凡人もいずれは真実に辿り着く
当たり前の話だが、人は死ぬ。しかし、この当たり前の事もあまり理解されていない気がする。
真実というのは何か、と言えば、身も蓋もない事だったりする。真実というのは、じっと我々を待っている。真実は、我々がどれほど避けようとしても避けられないものとしてそこにある。
我々がどれほど虚妄の中に逃げ込もうと、同じ虚妄を抱いた人と群れて謬見の中に逃げ込もうとしても、逃れられない。そこに真実の価値がある。逆に言えば、真実はいつも遅れて我々にやってくる。
先ほど、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」を読み終えた。再読だったが、色々考えさせられ、衝撃を受けた。
「意志と表象としての世界」は、ショーペンハウアーの代表作だったが、出版後長らく、文壇からも世間からも無視されていた。だが数十年経って、脚光を浴びた。今では哲学の古典として知られている。何故、この著作がこのような力を持ったかと言えば、それが真実を摑んでいたからだ。それ以外の理由はない。
ショーペンハウアー自身は次のように書いている。
「しかし人生は短いが、真理は遠くにまで影響し、永く生きる。さればわれわれは真理を語ろう。」
(「意志と表象としての世界 Ⅲ」より)
ショーペンハウアーが何故、長い間、自分の著作を無視され続けられる事に耐えられたのか。また、どうして彼が長い空白期間を挟んで、急に評価されたのか。真実は遅れてやってくるから、というのが理由であると思う。
真実というのは我々をじっと待ち構えている。凡人ですらもいつかは真実に到達しなければならない。それは逃れられないものとしてある。だから偉大な作品は、現実の底から生み出される真実と連携して、歴史の中を価値ある作品として生き続ける。古典は単にその作品の価値で生きているだけではなく、人間が生きていく上で現れてくる真実と連携しながら命を保ち続ける。
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つい先日、安倍元首相が手製の銃で撃たれて亡くなった。私は安倍という人が嫌いだったが、その感情については置いておく。
安倍首相死去の報道で、私が(なるほどな)と思った事が一つある。それは安倍元首相の夫人、安倍昭恵のコメントだ。私は安倍昭恵も嫌いだったが、それについても置いておきたい。安倍昭恵は夫が亡くなって次のようにコメントしている。
「あまりにも突然のことで、まだ夢の中にいるようです」
私はこのコメントを見て(なるほど、そうか)と思った。何が(なるほど)なのかと言えば、安倍昭恵のような人でも、悲劇的な事態に襲われれば、真実を認識せざるを得ない、という事だ。ここで言う真実とは『人は死ぬ』という事だ。
「まだ夢の中にいるようです」という認識は正しい。…もちろん、安倍昭恵が私が想像するような形で真実を掴み続けるのは考えられないし、私にはあまり興味がない安倍元首相の取り巻きらも、色々な形で真実を歪め、自分達に好都合な現実を作り出そうとするだろう。
それでも真実は、安倍昭恵のコメントのような形で、人間の精一杯の虚妄、集団的な虚妄をも突き破って姿を現してくる。我々の幻想は最後には負けてしまう。敗北の後には真実が姿を現す。
「まだ夢の中にいるようです」というコメントについて考えてみよう。昨日まで当たり前のように横にいた人が、急にいなくなっている。だからこそ「夢の中のよう」という事なのだろう。この事実については、仏教哲学が口酸っぱく言っていた事だった。
現代の利口な連中は仏教を、あるいは仏教哲学を方程式や区画表で適当に処理してしまうのかもしれない。それは「終わった事」であり、今の我々とは関係ない、というように。しかし、仏教そのものは整理できたとしても、仏教が指し示した真実そのものは整理できない。
「夢の中にいるよう」というのは、もっと展開して考えられる。ツイッターを見ると、安倍元首相に近い思想の、一色正春という人が次のようなツイートを出していた。
『安倍さんを失って大きな喪失感に苛まれている人は少なくないと思います。それは心のどこかで「何があっても日本には安倍晋三がいるから大丈夫」との思いがあったからだと思います
悲しいことですが、もう安倍さんは、いません。残された我々が安倍さんの代わりに日本を守らなければならないのです』
このコメントに私が考えさせられたのは、「何があっても安倍晋三がいるから大丈夫」という部分だった。
