シャルロット:武器
「――え?」
遠くで聞こえる話し声や物音に目を覚ましたけれど、状況がよく摑めない。
ここはどこだっけ?
うーん、と考えて徐々に思い出してくる。
そうよ。ここは宿屋で、昨晩はレオンと同じベッドで寝たんだわ!
慌てて隣を見たけど、レオンの姿はない。
でも隣の枕はちゃんと使ったあとがあるし、本当に一緒に寝たのね!
きゃー! どうしよう! 恥ずかしい!
何が恥ずかしいって、何も覚えてないことよ!
昨夜は疲れていたせいか、レオンが部屋に戻って来る前にベッドに入ってそのまま眠ってしまったんだわ。
先に眠るなど新妻として失格よね。
さらに寝坊までしているなんて!
「おはようございます、奥様」
「私……寝過ごしてしまったわ」
カーテンの隙間から射し込む陽光で、もう朝と言うには遅い時間だとわかる。
今日も領地に向けて旅を続けなければならないのに、皆に迷惑をかけてしまうなんて。
急いでベッドを出ると、メイドが明るい笑顔を向けてくれた。
「よくお眠りになっていらしたので、旦那様が起こさないようにとおっしゃって……とても奥様を気遣っていらっしゃるのですね? 先に湯を浴びられますか? お食事になさいますか?」
「……食事をお願いするわ。簡単なものでいいの。出発がこれ以上遅くならないように」
「かしこまりました」
食事の前に顔を洗って、身支度を整えたところで扉がノックされた。
答えれば、レオンが入ってくる。
「おはよう、シャルロット。よく眠れたようだね?」
「おはようございます、レオン。その、寝過ごしてしまい、申し訳ございませんでした」
「謝罪する必要なんてないよ。それだけシャルロットは疲れていたんだろう? 急ぐ旅でもないし、のんびり行こう」
にこやかに挨拶をしてくれたレオンは、私を責めるどころか優しい言葉をかけてくれる。
本当に噂って当てにならないわね。
とはいえ、こんなに優しい人が今まで独身で、さらに私を結婚相手に選んでくれたことが未だに信じられないんですけど。
やっぱり何か裏があるのかしら。
なんて考えていたら、食事が運ばれてきた。
しかも二人分あるわ。
「レオン、まさか朝食をとらずに待っていてくださったのですか!?」
「ああ。一緒に食べたくてね」
天使と見紛うほど美しい男性に微笑まれてぼうっとならないわけがないわよね。
この笑顔を前にしたら、何も考えられなくなりそう。
でも気をつけて、私。
きっとレオンには私を選んだ理由があるのよ。
「もう少し進めばライツェン王国に入るが、どこか寄りたいところはある? せっかくだから観光するのもいいんじゃないかな?」
「い、いえ……。その、お恥ずかしい話ですが、私はあまりライツェン王国のことは詳しくなくて……。ですが、できる限り早く学びたいと思っております。そのためにもまずはレオンの領地に行きたいです」
「無理をする必要はないよ。だがわかった。まずは領地だ」
「――はい」
食事をしながら今日の予定を話してくれるレオンは優しい夫そのもの。
自然と笑顔になってしまうのは仕方ないわよね。
いっそ、レオンの言葉を信じてしまえば、幸せになれるのかしら。
この一年、ずっと婚約破棄された令嬢とのレッテルを貼られ、社交界では笑われてきたのに?
それどころか〝狂犬令嬢〟なんて陰で呼ばれていたみたいなのに。
そんな私が隣国のライツェン王国の公爵様にプロポーズされるなんて思ってもいなかった。
それもレオンは最高の花婿候補でもあるんだから。……冷徹相と恐れられてもいるけど。
でも目の前のレオンは冷徹との噂が嘘のように始終にこやかだった。
信じてしまいたいけれど、どうしても疑ってしまう。
ライツェン王国に入ってしまえば逃げ場はないとばかりに冷たい夫に豹変するかもしれないもの。
実際、私以外――従僕のスマイズや他の使用人には笑顔を見せることなくて、厳しい態度を崩さないから不安になるのよ。
だけどライツェン王国に入ってからも、レオンの態度は変わらなかった。
私が車窓から見える景色に質問をすると、レオンはわかりやすく丁寧に答えてくれる。
それだけでレオンに対する不安は忘れて、初めて見る景色にわくわくしてしまっていた。
だからすっかり安心していたのよ。
「――ところで、今朝から気になっていたんだが、なぜずっと日傘を持っているのかな?」
「え!? あ、えっと、その、これは……」
不意をついた質問に、何て答えればいいのかわからない。
武器の代わりだなんて言えないし、なぜお昼も過ぎた今になって訊いてきたの?
