第40話「物語に平伏す」
ラスティアとレリウスがアヴァサスの障壁によって閉じ込められた頃のこと。
まさにシンも、ラウル王の寝所へとたどり着こうとしていた。
大勢の人の気配が集まる一角へと急いでいたシンの頭に、待ち望んでいた声が響いた。
「引き返せシン、これ以上王宮の内部には近づくな」
「テラ!?」上空を滑空する白いフクロウに気づき、叫ぶ。「何度も呼びかけてたんだぞ、今までどこにいた!」
「わけあっておまえにもとへ行くことができなかった——そんなことより、今すぐに引き返すんだ」
テラの言葉は明らかに冷静さを欠いていた。
「どういうことだよ。ラスティアたちに何かあったのかもしれないんだぞ」
走る速度を落とすことなく訊き返す。
「この先に待ち受けているのは最悪の相手だ。今はまだぶつかるときではない」
「最悪の相手?」
「まさかこれほど早く邂逅しようとは思わなんだ」
「なんだよそれ、なんの話だよ」
「障壁が張られていなければこれほど近づくこともできなかっただろう」
「テラ、頼むからわかるように言ってくれ!」
「悠長に話している余裕はない。早くここから立ち去れ、そして急ぎこの国を出ろ」
「――そんなことできるわけないだろ」
今の自分に、そんな無責任な真似ができるはずがなかった。危険な目に晒されているかもしれないラスティアたちを放って逃げることなんてできない。
「ここでおまえに死なれるわけにはいかん、私の望みが叶えられなくなる」
「またそれか、説明しようともしないで勝手なことばかり言うなよ。おまえに何と言われようとおれはラスティアたちのところへ行くからな!」
「……仕方がない、おまえの意志は絶対だ。私には止められん」
そう言われると途端に不安な気持ちが沸き起こり、足が自然と緩まる。
「なら教えてくれ、おまえの言う最悪の相手って、誰のことなんだ」
「引き返す気がないなら、おまえ自身の目で確かめるがいい。これもストレイの宿命といえば、それまでだ」
なんと言葉を返せばいいかもわからないまま、目的の場所へとたどり着いてしまった。テラへの追求を一旦やめ、身を潜めながら周囲を伺う。
中庭を挟んだ宮殿の入り口にリヒタール、ルノ、ブレスト侯、シェリーの姿が見えた。皆、大勢の兵たちに取り囲まれている。
「なんで、こんなことに—―ラスティアとレリウスはどこにいるんだ」
全身に甲冑を着込んだアインズ兵たちは、広大な中庭の端に忍び込んだシンにまったく気づいていなかった。物々しい雰囲気の中、隊長らしき者の号令を受け、一糸乱れぬ隊列を組んで待機している。
「テラ、どうなってるんだよ」
「私にもわからない。王宮からも離れていたからな」
「おまえ今までもいろいろと見聞きしてたはずだろ?」
「だから、近づけなかったといっただろう。私の存在をやつらに気取られるわけにはいかない」
「だから、やつらって誰だよ」
「おまえたちがマールズと呼んでいた男と、この先に潜む存在のことだ」
「おまえ、マールズを知ってたのか!?」
「いや、今あやつがマールズとして生きていることは知らなんだ。私としたことが、おまえと巡り会えたことで油断していた……もっと気を払っておくべきだった」
「くそ」
まったく要領を得ず、悪態をつく。
「ラスティアたちはどこにいる」
「間違いなくあの建物の中だろう。おまえも気づいているはずだ、入り口に強力な障壁が張られていることを」
「わかってる」
集中せずとも容易に感知することができた。
「あんなに静かな、弛みない障壁は初めて見た」
実際自分でも創り出してみたからこそ、その見事さがよくわかる。中にいるはずの使い手、その圧倒的なまでのエーテライズについても簡単に予測できた。
「だからこそ、あやつもこちらの様子を伺うことができない。私の存在にも気づいていないだろう。最後に言うが……今なら引き返せるぞ」
