密偵:三つ子
ヤバい。マジでヤバい。
俺にはわかる。
今現在進行中で公爵の頭の中がヤバいことになっている。
わかりたくもないが、わかってしまう。
なぜなら十二年も公爵のヤバい思考に付き合わされているからだ。
ぶっちゃけてしまえば、シャルロット嬢と実際に再会すれば、公爵の執着心は冷めると思っていた。
子どもの頃に一度会っただけの相手を理想化しているだけで、現実に直面するとそんなもんだろって。
確かに、シャルロット嬢は普通の令嬢と違って、見張って――見守っている間かなり楽しかった。
いや、令嬢でなく普通の村娘でもあまりしないようなことをしていたな。
たとえば毒蛇を見つければ嬉々として捕まえ、薬師の元へ持っていく。
狩りの腕前も領地で一、二を争うくらいだった。
あの軟弱男との散歩中だって、まともな武器があればあっという間に追い払うか倒すかしただろう。
あれはシャルロット嬢が武器になりそうなものを探している間に、軟弱男が逃げ出したのが悪かった。
凶暴な動物はまず弱そうなものから襲いかかるからだ。
逃げる軟弱男を追う野犬を、あの動きにくいドレスで追いかけるなんてどれだけ大変だったか。
さすがに助けに入ろうかと思ったが、果敢にもシャルロット嬢はあんな貧弱な枯れ枝だけで野犬を追い払ったのだ。
賞賛に値すべき行為だったが、まさか狂犬令嬢などと揶揄されるとは、気の毒としか言いようがない。
だがたった今、この時のほうが気の毒に思える。
食事が終わって部屋に戻るシャルロット嬢――いや、奥様を見送る公爵の視線が明らかにヤバい。
奥様、逃げてー! 今すぐ逃げてー!
この屋敷の案内をされていると公爵が思っているうちに逃げてー!
悪いが、俺は助けることはできないけど!
なぜなら公爵にだけは勝てる気がしないからだ。
自慢だが、五、六人の兵士相手なら一人でも勝てる。
暗器をいくつか忍ばせていれば、甲冑を纏った騎士相手でも五、六人には勝てる自信がある。
それなのになぜか、公爵にはどんな武器を持っていても負けると俺の本能が告げている。
いや、そもそも奥様の心配をしている余裕なんてないだろ?
今すぐ逃げるのは俺だよ。
何か奥様に絡めて言い訳を……。
「さて、ジャンジョンジェイ、他の名前を聞きたいから、書斎へ来い」
「……はい」
知ってる。俺、知ってる。
ここで逃げられるくらいなら、とっくの昔に逃げてたよ。
今度はどんな無茶ぶりをされるんだ?
まあ、今まではシャルロット嬢に認識されてはいけなかったが、これからはとりあえず三つ子の誰かとその他親類縁者を持ち出せばいいので楽にはなるか。
そう思ったときが俺にもありました。
たったさっきだったがな!
「閣下、知ってると思いますけど、俺、名前はいくつかあっても体は一つしかないんすよ」
「それがどうかしたのか?」
「いやいや、どうかしますよね? 奥様の護衛として常に傍にいながら、近付いてくる者たちの素性を調べろとか、無理ですよね? さらには奥様の元婚約者たちの動向を今後も調べ――っ!」
「あの塵共をくだらない名で呼ぶな」
事実なのに!?
それで今度は本物のナイフが飛んでくるとか、ヤバいよな?
武器を隠し持ってるのは知ってたけど、音もなく投げつけるとか酷いよな?
それに俺にはわかる。
公爵はまだ他にも武器を隠し持ってるって。
まあ、無駄に敵を作るこの性格だから、暗殺未遂とかしょっちゅうだよな。
うん、知ってる。何度か狙われてる場面も見た。
もちろん助けに入ったりとかしてないけど。
このまま殺されねえかなあって見てたら、後ですげえ難題をふっかけてくるんだよ。
奥様の――当時のシャルロット嬢の親が苦労しないように、キツノッカ国王の命令書を入れ替えてこいとか。
無理じゃね?
てか、何で隣国の国王の考えてることわかんの?
そんでそれをどうしてバレずに内容の変わった命令書が用意できたんだ?
とりあえず俺、頑張ったけど。
もし捕まったらすぐに黒幕を白状しようと思ってたのに、できちゃったんだよ。
俺、天才じゃね? 知ってたけど。
うん、まあ、そのせいで今ココ。
何であのとき、お城になんて盗みに入ったかなあ?
あれを最後にこの国からおさらばするつもりだったのに、最後の最後でやっちまったよ。
若さって怖い。
「そもそも、閣下には俺よりももっと優秀な密偵がいるっしょ? そっちに頼めばいいじゃないっすか」
「お前は馬鹿か? シャルロットに関することで、どれだけしなければならないことがあると思うんだ?」
「……わからないっす」
「だからお前は馬鹿なんだ」
めっちゃ言いがかり! どう考えても言いがかり!
奥様の護衛は俺。奥様に近づく怪しいやつを調べるのも俺。奥様の過去を清算するのも俺。
え? 他にいったい何があるんすか?
やっぱり俺が馬鹿なんすか?
それよりも、公爵として他にやらなきゃいけないこといっぱいあると思うんすけど。
政敵の動向を探るとか、国王の身辺を警護させるとか、そもそも公爵自身の護衛はどうなってんすか?
今現在、いないよね? 今までいたことないよね?
そりゃ、公爵なら必要ないかもだけど。死ねばいいのに。
「お前は一人ではないだろう? とにかくやれ」
「……わかりましたよ」
くそっ! ばれてたか。
もちろん俺だって一人で動いているわけじゃない。
昔の仲間から見込みあるやつを引き抜いて、俺の代わりに仕事させてるときもある。
じゃなきゃ、シャルロット嬢を警護しながら、隣国の公爵に報告なんてできるわけないだろ。
仲間はあのクソ野郎の下で働くより、よっぽど楽だとか、正義のためだとか思ってるが、それ勘違いだから!
俺が全部こうして矢面に立ってるからだからな!
あー、でも金払いがいいのは間違いないんだよ。
だから俺もどうにか続けてる。
この十二年でずいぶん大金を手に入れた。
けど、使う時間なきゃ、意味ねえから!