そもそもこんなに優しいレオンを警戒していたなんて失礼よね!
あわあわしていると、レオンの笑顔になぜか迫力が増した気がした。
同時に気温が下がったようでびっくり。
お天気が急に悪くなった?
でも窓の外は快晴。
「ひょっとして、思い入れがあるのかな? 誰かにもらった大切なものとか?」
「は、はい! これは社交界デビューしたときに、母からもらったんです! ちゃんと淑女らしくできるようにって!」
レオンが水を向けてくれてそれに乗って答えてしまったけれど、「ちゃんと淑女らしく」なんて変だったわよね?
だけど本当のことなのよ。
領地では日傘をさすなんてしたことなくて、あの野犬に襲われたときもすっかり忘れて出かけたのよね。
それで枝を振りまわすことになったんどけど、日傘があればもっと華麗に追い払え……はしなかったわね。
「……無理をしなくても、シャルロットはとても魅力的だよ?」
「あ、りがとうございます?」
「礼はいらないよ、事実だから。だけどシャルロットの母君からの贈り物なら持っていたい気持ちもわかるよ。今回の結婚は急だったからね。ちょっと不思議に思って訊いただけだから、気にしないで」
ああ、やっぱりレオンは優しい人なんだわ。
ただちょっと不器用なだけなのよ。
だって、こんなに私のことを気遣ってくれる人なんだもの。
思わず日傘をぎゅっと握りしめてしまったけれど、これは感動したから。
すぐに力を抜いて、日傘は傍に立てかけて置いた。
レオンの前ではもう武器なんて必要ないわ。
それからはまた和やかな雰囲気になって、時々落ちる沈黙も気にならなくなったのよね。
そして明日はいよいよ公爵領に入るとなったとレオンが改まった様子で口を開いた。
ひょっとして、ついにこの急な結婚の真相が明かされるのかも。と覚悟を決めて耳をかたむける。
「明日には私の領地に入るが、以前も言ったようにあなたは好きにしてくれればいい」
「はい。ありがとうございます」
「だが、私のことは気にしないでほしい」
「――え?」
「私には私のやり方がある。それを変えることは不可能なんだ。だからどうか我慢してほしい」
「……わかりました」
これまでのレオンの優しさにうっかり油断してしまっていたけれど、やっぱりこの結婚には罠があったんだわ。
こんなに幸せな結婚などあるわけがないのよ。
たぶん、レオンの言う『やり方』とは、他に女性がいるってことだと思う。
結婚するには身分差があって、正式には妻にできないとか、すでに結婚しているとか?
陛下からのご命令で仕方なく身分的にどうにか釣り合う私を選んだんだわ。
それで同じベッドで寝ているにもかかわらず、触れてくることもなかったのよ。
それだけその女性は魅力的なのよね。
10回も婚約破棄されたような私をレオンが本気で好きになるわけなんてないもの。
よく私に「好きにすればいい」と言うのも、放っておかれるからだわ。
「……レオン、私はあなたと結婚できて本当に幸運です。ありがとうございます」
「いや、礼を言うのは私のほうだよ」
内情はどうあれ、両親を安心させることができた。
しかも、あの居たたまれない式場から、乙女が夢見るような方法で連れ出してくれた。
それだけで十分だわ。
これからは約束したとおり、レオンの妻としてしっかり務めを果たそう!
レオンが王都に女性を囲っているのなら、できる限り領地で過ごせばいいわ。
もしレオンが望むなら、その女性との子どもを自分の子としてもいい。
とにかく、私は幸せな花嫁を演じればいいのよね?