一瞬シンは胸のあたりを握りしめ、視線を落とした。しかしすぐに首を振り、決然と顔を上げる。
「ラスティアとレリウスがあの中にいるなら、助けにいかないと。シェリーたちもだ」
「……わかった」
「問題は、あの大勢の兵士たちをどうするかだけど」
「今のおまえであれば、ものの相手ではない。その意志をエーテルに宿し、屈服させてしまえばいい」
「……やってみる」
すぐ横を飛ぶテラに頷いてみせると、シンはまっすぐその建物——王の寝所へ向かって歩き出した。
はじめその姿に気づいたのは、最後尾に整列する末端の兵士だった。
「何者だ!」
面のわずかな隙間から鋭い視線が飛んでくる。そして、固く握りした長槍をシンへと突き出す。
「いったいどこから来た!」
その声に反応し、中庭にひしめくようにしていた兵たちが一斉にこちらへと向き直る。
「何事か!」
その騒ぎは前列に位置する隊長格の兵にまで伝わり、周囲は一気に騒然となった。
「いったい何の騒ぎだ!」
「おれはラスティア王女のパレスガードです。あそこにラスティア王女がいるはずです、退いてください」
「――ラスティア王女の、パレスガードだと」
その囁きが兵たちの間に波のように浸透し、あちらこちらから動揺の声が飛ぶ。
「パレスガード・シン」
兵たちの間を割るようにして歩いてきた男が、シンの前に姿を現す。
「王宮騎士の連隊長を務めております、バリシウスと申します。此度の騒動について、あなたはご存じなのでしょうか」
「いえ、何も知りません」
シンは自分でも驚くほど冷静に答えた。
バリシウスは厳しい表情を浮かべ、首を横に振った。
「今あちらで身柄を確保しておりますバルドー侯、シャンペール侯、ブレスト侯は、ラウル王への反逆の罪に問われております。また、その首謀者と目されているラスティア王女、アルゴード侯の両名は王の御寝所に障壁を張ったまま一向に出てくる気配がありません」
「そんな――いつの間にそんなことになったんですか」
あまりの急転直下ぶりに、理解がまるで追いつかない。
「我々は宰相直々の命を受け、御寝所一帯に兵を伏せておりました。そのかいあってラスティア派の兵たちを制圧することができました。しかし障壁については取り除くことができず、この場を動けずにいるのです。ディファト王子に従うエーテライザーたちも王宮のいたるところに出没するアルゴードの兵たちによって足止めをくらい、この場へ来ることもままなりません。今すぐにでもバンサー殿にお越しいただきたいところですが、現在議会の間にてベレッティ、リーン両名と交戦中との報告があり、ディファト王子の身にも危険が差し迫っているとのこと。互いに身動きがとれない状況が続いております。当初議会の間におられたはずのリフィトミ宰相も突然行方がわからなくなってしまいました」
「そんなことならおれが直接ラスティアのところへ行って話を聞きます」
「失礼ながら、あなたはラスティア王女のパレスガードです。今回の件に深く関与している疑いがあります。いや、そもそも陛下の御寝所に張られた強力な障壁自体、あなたの仕業ではないのですか」
「おれはそんなことしていません。今だって王女のもとへ向かうために急いで駆けつけてきたんですよ」
「いずれにせよ、ここを通すわけには参りません」
「どうしてですか!」
シンが叫ぶと、バリシウスと彼に従う周囲の兵士たちに顔が一気に強張った。
見た目的には少年でしかないシン一人を、屈強な兵士たちが甲冑の音を響かせながら、じりじりと取り囲んでいく。
「先ほど申し上げたとおり、ラスティア王女らは今、ラウル王への反逆罪に問われております。事の真相を明らかにするためにも、我々は確実に王女の身柄を確保する必要があります。よって、ラスティア王女のパレスガードであるあなたをこれ以上近づけるわけには参りません」
