じことをくり返すしかなかった。そんな生活が嫌で嫌で仕方なかった。全部投げ出して、自分ひとりで……自分だけの将来を考えて、生きていきたかったよ」
シンは、耐え切れなくなったようにうつむいた。
「でも君は、おれなんかよりよっぽど辛い目に逢ってきたのに……力強く、前を向いて、自分の人生を生きようとしていた。どんな困難だろうと立ち向かって、自分にできる最大限のことをしようとしていた……命をかけて守ってくれた母親のために、君たちに与えられた使命ってやつを果たそうとしていたんだろ? まだ出会ってまもないけど、すぐそばで見続けてきたから、わかるよ。正直に言うと……おれは君の、その後ろ姿に憧れてさえいたんだ」
シンはラスティアの涙に濡れる頬へ手を伸ばし、そっと指を添え、拭った。
「でもさ、ラスティア……おれにはやっぱり、そんな生き方に自由なんかないって、そう思うんだよ……今まで君がやってきたことは、本当に君自身が望んだことだったのか? この世界でいう、真に意志するってことだったのか? いつも、こんな――こんなにまでぼろぼろにされて、自分の命まで削って……そんなの、幸せなはずないだろ」
シンは強く拳を握りしめる。
まるで、ラスティアにではなく、自分に言い聞かせているように見えた。
「だから、目を覚ましたときは、おれに聞かせてくれないかな……君が本当に望んでることを。もし君が、以前のおれのように何かを見失っているんだとしたら、思い出させてあげたいんだ――もし、心のままにこの世界を生きていけるとしたら君は、どんな人生を思い描く?」
後から後から込み上げてくる感情をこらえきれなくなり、小さく肩を震わせた。
「俺、強くなるからさ。もう二度と、君に命を削らせたりなんかしない。相手が誰だろうと、君をこんな——こんな目に遭わせるような奴は、全員ぶっ倒してやる。だから、早く元気になって、目を覚ましてくれ。そして、聞かせてほしいんだ。君が真に望む、生き方ってやつを。約束するから、俺が――」
今は名もなき、世にも美しき王女であった少女の、その苦悶に満ちた表情が、ほんの少しだけ、もとの穏やかさを取り戻したように見えた。
けれど少年はそんなことにはまるで気づかず、あらん限りの意志でもって誓った。
「俺が、必ず君を自由にしてみせる。この力で―—」
シンの漆黒の瞳が、根源色に輝いていた。




