第38話「王宮に巣食う者」
「偉大なる御方に、捧げるですって?」
ラスティアが問う。
目の前の相手がこれまで目にしてきた宰相とはまるで異なる存在であることを、ラスティアは確かに感じ取っていた。
ただ、なぜそのように感じてしまうのか、いったいルーゼンに何が起きたのかまではまったくわからなかった。
「あなたはいったい、何を言っているの」
「宰相、はっきり言え。おまえの目的はなんだ、なぜエーテルなど扱えるようになった。どうして私とラスティア様を閉じ込めた」
レリウスが続け様に訊いた。胸の内に広がっていく淀んだ感情を押し退けるような、ひどく焦燥的な口調だった。
「まさに今のこの状況をつくり出すため、ですよ」
ルーゼンが真顔のまま頷く。
「なんだと?」
「周到な準備はもちろん、ひどく回りくどいことや手のかかることもありましたが、ようやく、お二人をここまで導くことができました……失礼ながら、今は安堵の気持ちでいっぱいです」
「あなたの言っていることは何一つ理解できない」ラスティアが小さく首を振る。「私たちは事の真偽を確かめるためにここへ来たの。ラウル王に会わせて」
「ああ、もちろんですとも。私が長々とご説明するより、実際にお会いしていただいた方が早いでしょう」
ルーゼンはそう言って後ろを振り向くと、ゆっくりとした足取りで部屋の奥へと歩き始めた。
自分たちで言っておきながら、ラスティアとレリウスは闇の奥へと消えていくルーゼンの後ろについていくことができなかった。
まるで足と床が同化してしまったかのように動けず、互いに視線を交わし合う。
二人の瞳は、動揺に揺れていた。変異種の強襲という事態を絶好の機会と捉え、相手の隙を突く形でその急所にたどり着いたはずが、こうも悠然と待ちうけられていたということは、すべてディファトと宰相の掌の上で踊らされていたということを意味する。だが、そんなことが果たして可能なのか。
会話を交わすことはなくとも、ラスティアとレリウスはまったく同じことを考えていた。
自分たちの考えや行動を含め、これまでに起きた全ての出来事を予見していなければ、ルーゼンの言った『今の状況をつくりだす』ことなどできるはずがない、と。
「さあ、いかがなさいました」
暗闇の奥からルーゼンの抑揚のない声が飛んでくる。
ラスティアとレリウスは固く頷きあいながら部屋の奥へと歩き始めた。
障壁が張られたことは外にいる者たち――特にシェリーはすぐに気づくはずだった。彼女ほどのエーテライザーがすぐに中へ入ってこられないということは、この障壁が非常に強力であるということだ。
実際ラスティアは、先ほど障壁を張られた際、あまりにも静かで淀みない発現の仕方に背筋が凍る思いだった。もしルーゼンがこの部屋の障壁を築いたのだとしたら、とてつもない技量を持ち合わせていると言わざるを得ない。
ほんの数年前にエーテルを扱えるようになったというのも到底信じがたいことだが、たとえそれが本当だったとしても、わずかな年数でこれほど巧みにエーテルを扱うことなど絶対に不可能だ。ラスティア自身が一番よく知っていることだった。
ラスティアとレリウスは大いなる疑念に取りつかれながらルーゼンのあと追った。そのはずが、すぐ目の前にあるはずの気配がまるで感じられず、唐突に暗闇の中から現れたルーゼンの姿を見て思わずふたりは声をあげそうになった。
「陛下の御寝台は、そこに」
ルーゼンのしわ深い手が、すぐ傍らを指し示す。
まるでその時期を見計らったかのように、天窓から二つの月明かりが差した。
ラスティアとレリウスの目の前には、巨大な寝台に横たわるラウル王の姿があった。
ごっそり肉が削げ落ち、黄土色に変色したその顔は、明らかに生ある者のそれではなかった。
ラスティアが首を傾けて一礼し、ラウル王の首に手を当てる。そして、しばしの沈黙の後、レリウスに向けて力なく首を振った。
アインズの王は、完全に息絶えていた。
「陛下……」
確かに予想はしていたはずだった。だが、実際にその姿を目にしたラウル王随一の忠臣は、かける言葉も見つからなくなっていた。
一方のラスティアには、生まれてから一度も交流のなかったラウル王に対して感慨に耽るようなことはしなかった。それでも、完全に死者と成り果てた叔父の顔に、ほんのわずかではあるが、母の面影を見た。
母を思いだようなときはいつも胸を突き刺されるような感覚に陥り、鋭い痛みが全身を強張らせる。それはこのような状況にあっても変わらぬことはなかった。
「ご覧の通り、すでに亡くなっております」
「いつからだ」レリウスが訊く。
「お二人がザナトスからこちらへ向かわれているあいだ、といったところでしょうか」
「あなたたちは、自分がしことを理解しているの」ラスティアが言う。
「むろんでございます」
ルーゼンはまるで表情を変えることなく頷いた。
「先ほどおまえは、『今の状況を作り出すため』といったな。その言葉を真に受けるなら私たちはおまえたちの手によってここまでおびき寄せられたということになる。おまえとディファト王子は何を考えている。いい加減、話してもらおう」
