第11話「暗殺者の影」
「ようやく、人心地つきましたな」
すっかり身を清め傷の手当てを終えたレリウスは、豪奢な椅子に寄りかかりながら大きく息をついた。
見るからに上等な生地の衣服に身をつつんだレリウスは、声をかけるのも気後れしてしまうほどの貫禄を漂わせていた。
アインズという国における侯爵という地位がどれほどのものなのかはわからなかったが、自分なんかが気安く話していい相手ではなさそうなことに、シンは今さらながらに気づいた。
それはシンの隣に座るラスティアにも言えることだった。
「本当に、生き返った気分です」
レリウスと同じように身を清め、ゆったりとした衣服に着替えていた彼女は、神々しいばかりの輝きを放っているように見えた。
血と土にまみれていた長い髪は、透きとおるような茶褐色の色合いを取り戻し、青ざめていた表情にもほんのりと朱が差していた。何より、シンの目を惹きつけてやまない翡翠のような大きな瞳がきらきらと輝いている。
恐ろしく踏み心地の良い絨毯が敷き詰められた部屋でくつろぐ二人は、まるで一枚の絵画のようだった。
自分だけとんでもなく場違いなところへ来てしまった気がして仕方なかった。
レリウスの計らいでシンも到着してすぐ着替えを用意してもらっていたが、これまで身に着けたことのない衣服なだけに、気恥ずかしさでいっぱいになる。
しかし、着替えるにあたってシンの頭をよぎったのは、この世界へやってきたときのことだった。
(やっぱり、違う)
最後に覚えている、あの吹雪の夜。
自分が着ていたのはこんな服装なんかじゃなかったはずだ。
窓に映る自分の姿を、今でも思い出すことができる。おそらく、間違いない。
あの日の夜から、エルダストリーの空を飛んでいること気づくまでの間、自分の身に何があったというのだろう。必死に考え、思い出そうとするが、まったく記憶にないことだった。
着ていた服は一応、手元においておくことにした。この世界にいるかぎり再び着る機会があるとは思わなかったが、手放してしまう気持ちにはなれなかった。
いったい、自分の身に何がおきたのだろう。なぜ、どうやってこの世界にやってくることになったんだろう。気を抜くと、すぐ答えの無い疑問に囚われてしまいそうになる。
シンは軽く首を振り、無駄な問答を頭から押しやった。
「あとはたらふく食事ができたら言うことなしなのですが……いったい準備にどれほど時間をかける気なのかな?」
レリウスが人の悪いような笑みを浮かべた。
「さすがに適当な対応はできないのでしょう。執政官には悪いことをしました」
一方のラスティアは申し訳ないような顔をみせた。
「なあに、これも彼の仕事というもの。せっかくの機会です、バルデスやディケインの動向について情報を得ておきたいと思います。私の傷もそれほど深くはなかったですからね」
「本当に良かった。私ごときのために<ラウル王の懐刀>とも言われるあなたを失っては」
「そのたいそうな名は置いておくとしまして……他国、特にバルデスとの関係もいよいよきな臭いことになってきそうですからね。もしかすると交易の方にも影響が出ているかもしれません――といったことより、『私ごとき』などという言葉は今後一切使わないでいただきたいものです。あなたはこれから王女となる身分のお方、ランダル様からもきつく言われていたはず」
「ですが」
「恐れながら、持たざる者という名は、私の耳にまで届いておりました。それにお母上であられるフィリー様のことも、当時アインズ国内では相当の衝撃でもって受け入れられました……それだけでも、ラスティア様がこれまでどのような境遇のなか暮らしてきたのかは想像に難くありません。ですが知っての通り、アインズは西方諸国の中でも一、二を争う大国です。その王室に迎え入れられるということの意味を、どうかよくお考えください」
レリウスとラスティアとの間に、しばしの沈黙が流れた。
「あの、バルデスっていうのは」
気まずさに耐えきれなくなったシンが思わず口を挟む。
「そうだった、シンは何も知らぬのだったな」
レリウスは仰々しくうなずいてみせた。
「バルデスというのはアインズから北東にある隣国の名だよ。西方諸国に属する国の一つで、アインズと並ぶ大国でもある。この街が三つの国から伸びる街道の交わる場所としてアインズ有数の交易都市となっていることは、説明したかな」