当たり前の話だが、テロ行為がなくて、安倍晋三が今も生きていたとしても、彼もいつかは死ななければならない。彼に限らず、彼と反対の思想の持ち主も、若者も老人も、もちろん私もこれを読んでいる読者も、誰もいつかは死ななければならない。それにも関わらず「何があっても安倍晋三がいるから大丈夫」という感覚は、私には奇異なものに感じた。
だが、これは現代の趨勢である。これに関してはイデオロギーは関係無い。現代の大衆の特徴、信仰と言っていいだろう。私が最近思ったのは、黒柳徹子が相変わらずあの玉ねぎ頭で、テレビに出続けている事だ。
黒柳徹子はもう88歳である。引退して、ひっそりと自分の運命を享受してもいい頃だ。いい年なので、肉体・精神面で色々な支障が出ているだろう。それにも関わらず、黒柳徹子は未だに以前のままのイメージでテレビに出続けている。
黒柳徹子を応援している人は「キャラクターとしての黒柳徹子」を応援しているのであり、「一人の人間として生き、死ぬ個体としての黒柳徹子」を応援しているわけではないと思う。どれほど年を取っても、タレントは「キャラクターを演じる事」を強要される。
そのタレントが死んだら「もっと生きていて欲しかった」という嘆きの言葉、一見優しい言葉が諸方から聞こえるが、彼らは本当に優しいわけでも何でも無い。私はそう思う。
彼らはただ自分の偶像が、偶像としての機能を失っているのを悲しんでいるのであり、彼らは一人の人間の人生というものに全然、興味がない。人間の人生を描く文学が廃れるのも、このような状況にあっては当然かと思う。一人の人間として生きて死ぬという過程は蔑ろにされ、代わりに、人々にとって都合のいいイメージが無理やり固定化される。
そのような偶像がずっと同じポジションにいる事が強要されるが、人は死ぬのであり、世界の無情さはところどころで顔を出してくる。人々がどれほど共同で、ネット上で群れ、都合の悪いものを圧殺しようと、真実を排除する事はできない。
だからこそ、我々は真実を語らなければならないのだし、人々のリアルタイムの、近似的な虚妄を自分の中から排除しなければならないのだ。虚妄はその時代、時代で繰り返し現れてくる。それはしかし錯覚であり、真実は錯覚の向こうにいつも控えている。
私はこれまで、天才と凡人を違うものとして捉えてきた。それは間違っていなかったが、しかし凡人の中にも天才の欠片は潜んでいる。そうでなければ、凡人の我々が天才の作った芸術作品を享受する事はできないだろう。
私などは若い子と話していると(人生というのは君達が思っているものとは全然違うものだぞ)と言いたくなる事がある。そんな事を言えば、(こいつ、何言っているんだ)と思われるので、言わないが、ついそう思う事はある。
それでは、私のその実感と、若い子達の実人生の間にはどんな懸隔があるのだろう? これに関しては人々が私を馬鹿と罵り、単なる説教おじさんと蔑んでも、別に構わない。というのは、私は次のように考えているからだ。私が理性で摑んだものを、理性を持たない人は実人生で体験していくのだろう、と。人生、現実は多様な側面でもって展開していく。
この多様な側面は、様々な要素を我々に見せながら、次第に一つの真実を彫刻していく。現実の多様性、長い時間、そういうものが真実を作り上げていく。そして我々がどれほど好都合な、その一面を強調しようと、現実は容赦なく我々を押し流していく。
そうして我々は、今まで無視してきた、蔑ろにしてきたある著作(例えば「意志と表象としての世界」のような)の価値に気づかざるをえない。そういう事があると思う。
安倍昭恵のコメントも私はそういう価値観で読ませてもらった。「まるで夢の中にいるよう」ーーその通りであろう。ただし、あらゆるものがそうなのだ。確固としていつまでもあり続けると信じたいものも変化して、廃れていく。そしてまた違うものが新たに生まれてくる。
この社会は、時間そのものと格闘しているように見える。若い頃の青春を飾った作品が次々にリメイク・リバイバルされる。しかし、それで時間は永続されるものではない。人々は努力して虚妄を作り続けるが、その虚妄を突き破って真実は顔を出す。
そこで、先に真実に辿り着いていた人間が後から脚光を浴びる。そういう一連の事象がある。この現代社会も様々なものが進歩したと言いつつ、そうした流れから一歩もはみ出していない、と私は思う。
人々が虚妄を積み上げれば上げる程、真実はよりいっそう残酷に顔を出す。我々はそれを避ける事ができない。ただ、真実を認識するには強靭な理性が必要で、その理性の在り方は、リアルタイムにおいては蔑まれても、長い時間軸の中では意味あるものとして顔を出してくる。そういう事が人類の歴史の中でずっと続いてきたと私は考えている。