第28話「セレマ再び」
目の前に広がる大群を見ても、それがいったい何なのか、最初シンにはまったくわからなかった。いや、理解できなかった。
その一つ一つが形作る存在は、あまりにも異形すぎた。
顔と思われる箇所が、大きく横に裂かれるようにして開いていた。その奥からは蛇によく似た生き物が生えており、絶え間ない嘶きとともにぐねぐねとうねっている。
個体ごとに大小さまざまな胴体からは、いずれも硫酸のような液体が噴きだしており、煙を巻き上げながら自らの身体を溶かしているように見える。
地面に腐敗をまき散らす四肢のような物体が何本も地面へと突き刺さり、ずるずると這うようにしてこちらへと向かってくる。一見すると鈍い動きのように思えるが、実際はその巨体故に、人が走って逃げ切れるような速さではないことがわかる。
「――あれが、変異種」
しかしなによりシンの目を奪ったのは、その双眸だった。くり抜かれてしまったかのように黒く落ち込んだそれは、生物らしい輝きや動きを一切感じさせず、己の渇望のみに従って蠢いているようにしか見えなかった。
想像していた以上のおぞましさに、体の震えが止まらなくなる。
到底生き物ともいえぬ存在が、互いに重なり、絡み合うようにしながらシンたちのいる外壁へと迫っていた。
守りについていた兵士たちも、目の前の光景にただただ圧倒され、文字通り降って湧いたように現れたシンたちにさえ気づかない様子だった。
「……ものすごい数」
グレースがつぶやくように言う。さすがの彼女もこれほどまでとは思っていなかったのだろう。
「でも、あの人たちを放っておくわけにはいかないよ」
ミュラーの視線の先には、門の前に密集し、今なおか細い声で助けを求める者や、すでに命をあきらめたかのように座り込んでしまった者、そして、呆然と立ち尽くす人々の姿があった。
「あれをすべて討伐するとなるとオルタナの全兵力とギルダーたち、それに各地の騎士団を呼び集めるくらいの兵力がいるわよ。領兵だって必要かもしれない」
「だね――シンは変異種を見るのは初めてなんだろう?」
シンは変異種の大群から目を逸らすことなくうなずいた。
「エーテライザー以外の人たちにとって変異種を討伐するのはとても大変なことなんだ。見てのとおりあいつらは自分の体さえ溶かしてしまう体液を常に吹き出してる。エーテルか炎を纏わせていないもの以外はみるみるうちに溶かしてしまうから、一度捕まえられたら最後、想像を絶する激痛の中その牙にかかるのを待つことになる」
淡々と口にされるミュラーの説明が、余計シンの喉をからからにさせた。
「こうなってくるとラルコンの言い分にも一理あると言わざるを得ないわね。門を閉ざして外壁の上から火矢を射かけるのが最も効率がいいもの。この方法なら外壁の兵だけでも十分持ちこたえられるし、確実に数を減らすこともできるわ」
「にしても、彼らを締め出すのはさすがに早すぎた。ギルダーたちに防衛線を敷かせて徐々に後退していけばそれほど被害を出さずに避難させることもできたはずだ」
「……きっと、何とも思っていないんだ」シンがぽつりと言った。「おれが読んできた物語の悪役っていうのは、だいたい自分のことしか考えない人たちだった」
「なによ、それ」
「ずいぶんおもしろい表現をするね」
「でも、こうしてとんでもない数の怪物を目のあたりにすると、そんな単純な感想を抱いていた自分を殴りつけたくなる……力をもたない、勇気や信念をもたないおれみたいな人間は、自分の身を守ることで精いっぱいなんだ」
「シン?」
「だから、二人がいてくれて本当に良かった……一人だったら、きっとおれは、今すぐにでも逃げ出していたと思う」
なんとかできるかもしれない、なんて。どうして考えてしまったんだろう。
もはや自分の足で立っているという感覚もなかった。ただ、巨大な外壁を揺るがす地響きだけは確かに感じていた。
「お願い、開けてぇ――」
「嫌だ、あいつらに喰われるのだけは嫌だ」
「エルダよ、どうか我々に道をお示しください……アヴァサスの魔手から我々をお救いください」
外壁の下から飛んでくる声に、耳を塞ぎたくなる。できればこのまま王宮にとって返し、ラスティアの傍らにありたかった。だが、そんなことをしてしまえば自分は二度と彼女の隣に立つことはできない。
そう、確信していた。
誰に言われるからでもない、自分自身がそれを許せないからだ。
なぜなら自分は、もう選んでしまった。
ラスティア王女のパレスガードという道を。
