第31話「エルダストリーへの道」
「ベイルだって!?」
咄嗟にシンは叫んだ。そして、あらためてその少女をの姿を見た。
細く、色白の少女が、今まで笑ったことなどないと言わんばかりに固く口を結び、グレースと両手を交差させている。
(そんな、こんな女の子が……?)
「申し訳ありませんマールズ様、あなたが止められるとは夢にも思わず」
どこか影が差しているような表情の上に、動揺の色が滲んでいた。
「そういうあんたは私に阻まれちゃったわけだけど?」
グレースがベイルとは真逆に煽るような笑みを浮かべる。
「……おまえのような騒がしいだけの女に邪魔されるとも思っていなかった」
「その割には登場が遅かったじゃない。私が隙を見せないもんだから焦れて飛び出してきたってわけ」
「どうすれば二人まとめて殺せるか考えていただけだ」
「えー、それがこの有様ってわけ?」
挑発するグレースに対し、ベイルが凶悪な表情を向ける。が――
「――ところで私、いつまでこうしていればいいの」
突如真顔になったグレースに何かを感じとったのか、ベイルは先ほどのマールズ同様、一気に距離をとった。
「気をつけるんだな、ベイル。その娘、おそらく野生の器保持者だ。隠し持っている牙はギルダーの比ではないぞ」
マールズが楽し気に言う。
「アグリオース、こいつが……!」
「ちょっと、その呼び方やめてくれない?」グレースが頬を膨らませた。「野生のとか、それが若い女性に使う言葉なの?」
先ほど垣間見せた気配が嘘かのようなグレースの言葉だったが、シンは確かに感じ取っていた。
一瞬にして膨れ上がった、彼女のうちに秘めた膨大なエーテルを。
「僕もその呼び方はどうかと思うよ」ミュラーも真顔でうなずく。「ところでマールズさん、さっきとても気になることを言っていたね……シンが宿敵となり得るていうのは、いったいどういう意味なんだい?」
「言葉どおりの意味だが」マールズが答える。「そのために、殺そうとした。これ以上ないくらい簡単な理由だ」
「詳しく説明する気はないかい。なら、余計退くわけにはいかないな。彼には弱い人たちを守ろうとする気概があり、そのための行動もとれる人だ。そのようなストレイはこれからの世界、時代になくてはならない存在だ。少なくとも僕はそう判断した」
今シンの抱いている思いや感情を知ってか知らずか、ミュラーはシンを安心させるかのようにうなずいてみせた。
マールズは相変わらず笑みを浮かべたまま、目を細めた。
「ずいぶん知ったような口を利く。アーゼムあたりが言いそうな科白だ」
「もちろん僕はそんなだいそれたもんじゃない。でもまあ、確かに偉そうに聞こえたかもしれないね。今シンがやってみせてくれたようなことは、僕なんかには到底できるものじゃない……ストレイの御業、確かに恐ろしいものだったよ」
「どうかな。雪の嵐を巻き起こし、大地さえ揺るがす……まるで自然を操るかのごとくセレマだが、その意志は軟弱とさえ言える。その証拠に、見るがいい。変異種どもの足止めはできても、直接消滅させるようなことにはなっておらん。目の前に亀裂を生じさせるくらいなら全て奈落の底に落としてしまえば良かったものを」
ミュラーがゆっくりと首を振る。
「それは違うな。彼は――シンは、無意識に恐れたんだ」
「……どういうことかな」
「実際この場にいて、わかった。あの数の変異種を全滅させるだけの影響を大地に引き起こせば、外壁の外にいる人たちはもちろん、ここや王都にいる人たちだってただじゃ済まない。シンはそのことをよく理解していたんだ。あの程度の現象で済んだのは、シンの意志が軟弱だったせいなんかじゃない。そもそもそんな人はこんな危険なところにのこのこやって来たりはしない」
シンはまじまじとミュラーを見つめた。今までの見かけからはまるで想像できない言葉を次々と聞かされ、どう反応してよいかもわからなくなる。
「さあ、いい加減どうするか決めないかい? このまま僕たちとやり合うか、あのベイルとかいう娘を連れて引き下がるか」
「おまえたちに退く気はないということだな」
「さっきからそう言ってる……ずっと気になっていたんだけど、君の言葉は強者のそれではないね。間違いなく、君は僕より強い。こんな話を続けている暇があったらさっさと僕たちを殺せばいいのに」