「三つの国っていうのは、そのバルデスという国と、レリウスたちの国のアインズでしょ? もうひとつは?」
「西の大国ディケインだ。西のディケイン、東のバルデス、それにアインズは歴史上<中央>の覇権をかけて争い合ってきた大国同士であると同時に、重要な交易相手でもあるわけだ」
「争いっていうのはその、戦争していたってこと、だよね……」
数日前のラスティアたちへの襲撃と、エルダストリーの物語の中で描かれていた争いの描写が、あまり思い浮かべたくもない想像を掻き立てしまう。
「いや、そう案ずることはない。過去には目を背けたくなるほどの争いが起きたのは確かだが、今はよほどの事がない限り戦争にはならない。西方諸国に属している以上、どの国も<評議会>の決定に従わねばならないからね。まあ、互いの主張を曲げない場合は戦争にまで発展することもないわけじゃないが、双方に大義名分がなかったり、侵略行為にあたると判断されてしまえばアーゼムが介入することになる。近年ではどの国も自国の利益だけを追求するような馬鹿な真似はできないだんよ」
「アーゼムが介入って、それで解決できるものなの」
「戦争を引き起こさないようにするのは、彼らの重要な使命の一つと言えるでしょうね」
ラスティアが深く頷いた。
「すごい人たちなんだね」
シンが知っているアーゼムは、一人ひとりが超常的な力をもち、弱きを助け悪きを打つ。そのような存在として描かれていたはずだ。英雄的な存在だったことは確かだが、国同士の争いに介入し収めてしまうという、今レリウスやラスティアが説明してくれたような展開や設定には全く覚えがない。
いくら夢中で読んでいたとはいえ、一言一句を覚えているわけではなかったが。
シンの発言に対し、ラスティアは思わずといった様子でレリウスに視線をやり、再びシンを見た。
「シン……あなたは本当にこことは違う、私たちの知らない地から来た人なのね」
シンは曖昧に頷いた。どうやらアーゼムの存在というのは、この世界では当然の知識として知るべき事柄だったらしい。
「『エルダストリーの守護者にして調停者』この名は飾りではないよ」
一方、比較的シンの状況を理解していたレリウスは、思慮深い教師のような顔で言った。
「ひとたびアーゼムが動けば国が亡ぶとまで言われるくらいだ。実際、エルダストリーの歴史においてそのような憂き目にあった国はいくつも存在する」
ラスティアが深刻そうな顔で首を振る。
「ですが今アーゼムは東方大陸と、それにイストラからの侵攻に追われているような状況です。これほどの事態は過去にもそうはなかったように思います。しばらくは西方諸国に目を向ける余裕はないでしょう。アインズとしても他国の動きには十分警戒すべきです」
「その通りです」レリウスが深くうなずいた。「ランダル様からもそのように仰せつかりました。オルタナに戻り次第、即刻ラウル王に進言いたします」
二人の会話を聞いていると、どうも自分とはまるで関係のない、遠い世界の出来事を聞いているような気分になる。
実際、そのとおりではあった。
「ふたりとも、もう体の方はいいの?」
今までの二人の状態を知っているシンとしては、むしろそちらの方が気になった。
「心配をかけてしまいましたね」ラスティアが申し訳なさそうに言った。「私の方は問題ありません。むしろレリウス様の方が――」
「軽傷と、そう言ったはずですよ。それにいい加減レリウスと呼び捨てることに慣れていただかなくては。そのような言葉遣いをされると私の方が罰せられてしまいます」
ラスティアがはっとしたような顔をする。
意識していないとすぐ元の話し方に戻ってしまうようだった。
「おれも敬語で話されるのは、ちょっと……」
二人からそう言われラスティアは困ったような表情を浮かべていたが、やがてうなずいた。
「――わかったわ、これからは本当にやめることにする」
レリウスはほっとするような笑みを浮かべた。
「これでひとつ、問題が片付きました。だが――もう一つの問題の方はこれからです。アルゴードの者たちを無惨にも殺したあの襲撃者たち……決してこのままでは済まさん」
決して声を荒げたわけではない。むしろそれは、今までよりも静かな口調だった。しかしシンは、間違いなく場の空気が変わったのを感じ、押し黙った。
