第27話「外壁の上で」
水の都と称されるアインズの王都オルタナは、その名が示す通り河川を利用した交易が盛んであり、一日のうちに数えきれないほどの船舶が行き来していた。しかし陸路の方が廃れているかといえば、まったくそんなことはなかった。
西外壁から伸びる街道は、そのまま方角通りに進めば大国ディケインへ、途中進路を変えて北上すれば国境都市ザナトスへと繋がっている。シンたちもこの道を下ってオルタナへとやって来ていた。季節や刻限に限らず大勢の人々が往来するそれらの街道は、多くの哨兵やギルダーたちの功績により、西方諸国の中でも特に危険の少ない交易路として有名だった。
しかしその道は今、ディケインやザナトスからやって来た者、あるいはオルタナからそれぞれの都市へと旅立とうしていた者たちの阿鼻絶叫の最中にあった。
変異種の大群は、遠く粉塵巻き上げながら確実にこちらへと迫って来ていた。
少しでも目端の効く者は一目散にもと来た道を引き返していた。不運なことに、すでにオルタナに程近い場所まで来てしまっていた者たちは、とにかく外壁の中へ逃れようと脱兎のごとく駆けていた。しかし――
「東門が閉まるぞぉ!」
一人の男の叫びがもたらした影響は、計り知れなかった。そんなことは考えもしていなかった人々は、口から泡を吹き出さんんばかりに助けを求め、我先へと門の前に押し寄せた。
「なんてことしやがる、まだ大勢残ってるんだぞ!」
「開けて、開けてぇ!」
「頼む、まだ閉めないでくれ!」
「せめて子供たちだけでも中に入れてぇ!」
その光景を外壁の上から見つめていた兵たちの間でも、激しい混乱が生じていた。
「まさか、本当に門を閉ざすつもりですか!」
「王宮からの命令だ、しかたあるまい」
「しかしこのような強引なやり方では――よせ、止まれ! 押しつぶされるぞ!」
「ああ!」
無理に門を押し通ろうとした者たちがひしゃげていく有様を見て、アインズ兵たちも目を背けずにはいられなかった。
逃げ遅れた者たちは、ある者は絶叫し、ある者は茫然と立ち尽くしながら、夕闇の迫る空と押し寄せる変異種の大群を見つめることしかできない。
自分たちが外に締め出されたことにすら気づかない者さえいた。その多くが王都に家を構えることのできない下民や貧困層の者たちであった。
彼らの住処である、粗末な布や木材を外壁に沿う形で組み立てられたぼろくも巨大な建造物はある意味圧巻でもあったが、そんなところへ逃げ込んでどうしようというのか、ひたすら小さくなりながらエルダへの祈りをくりかえす者まで出始めた。
しかしそれも致し方ないことではあった。外壁に沿って逃げようにも、横一線に連なるように迫ってくる変異種たちから逃れられるとは到底思えず、そのうえ東外壁の周囲には特に多くの大河が流れている。大の大人でも泳いで渡れるような距離や流れではないうえ、渡船の唯一の方法である船舶も、今や一斉に安全な岸側へと避難しているような有様だった。
そのため目前にある西門から王都の中へ逃げ込もうとするのは当然の行動といえた。彼らには、なぜ守衛の兵士たちがこれほど早く門を閉ざし、自分たちを締め出したのか一向に理解できない。理解できないからこそ、門を開けろと必死に泣き叫ぶ。
「頼む、頼むぅ! 今なら間に合うだろぉ、開けてくれぇ」
「俺たちは下民なんかじゃない、れきとしたアインズ国民だ! こんな外の奴らと一緒に締め出さないでくれぇ!」
「俺たちはディケインからやってきたんだぞ! アインズは他国の民を見捨てるのか!」
「頼む、子供たちだけでも中へ入れてくれ!」
陽が完全に落ちかけようとした頃には、変異種たちの哀愁と渇望に満ちた嘶きが耳に届き、どこへも逃げる当てもない者たちを絶望へと叩き落とした。
彼らには、確実に死の影が忍び寄っていた。本来であれば堅牢な盾となってくれるはずの門が、無情にも彼らを拒んでいたからだ。
絶望と無力感にうちひしがれ、それでも叫び続ける者たちの鳴き声が、大いなる繁栄を誇っていたはずの王都の夕闇の中に悲しく染みわたっていった。
§§§§§
オルタナの夜といえば、煌びやかな街明りによって都全体が水上の宝石のように浮かび上がり、深夜をまわっても街行く人々の姿は消えず、いつ何時も活気あふれる喧騒と楽し気な笑い声に包まれることで有名だった。
しかし――
「第一から第五小隊は外壁に上がり変異種の防衛にあたれ! 第六、第七小隊は王都内の人々を誘導せよ! 第八小隊以下は――」
「王宮からの指示はどうなっている、増援は!?」
「皆、プトレマイオス大広場に集まるのだ!」
「早く行け!」
「押すな――押すなというのに!」
「すでに門は閉ざされている、慌てる必要はない!」
今や王都を守る兵たちが張り上げる声と甲冑の音がいたるところで鳴り響いていた。その傍らを大勢の民衆が駆け抜けていく。外壁近くで暮していた人々が、より安全と思われる王都の中心区画への避難を開始したのだ。
しかしそのような喧騒を脇目に、まったく現実味のない者たちもいた。