「陛下の死を偽ることについてはディファト王子もご存じのことですが、今回の騒動においてはまったくの蚊帳の外でございます」
「蚊帳の外?」
「はい。ディファト王子は、次期国王となるための基盤を確保するまで陛下の死を隠し通しているのだと思っております。先ほどの議会の場での王子のご様子を見れば、おわかりいただけるかと」
「なら宰相は、ディファト王子さえも謀って私たちをここへおびき寄せたというの? 王子にも秘密のまま、ラウル王がすでに亡くなっているという事実を私たちに明かしたということ?」
「いえ、陛下の死を明かすことが目的ではありません。私はお二人に、特にラスティア王女に、兵を率いる形で陛下の御寝所に乗り込んでいただきたかったのです」
「――なんですって」
「どういうことだ」レリウスがルーゼンに詰め寄る。「そんなことにいったい何の意味がある」
「もちろん、お二人を陛下の命を狙った逆賊として始末するためでございます」
ラスティアとレリウスが何か言葉を発しようとするよりも早く、ルーゼンの瞳が怪しく輝いた。
ラスティアが身構えた瞬間、腰元にあった鞘から引き抜かれた剣が、宙を飛びながらルーゼンの手へと渡る。
「……それほど見事にエーテルを扱えるのなら、私の剣など不要でしょう」
ラスティアが片手でレリウスを庇うようにして後ずさる。レリウスも腰元の剣を引き抜いていたが、いくら実力があっても器無き者はエーテライザーの相手にはならない。
そう、自分以外は。ラスティアは呼吸を整え、一気に戦闘態勢をとった。
「私と戦う必要などありませんよ。あなたの剣は――こうして使うのですから」
ルーゼンは逆手で柄を握ると、その刃先をラスティアとレリウスにではなく、自分自身へと向けた。
「時至れり。最後にこの命、アヴァサス様への供物とさせていただきます」
そして二人が目を見開くなか、一気に己の心臓へと突き刺したのだった。
こぼっという音とともにルーゼンの胸と口から大量の血液が止めどなく溢れだしていく。
「――そんな」
床に突っ伏したルーゼンへ駆け寄ったラスティアが耳元で叫ぶ。
「なぜこんなことを!?」
「……ラスティア様」
レリウスの尋常ではない声に、思わず振り向く。
「それは、いったい……」
一点を見つめるレリウスの視線の先を追う。ルーゼンに近づきすぎて気づかなかったが、その背後から、何かが――。
エーテルとも違う、深い紫水晶のような色をした、光とも靄と判断がつかない何かがルーゼンの身体から抜け出し、そして――寝台に横たわるラウル王の身体へと吸い込まれていく。
ルーゼンの突然の自死、そして目の前の現象。立て続けに起こる理解不能な事態には、さすがの二人もただ事の成り行きを見つめることしかできなかった。
しかし次の瞬間、二人は驚愕に目を見開き、叫びそうになった口を手で覆っていた。
確実に死んでいたはずのラウル王が、ゆったりと上体を起し、そして――
ラスティアとレリウスに対し、笑った。
「つまりは、こういうことだ」
その口から、低く、腹の底まで轟くような声が漏れた。
「へ、陛下……」
レリウスがよろめきながら寝台へと近づく。
「生きて……生きていらしたのですか」
「レリウスよ、ずいぶんと心を痛めていたようだな」
土気色の表情はいまや青黒いまでに変化し、深く窪んだ双眸も確かに見開かれてはいた。しかしその瞳は異常なまでに濁り、淀んでいた。
「もちろんでございます……いったいなにが、なにが起きたのでございましょうか」
「すべては我がこの躰を手にするためだったのだ。そして躰を手にした後は、この国を思い通りに動かせるように、と」
「それはいったい……どういう意味でしょうか」
「離れてレリウス」ラスティアがレリウスの肩をつかむ。「それはもう、ラウル王なんかじゃない」
「ラスティア様?」
レリウスが呆けたように言う。彼ほどの男でも、今は何をどう考えていいのかまるでわからぬといった様子だった。
「さすがだな、ラスティア。持たざる者と呼ばれているとはいえ、フィリーの娘なだけはある」
言いながらラウル王と思わしき何者かは床へと足を下ろし、立ち上がった。
薄手の寝衣をまとった長身からは顔同様ごっそりと肉が削げ落ちており、一本の枯木が立っているかのようだった。しかしレリウスは相手の発する得体の知れない圧――邪悪さに圧倒され、よろめくように後ずさった。
「あなたのような人を、以前目にしたことがあるわ。マールズに身体を乗っ取られたときのローグが、まさにそうだった」
ラスティアが言った。レリウスを庇いながらさらに一歩、前に出る。
「マールズのそれとはまた別だ。奴とは違い我には実体がないからな」
「やはり、通じていたのね」
「つ、通じていたとは……マールズと陛下が?」
「実体がないということは、さっき目にした光――いえ靄のようなものがあなた自身ということかしら」
「察しがいいな」
「いい加減、正体を明かして。あなたはいったい何者なの」
ラスティアは、全身の震えを無理やり抑え込むようにして、言った。
目の前の相手は、まっすぐラスティアを見下ろしながら、厳かな言葉を発した。
「我が名はアヴァサス。おまえたちが闇の創造主と呼ぶ存在だ」