「それは、私も同じ思いよ」ラスティアからも同調する声が上がる。「私にできることがあれば、なんでも言って」
レリウスが力強くうなずいて見せた。
ごく自然に接してくれてはいるが、レリウスもラスティアも、あの凄惨な現場を実際に見聞きし、そして、生き延びてきたのだ。
まるで他人事のように感じていたシンとは、違う。
(本当に、こんな世界で生きていこうなんて思ってるのか)
気づくと、あの時のフクロウと――テラと交わした会話が頭の中を巡っていた。
(いや、それ以前に戻る方法自体わからないんだから、どうしようもないだろ)
(あの鳥はおれが願いさえすればとか、意志がどうとか言ってたけど。もといた場所に戻れるような様子なんて全くないんだぞ)
堂々巡りの果てに、結局最後にはどうすることもできないという結論に行き着いてしまう。
少なくとも今は、成り行きに身を任せる以外他なかった。
「――こうして落ち着いたことでもありますし、今後のことについて話し合いましょう」
レリウスの声がシンを現実へと引き戻す。
「まずは、ラスティア様の身の回りのことについてです。あの襲撃者たちが再度ラスティア様を狙ってくるとすれば、おそらくオルタナへ向かう道中、ということになるでしょう。とはいえ、今までとは比較にならないほど人の往来が増えますし、国間公路や街道には我が国の兵が目を光らせています。必要とあればギルダーたちの手を借りることもできるでしょう。油断することはしませんが、相応の護衛をつけるようワルムに命じさえすれば、そう危険な目には遭うこともないはず」
「ですが、先日私を守ってくれたアルゴードの兵たちの中には相当実力あるエーテライザーもいました。それでも、あのベイルという男の前では……」
ラスティアが視線を落としながら言った。
「確かに、無念です。長年、フェルバルト家に仕えてくれいた者たちですから。それでもこのレリウス、一度やられたからには二度と同じ失態は犯しません。命を落としていった者たちのためにも」
そこまで言って、レリウスはふと場を和ますような笑みを浮かべた。
「それに今こちら側には、ベイルとかいう強力なエーテライザーさえ容易く退けたシンがおりますし」
「いやっ、それは……」
突然話を振られ、焦る。
テラのことが上手く言えない以上、否定することもできなかった。
「あのまま引き下がるような相手にはとても見えなかった……ベイルという男、きっとまた現れる気がする」
ラスティアは表情を緩めることなく言った。
「もちろんオルタナに戻り次第、しかるべき手を打ちます。ラスティア様の暗殺を企てていたのは誰か、突き止めなくてはなりません」
「あんさつ……」
思わず口が突いて出た。
レリウスが深刻そうにうなずき、再度ラスティアへと視線を向ける。
「口に出すのもおぞましいことですが、それ以外考えられません。あのように極めて周到かつ大胆な襲撃は、そこいらの野党にできる仕業ではありません。少なくとも、ベイルと呼ばれていた男は違います。一人だけ面頬付きの甲冑を身に纏っていたのも自身の正体を隠すためのものでしょう。そんなものはエーテライザーにとっては邪魔な代物でしかありませんから」
「ベイルというのが偽名だとしても……なぜ正体まで隠そうとしたのかしら。最初から私たちを殺すつもりだったならまったく意味のないことなのに」
「万が一取り逃がしてしまったときのための用心か、あるいは他に理由があったのか。いずれにせよ、あの首から上にはよほど見られてはいけないものがついていたのかもしれません。いずれにせよ、我が家に使えるエーテライザーをことごとく屠った相手です、危険な人物に変わりはありません。本当に、シンがいなければ私たちもどうなっていたか」
シンは手を組み合わせ、じっと床を見つめながら、今聞いている話をどう受け止めていいものかをずっと考えていた。
「……シン、君はこれからのことについて、何か考えているのかい」
「これからのこと?」
「君をオルタナに連れていくことに変わりはないし、命の恩人として存分にもてなしたいと思っているが、何か考えていることがあれば――」
「いえ、全然なにも」
言いながらぶんぶんと首を振る。
「そうか」
そう言って、レリウスは何か考え込むように押し黙ってしまった。