「今さら変異種の大群っていわれてもなあ、ここ数年はずいぶん数を減らしていたはずだろうに」
「そもそも、本当に危険なのか? アインズ兵はもちろんギルドの連中だっているんだぞ」
軒先から顔を出し、対岸の火事のように語り合う。
「馬鹿なこと言ってないで、あんたらも避難した方がいい!」
幼い子供を抱きかかえた男が走り際に叫ぶ。
「数えることすら馬鹿ばかしくなるくらい物凄い大群だったんだからな!」
そう言い捨て、走り去る大群衆の中に紛れていってしまう。
「大げさに言ってら。今のやつも含め、逃げてるやつの大半は外から逃げ込んできたやつらじゃねえか。特に下民の奴ら、この機会に乗じて略奪でもしようって魂胆じゃねえだろうな」
「だいたい、門を破られちまうほどの大事ならどこに逃げようとたいした変わらんだろう」
「……実際に目にしてきた人たちと中の人たちとでは全然反応が違うみたいね」
前を行くグレースがつぶやくように言った。混乱と戸惑いのなか向かってくる群衆を巧みに避け、目を丸くする人々の傍らを一瞬のうちに駆け抜けていく。
そのすぐ後をシン、ミュラーが追いかける。
グレースとミュラーのエーテライズを始めて目のあたりにしたシンは、その見事さに正直面食らっていた。
自分より劣っている、などと思っていたわけでは決してない。グレースを始めて目にしたときなど、相当な使い手だと思ったほどだ。しかしこれまでの話を聞いていると大人扱いしてもらえない子供のようにしか見えなかったし、ミュラーにいたってはどうにも真実味がなかった。
しかし実際にはシンよりよほど巧みにエーテルを扱っており、少しでも気を抜くと置いていかれそうなほどの速度だった。
(すごいな、全然余裕みたいだ)
隣を走るミュラーが涼しい顔のまま王都の状況を眺めているのを見ると、感嘆せずにはいられなかった。
その甲斐あって三人はギルドを出て早々に東側外壁の門を見上げるところまでたどり着いた。
実際シンは、大いに助かっていた。いまだ王都の構造や街並みをほとんど把握できていなかったため、グレースが先導してくれなければこれほど短時間のうちに駆けつけることなどできなかっただろう。
「本当に、門を閉じてしまったんだね」
ミュラーが巨大な外壁と門を見上げながら、驚き半分呆れ半分といった様子で口にした。
「おまえたち何者だ、これ以上近づくことはできんぞ!」
兵の一人がシンたちの存在に気づき、叫ぶ。
当然だった。三人がいる西側外壁のすぐ内側にあたる場所はすでに避難も終え、代わりに大勢のアインズ兵が詰めていた。そんななか突然現れたシンたちは恐ろしく目立っていた。
グレースとミュラーが、おまえの出番だといわんばかりにシンを見る。
シンはため息をつきながら呆れ半分、怖れ半分のまま進み出た。
「おれはラスティア王女のパレスガードで、シンと言います。外壁の外にいる人たちを助けるためやってきました」
「ラスティア王女の――パレスガードだと!?」
三人を取り囲むように集まり出していた兵たちは険しい顔から一転、目を瞬かせながらシンの頭からつま先までを何度も見つめるようにした。
「おまえ、いやあなたが――それに助けるとは、いったいどうやって」
「とにかく、外壁の上に行きたいんです。外の様子を確かめさせてください」
兵たちはひどく困惑した様子のまま一様に顔を見合わせた。
「そ、そう言われましても今は何人も近づけるなとの命令が出ておりますし、ラスティア王女のパレスガードと言われましても間近でお見かけしたこともない我々には確認する手立てが――」
「あーもう、まどろっこしいわね!」
グレースがたまりかねたように叫び、兵たちの胸に向かって指を突きつける。
「たとえシンの言ったことが嘘だったとして、いったい何の不都合があるわけ!? この緊急事態に駆けつけたエーテライザーが三人、外壁に登るだけよ!」
「それに、止めようとしたところで止められないしね」
そう言うが否や、ミュラーはあっという間に兵たちの間をすり抜け、まるで地面を走るかのごとく外壁の巨大な壁を駆け上がっていってしまった。
「確かに、それが一番早いわね――行きましょ、シン」
グレースもミュラーとまったく同じ行動をとり、シンを置き去りにしていなくなってしまう。
一人残されたシンは、呆気にとられている兵たちに対し「すみません」と言って頭を下げ、ため息交じりに二人のあとを追った。
シン一人でやって来ていたとしたらこうはいかなかったものの、無理やり感は否めなかった。
(助かってるんだか、困ってるんだか)
そんなことを思いながら両脚にエーテルを集約し、外壁を駆け上がる。といってもシンの場合あまりそのような突飛な想像ができず、一気に飛び上がったという方が正しいかった。
振り向くと、外壁に集まっていた大勢の兵たちは、グレースの言うとおり止めるどころか追ってくることすらできず、茫然とこちらを見つめているのみだった。
「見て、もうすぐそこまで来てるよ」
シンが外壁の上に着地するや否や、フェイルがそれを指差しながら言った。