第10話「はじめての喧騒」
「お体は大丈夫ですか」
レリウスが気遣うような声をかける。
「だいぶ良くなりました。もとより時間が経てば回復することはわかっていたのですが……少し、無理をしすぎました」
「やはり、アーゼムの業を?」
ラスティアはその質問には答えなかった。
疲労の色が残る顔に微笑を浮かべながら首を振り、シンへと視線を向ける。
「盗み聞きは悪いとは思いながら、所々お話を聞かせてもらっていました。あなたと出会えたのは、本当に、信じられないような幸運でした」
「そんな――こっちこそ、助かりましたから」
レリウスのときとはまた違う緊張が走り慌てて口にする。
「レリウス様の言う通り、ぜひ私たちとともにオルタナへいらしてください。といっても、私自身どのような待遇となるかもわかりませんが、出来うる限りの礼をさせていただきます」
「何を言われますか、ラスティア様を王女として迎え入れることは他の誰でもない、ラウル王とランダル様がお認めになったこと。戴冠の儀を終えるまでは正式な身分とはいえないかもしれませんが、そんなことは形式上のことでしかありません。堂々と王都の門をくぐっていただき、心置きなくシンを遇して欲しいと思います」
「そう、できればいいのですが」
「もちろん、私も負けじと礼を尽くすつもりですが。むしろラスティア様は王女として身の回りのことを整えていただかなくては。我が国の王子王女方はもちろん、宮殿に詰めている者たちとの顔合わせや、ラスティア様が強く希望されている王立大学に通われる準備もあります。おそらく目が回るほどの忙しさになるかと思いますよ。シンのことは、このアルゴード侯レリウス・フェルバルトにお任せください。こう見えてそれなりに大きな顔ができる身分ですから」
二人の話を黙って聞いていたシンは、自分が分不相応なことを言われているのではないかとひどく落ち着かない気分になった。だが、たった一人この世界に放りだされていたかもしれないことを考えれば贅沢すぎる悩みだと思い直し、一言「よろしくお願いします」とだけ口にし、頭を下げた。
「ありがとうございます、レリウス様」
ラスティアも荷台で頭を下げる。
「ですから、私に対するそのようなお言葉遣いも直していただかないと」
「努力します」
ラスティアはどこかあきらめたような笑みを浮かべると、シンの方を振り向いた。
「あなたも、どうか敬語などはおやめください。私のことも呼び捨てて構いませんので」
「あの、それじゃあお互いそうするってことで」
シンは頭を掻いた。
「そんな丁寧に話しかけられたらこっちも縮こまっちゃうというか……」
「わかりました――わかったわ、シン」
ラスティアの顔に、今までとは違う光が差したような笑みが広がり、シンは思わずどきりとして視線を逸らした。
「ひとり休ませてもらっていた身で言うのは心苦しいのですが――先日の襲撃者たちが追ってくるような気配は」
ラスティアが荷台の外に視線を走らせながら聞いた。
レリウスは深くうなずきながら手綱を握り直した。
「森を抜けたあとは何の異常も、人の気配すらありません。シンもずっと見張り勝って出てくれていましたから」
テラという奇怪な鳥が目の前に現れたことを抜かせば、ではあったが。
「そんなことくらいしかできないし」と、シンは曖昧に頷いてみせた。
もしかするとエルダストリーでは人の言葉を話す鳥がいても不思議ではなかったのかもしれない。しかしそうでなかった場合は口にしただけで不審がられてしまうという結論に達し、結局「異常なし」と報告する他なかった。
「ご覧の通り見渡す限りの平野です。レイブン側は極端に人の往来が少ないとはいえ、ザナトスはアインズ北部における交易の要所。いつ誰がやってくるかわからない状況で襲撃するような真似はしないでしょう。それに――」
そう言ってレリウスがシンへと視線を移す。
「器保持者として、シンにあれほど力の差を見せつけられては……ラスティア様のお命を狙うどころか逆に自分たちの身を危険に晒しかねない」