バリシウスが片手を上げると、シンを取り囲んでいる兵たちが一斉に戦闘態勢をとった。
「……おれを、どうするつもりですか」
「多勢に無勢と仰いますな。もし、まことしやかに囁かれている例の噂が真実であるならば、あなたをここへ留めるためには今集まっている全兵力でもって対応せねばなりません」
バンサーたち三人を相手にした経験があるとはいえ、今シンを取り囲んでいるのは千人以上もの屈強な王宮騎士たちだ。この数を同時に相手にする方法など、まったく考えつかなかった。
バルデス軍や変異種の大群を退けたときのように天候や地形を変化させてしまおうとも思ったが、ここは王宮の真っただ中だ。どれほどの被害が出るか想像もつかない。なにより、一気にグルが枯渇してしまう危険もあった。
「おれの力を理解してくれているなら、無駄な争いはやめませんか。おれはなんとしてもラスティア王女のところへ行くつもりですよ」
⦅テラ、何かいい方法はあるか⦆
バリシウスへ話しかけながらテラと共鳴する。
「ラスティア王女の罪状は、ディファト王子の名において正式に下されたものです。ディファト王子と宰相が指揮を執れない以上、私の一存であなたを捕らえるよう命令するしかありません」
⦅今はおまえの意志を明確に感じ取ることができる。あとは発現させる事象さえ想像できればこの程度の兵など簡単に退けられるだろう⦆
バリシウスの言葉に混じり、頭上を飛ぶテラの声が頭に響く。
「その王女を守るのがおれの務めです」
⦅その事象ってやつが思いつかない。余計な被害を出したくない。それに、この人たちが死ぬのも絶対だめだ⦆
シンとバリシウスが厳しい言葉を交わしている間も、シンを隙間なく取り囲んでいる兵たちの槍先がじりじりと近づいてくる。
「どうか、我々に従ってください」
⦅ならば、私にまかせろ。今ほどの意志があれば、私の想像をおまえと共有することで容易に退けられるはずだ⦆
「パレスガード・シン、決してあなたを無下に扱うようなことはしません。王宮騎士の誇りであるこの鷹の徽章にかけて誓います。どうか、その御力を発揮されるような真似はせぬよう、切にお願いする」
「……わかりました」
⦅テラ、おまえにまかせる⦆
シンの言葉に安堵の表情を浮かべたバシリウスだったが――。
「お互い、引くことはできないみたいですね」
そうシンが告げると、バシリウスの顔が戦士のそれへと変貌し、再度合図の片腕を上げた。
周囲の兵たちが一斉にシンを抑えつけようとするのと、テラがシンの口を開くのとは、ほぼ同時だった。
「「ひれ伏せ」」
その言葉が発せられた瞬間。
テラに身体を委ねたシンの前に、信じられない現象が起きた。
バリシウスをはじめ、シンを取り囲んでいた兵はもちろん、王の寝所にいたるまで隙間なく隊列を組んでいた千人近い王宮騎士たち全員が、まるでシンの道を開けるかのごとく一斉に突っ伏したのだった。
「か、体が……うごかん!」
まるで誰かに顔を押し付けられているかのようなバリシウスが、喘ぐ。
「なん、なのだ、これは……!」
「「おまえたちはいったい、目の前の相手をなんだと思っていた?」」
テラの言葉がシンの声と重なり、高々と響く。
自分の中にいながら、他人事のように自分を見ているような、あの感覚だった。
「「彼の存在を、いったい自分たちがなんという名で呼んでいたか。もう一度思い出すがいい」」
地面にひれ伏された者たちは皆、まるで動かなくなった自身の体と、すぐ近くに響く足音に顔を引き攣らせた。そして、かろうじて動く視線のみで、悠然と目の前を過ぎていく存在を追った。
彼らの瞳には、恐怖以外のなにものでもない感情がありありと宿っていた。
「――絶対者」
「「退け、登場人物ども。物語が通る」」