もう、何もわからないままレイブンの森に現れたときの自分とは違う。そばにいると約束し、自ら背負ったものを投げ捨てて逃げるような真似はできない。
そんなことは教わっていない。
「よくわからないけど、逃げ出す気がないならもちろんやってくれるんでしょうね。ザナトスの奇跡ってやつを今こそ見せるときよ」
グレースはまるで自分の手柄かのように言った。
「僕もアインズに来てからたくさん耳にしたよ。ラスティア王女のパレスガードはバルデスの大軍を退け、王都に光柱まで出現させた絶対者なんだって」
ザナトス、そしてラスティアという言葉が、恐怖で立ちすくみそうになるシンの意識を踏み留まらせる。
(シン……こんなことに巻き込んでしまってごめんなさい。でもおねがい……もしあなたに何かできるなら、そんな力があなたにあるなら、ここにいる人たちをたすけて……)
あの日言われたラスティアの言葉がまざまざと思いだされる。
(いつになっても、ふがいないやつで……ごめん)
⦅意志することを行え⦆
それは自分が意識した言葉だったのかもしれないし、いつかのテラの声だったのかもしれない。
けれどシンは、あの日のように「おまえがなんとかしてくれよ」という言葉は吐かなかった。
自分で選んだ道だ、一人で歩けないでどうやってあの人の傍にいられるっていうんだ。
⦅想像せよ、己の中の現実を⦆
(だけどあの怪物の大群をやつけられる、あるいは退けられるような想像なんて――)
シンには目の前に迫るおぞましい怪物の大群が、雪の嵐を巻き起こしてもなお突き進んでくるような気がしてならなかった。
バルデス軍とは違い、今度の相手は人ですらないのだ。ザナトスのときのように上手くいくとはどうしても思えない。ということはつまり、シンの中の想像も意志も明確に定まらないということだ。
なにより一度失敗してしまえば、おそらく二度目はない。
シンにはグルの枯渇という、どうにもならない弱点があったからだ。
「さあ、どうする。もう時間がないよ」
まったくそうは思っていないようなミュラーの言葉が飛ぶ。
「ちょっと、呆けてないでいい加減なんとかしなさいよ――すごい揺れ」
よろめきそうになったグレースは慌てて両足を踏ん張るようにした。
変異種の大群が引き起こす地響きが、いよいよ凄まじい振動となって外壁を揺らしはじめていた。
外壁の上にずらりと並んだ兵たちも、隊長の鋭い号令のもと弓を構え一気に攻撃体制をとる。次々と灯されていく火種が陽の落ちたばかりのオルタナを煌々と照らし出していくが、狙いを定めることも難しそうだった。
「ラスティア――みんなごめん。おれにはこんなことしか」
「「え」」
グレースとミュラーが同時にシンの顔を覗き見た、その時――
王都全体を巻き上げるかのようなエーテルの奔流がシンを包み込んでいった。
あまりの眩さに、その場にいる全員が一斉に顔を背ける。しかしグレースとミュラーの二人は、かざすようにした両腕の隙間から、溢れ出るエーテルの合間から、確かに目撃した。
シンの漆黒の瞳が、根源色へと輝く様を。
⦅想像せよ、己の中の現実を⦆
(おれに、《《そこまでの》》経験はない。けど、イメージくらいはできるはずだ。実際の記憶に、映画のような虚像を織り交ぜろ。テラの言葉を思い出せ。現実のこととして思い浮かべて、発現させろ。そして確実に、あの怪物たちだけに狙いを定めるんだ――)
自分自身に強くそう言い聞かせながら、シンは《《その光景》》を思い描いた。
「――ちょっと、どういうこと!」
「まさかこれは……!」
臆するということを知らないかのようなグレースとミュラーが、思わず互いを庇い合うようにして身を伏せた。
到底立っていられるような状況ではなくなったからだ。
外壁の外に締め出された者たちに、変異種たちの牙が、爪が、その口元であろう箇所から滴る唾液が、いよいよもって迫ろうかという、まさにその時。
変異種の大群、その先頭集団の鼻先から一気に線が引かれたように亀裂が入り、そして――
地面が《《ずれ》》た。
凄まじい勢いで大地がひび割れ始め、変異種たちのいく手を阻んでゆく。
外壁の外にいる者や兵たちはもちろん、オルタナとその近郊に暮らす全ての人々が、激しい大地の震動に恐れおののき、ある者は地面にひれ伏し、ある者はすぐそばの柱にしがみつきながら、叫んだ。
光の創造主エルダの御名を。
そして、人々は思い起こした。かつて幾千もの星を落とし、カイオスの大地を崩壊させるにいたった最強のストレイ・ウォルトの凶行を。