「レリウス様――レリウスの言う通りですね」
シンが何か言うよりも早くラスティアが同調する声をあげた。
「これもシンが同道してくれたおかげです……ただ、私たちの身の安全のためにあなたを巻き込んでしまった。そのことを、どうか、お許しください」
「いや、おれはなにも――」
深々と頭を下げられ、言葉に詰まる。
「実は、ラスティア様の言う通りなのだ、シン」レリウスが前方を見据えながらうなずく。『恩人として遇したい』などと言っておきながら、その実君が優れたエーテライザーであると、私は見込んでいた。自分たちの身の安全のために利用したようなものだ……すまない。ラスティア様、本来であれば私が先んじて頭を下げておくべきでした」
ラスティアが静かに首を横に振る。
「あの者たちの狙いは、間違いなく私にあった。私のせいでアルゴード家の大切な人たちが」
「あなたのせいではないと、そう申し上げたはずです」
レリウスがぴしゃりと言う。手綱を握る手に力が込もるのがわかる。
「私を殺すためと、ベイルと呼ばれていた男ははっきりそう言っていた――」
「今はやめましょうラスティア様。正直、私自身思うところがないわけではありません。ただ、このような状況のまま話し合ったところでろくな結論はでないでしょう。まずはお体を回復させることだけをお考えください。襲撃者たちの件やこれからのことについては、どうかそのあとに」
「わかりました……ザナトスまではあとどれほどでしょうか」
「この調子なら、陽が沈みきるまでには到着できるかと。ザナトスの執政官には余計な仕事を増やしてしまうかもしれませんが、せいぜいもてなしてもらうとしましょう。なあに、アルゴードの名を出せばそれくらいのことはしてもらえますよ!」
何かを吹き飛ばそうとするかのようなレリウスの声がエルダストリーの空へと響き渡る。
「その、アルゴードというのはレリウスのこと?」
ずっと黙っているのも何だか気まずいような気がして、口を挟む。
「ああ、こう見えて私はアインズのアルゴード地帯を収める領主でもあるんだよ」
「失礼な言い方かもしれないけど……実はレリウスって、すごく偉い人だったりする?」
レリウスはシンの顔をまじまじと見つめたが、次の瞬間には豪快な笑い声をあげた。
「いやいや私ごときが『すごく偉い』などと、そんなことはまったくない」
「そんな、レリウスはアインズの――」
「ラスティア様」何かを言いかけたラスティアの言葉を、レリウスがやんわりと制す。「私はラウル王の忠実なる臣下の一人に過ぎません世。厚かましくも大きな顔をしているだけのね。もっとも、私が命に代えても守るべきアルゴード領がアインズにとって非常に重要な財産であることは確かですが」
「やっぱり、偉い人のような気がするけど」
シンがさらに言うと、レリウスの笑い声はなおも大きくなった。
「では偉そうに見える私の立場を利用し、ザナトスではせいぜい贅沢をさせてもらうとしよう――とまあ、私ごときが何かを言うよりラスティア様の御身分を明かせば事足りるのですが」
照れたようにそう付け加え、ラスティアの方を振り向き頭を掻くのだった。
ラスティアも笑っていた。
険呑な雰囲気にならなかったことに安堵しながらも、シンは思わずにはいられなかった。
自分はきっと、本当の意味で今のこの状況を受け入れられてはいないのだ、と。
ラスティアが言いかけたとおり――ほんの数日前確かに自分は、映像ですら見たことのないむごい死に様を目のあたりにした。せり上がってきた胃液の味や、今まで嗅いだこともない臭いを、今でもまざまざと思い出すことができる。しかしそれが自分の身にも降りかかるかもしれないことだと、果たして認識できていただろうか。
危険極まりない男たちに襲われたときや、変異種という化け物に追われたとき。ひとりで見張りをしていたときもそうだ。怯えていたのは確かだが心のどこかで「自分は大丈夫」、「自分には関係のないこと」だと、そう思ってはいなかったか。