「むろん、俺とて単に話を引き延ばしていたわけではない。先ほどからずいぶん機を窺っているのだが、どうにもこの足が動いてくれん……俺の〈感〉がこれ以上踏み込むなと言って聞かんのだ」
「気のせいだよ、と言ってもさすがに信じてはくれないんだろうね」
「このような感覚は忘れて久しい、できれば説明してもらえると助かるぞ――いったいこの、身の竦むような恐怖の正体はなんだ?」
言葉とは裏腹にマールズは牙を向くように口元をつりあげた。
「本当に、エーテルの感が鋭い人だ。教えてあげたら、引き下がってくれるかな」
ミュラーがマールズと同じような表情を浮かべながら、首を傾げる。
「普通に戦えば間違いなく君が勝つ。けどそれ以上踏み込んできたら僕は確実に君の首をへし折るよ――さっき君がシンにしようとしたみたいにね」
ミュラーとマールズは一切視線を外すことなく睨み合った。
一瞬の気の緩みさえ許されないような張り詰めた空気が、周囲を包み込む。シンを含め、その場にいる誰もが身動きどころか息すらつけない。
いったいいつまで続くのかと思い始めた、そのとき。ふいにマールズが全身の力を抜くようにひと息ついた。
「いいだろう。今回は、こちらが退くとしよう。想定していなかったことが多すぎる。経験上、このようなときに無理をするとろくなことにならん」
「賢い判断だと思うよ」
ミュラーが真顔でうなずいた。
「ストレイよ」
マールズが唐突にシンへと視線を向けた。
金色に光るその瞳から、シンは目を逸らすことができなかった。
「なぜアルシノとアルグラフィアがおまえのような子どもを選んだのかはわからぬが、次目にするときまでにはもう少し扱えるようになっておくんだな」
「アルシノのことを知ってるんですか!?」
思わずシンは叫んでいた。
「おれが今この世界にいることと、アルシノは何か関係があるんですか」
「エルダストリーに来ておきながら、まさか知らないとでも言うつもりか?」
マールズは大きく片目を吊り上げたが、思い直したかのようににやりと笑ったり
「あるいは、そうか。それこそがお前の望みだったというわけか」
「どういう意味ですか!」
「その齢にして、いったいどれほどの絶望を背負ってここへやって来たのか。興味深くはあるが、いずれかの機会にとっておくとしよう――引き上げるぞ、ベイル」
「よろしいのですか」
ベイルはグレースと油断なく向き合うようにしながら言った。
「最低限の目的は果たしたからな」
「……わかりました」
「ちょっと、いきなり襲いかかってきておいてそれはないんじゃないの!?」
「ほらほら、引き下がるって言ってくれてるんだから邪魔しない」
ミュラーは、憤懣やるかたないといった様子のグレースをなだめるように手を振った。
「頼もしい仲間がいて幸運だったな、ストレイ」
「待って、教えてください! エルダストリーとおれがいた世界とは、いったいどんな繋がりがあるですか。アルシノはおれと——この世界と、一体何の関係があるんですか。そもそもおれは、どうしてここへ来ることになったんですか!」
「当然、おまえがそう望んだからだ。意志なき者に物語への道は開かれん。あるいはそれを知らないということが、ストレイとしての力を発揮できない要因ともなっているのかはわからんが」
「おれが……望んだ?」
「おまえが混乱するのもわからんでもない。ここに降り立ったばかりの時は《《皆》》そのようなものだ。ただ、今は自分のことに構っている場合ではないと思うぞ。おまえのセレマと仲間たちの見事な立ち回りに敬意を表して、ひとつだけ忠告してやろう。パレスガードとしての責務を果たしたいのであれば――おまえの中でラスティア王女という存在が大きなものであるならば、急ぎ王宮へ戻るのだな」
「それは、どういうことですか」
「自分の目で確かめてみるんだな。また会おう」
そう言うか否や、マールズは瞬時に身をひるがえし、呆気にとられている大勢の兵たちを飛び越え夜の闇の中へと消えていってしまった。
それと同時にベイルも後ろに一回転しながら空中へと身を投げ出すようにした。
慌ててグレースが外壁の下をのぞき込むが、すでにその姿は門の中へ避難する人々の中に紛れてしまっていた。