目の前の広がる光景を、いまだ現実のこととして捉えることができない。そんな中、ラスティアとレリウスの二人だけが、シンにとって確かな存在として感じられたのだった。
§§§§§§
道の両脇から遠くの建造物にいたるまで、暖かな明かりがいたるところに灯っていた。
シンたちがゆく整備された街道には、まるで見慣れぬ格好をした多種多様な人々が大勢行きかっている。
その光景は幻想的という言葉以外表現しようがなかった。
呆けたように口を開け、荷台の隙間からザナトスの街並みを見渡していたシンは、自分の目が二つしかないことを生まれて初めて悔やんでいた。
「そんなに身を乗り出したら危ないわよ」
多少笑いを含む声でラスティアから注意されるが、何度引っ込めても同じような体勢になってしまう。
本当ならレリウスの隣に立ち上がって思う存分見渡してみたかったが、シンの外見はさすがに目立ちすぎると言われ、人並みが増えてくる前に荷台へと引っ込んでいたのだった。
黒い髪と黒い瞳、履き古した細身のパンツに薄手のパーカーという、シンにとっては珍しくもなんともない恰好が、エルダストリーの人々にとってはすさまじく目を引くらしかった。
「私たちはその……出会い方からして普通ではなかったのですっかり受け入れてしまっていましたが、このまま街へ入ってしまうと」
目立つといえば明らかに負傷している様子のレリウスも負けていないと思ったが、アインズの騎士にしてアルゴード侯という肩書をもつレリウスは、街行く人の視線もなんのそのといった体で堂々と馬を進めていた。
やがてレリウスはひと際大きい建物の前で馬車を止めると、扉の両側に立つ衛兵のような男たちに悠然と近づいていった。
最初は怪訝そうな表情を浮かべていた男たちだったが、レリウスが何事かを話しかけた瞬間、目に見えて背筋を伸ばし、慌てて建物の中へと駆け込んでいった。
それほど待たされることなく、建物の中から背の低い、小太りの男が転がるように飛び出してきた。
「本当にそのっ、あ、アルゴード侯であられますか!? いったい全体あなたのようなお方が何用で――」
「そなたがここの執政官か。詳しい事情はあとで話す」
レリウスは大仰にうなずいた。
「とにかく今は体を休めたい。至急、私たち三人の部屋を用意してくれないか」
「さ、三人とは……!?」
ワルムと呼ばれた男が、レリウスの傍から覗き込むようにしてこちらを見る。
「行きましょう」
ラスティアの言葉に慌ててうなずき、あとに続いて荷台を降りる。ラスティアの足取りは少しばかりおぼつかなかったが、十分一人で歩けるくらいまでには回復しているようだった。
「こちら、ロウェイン家のご息女にしてアインズ王の姪にあたるラスティア様だ。それと――ラスティア様の従者である、シン」
レリウスは前もって三人で決めておいたとおりの発言をした。従者などと言われ顔から火が出そうになったが、執政官にとってはラスティアの方がよほど問題らしかった。シンの外見にもまったく目を留める様子もない。
「ろ、ロウェイン家――アインズ王の姪ですと……!」
ほとんど恐怖に近い表情を浮かべ、腰を抜かしたようにうしろへよろめく。
「すまないが急いでくれないか。こうして普通に話してはいるが、かなり疲弊しているのでな」
「それはもう、はい、ただちに!」
見ているこっちが可哀そうに思うくらい平伏しきったワルムが、再び建物の中へと転がり込んでいく。
「レリウス」ラスティアが鋭い声で呼びかけた。「森に残されたままの人たちを弔わなければ。それに、あのままでは変異種たちに――」
レリウスが黙ってうなずく。
「落ち着き次第すぐに人をやるよう、手配いたします」
そんなやりとりを、シンは少し距離をとるようにして聞いた。
それは二人がときおり見せる、シンが立ち入ることのできない空気であり、領域だった。
「誰か、早く人を、人を集めろ! アルゴード侯が――王女殿下がお見えになられた!」
建物の中から聞こえてくるワルムの上ずった叫び声が、なんとなくシンをほっとさせた。