空を飛べない鳥達は
フウセンカズラの花言葉を聞いて、思いついたお話。
近未来系の恋愛ものです。
少し長めですが、楽しんで頂けると幸いです。
「よくぞここまで来た、勇者よ」
本能的な恐れを掻き立てる宵闇の城。
陰鬱な瘴気の漂う地にはあまりにも不釣り合いな美しいステンドグラスを背に今、少女が玉座から立ち上がる。
赤い目、白い髪、黒いドレス………人と呼ぶにはあまりにも美しすぎる少女は、仇敵に会ったかのように刺々しく、それでいて恋人との逢瀬を喜ぶ街角の少女のように嬉々として…………歓待の声をあげた。―――己を殺しに来た者を、暗い死へと誘う為に。
「ああ。遅くなって悪かった。…………魔王」
対するは一人の人間…………黒い目、黒い髪、銀色の鎧。―――勇者と呼ぶには平凡で、つまらない容姿。…………しかしその目に映る決意の輝きは、人と呼ぶにはあまりにも気高く、力強い。
少年は万感の思いを込めて、眼前の王をめねつける。
その一瞬、魔王は息を呑んだようだった。
―――その瞳に。
―――彼の写す、その輝きの鋭さに。
「―――ゆくぞ、勇者」
しかし、それは一瞬の事。少女はただ一度の瞑目をもって、万魔の王に相応しきその魔力を開放する。
―――たった一人を殺すには、あまりにも強大な力。膨大な力の奔流に空間は軋み、柱は崩れ、ステンドグラスは砕け散る。
崩れゆく城が断末魔の悲鳴をあげる中、勇者はただ剣を硬く握り、掠れるような小さな声で―――闘いの始まりを告げた。
「―――行くぞ、魔王」
「暗黒魔法、『殲滅の光』」
「聖剣起動、『龍塵斬』」
人が決して届かぬ高みにまで極められた魔法が少年を襲い、ただ一本の聖剣がそれを切り裂いた。
―――加速する思考。
―――粘りつくような空気。
―――ひりつくような緊張感。
たかがゲームと呼ぶにはあまりも美しく、神々しい闘いがそこにはあった。
言葉なぞ交わさない。そんな必要などない。互いの全てを込めた絶技の応酬だけで、誰よりも分かり合える。
まるで永劫のような時の中………知れず、二人は笑っていた。ただ求めるように、貪るように、互いの命をぶつけ合いながら。
しかし、そんな闘いにも終わりがある。少女を剣の間合いに捉えた少年が剣を振るい、少女は神速で放った魔法によってそれを迎撃する。
少年の左腕が弾け飛び、少女の胸を聖剣が貫いた。
少年も少女も、既に余力などない。
互いに互いを預けるように縺れ合いながら、冷たい床に転がる。
両者とも重傷とはいえ、傷の差は歴然。程なくして、魔王は塵に還るだろう。
「…………3096人目」
「ん?」
「魔王を倒したのは3096人目だって言ってるのよ、馬鹿!何でこんなに遅かったのよ!!」
先ほどの冷厳とした仕草までとはうってかわり、まるで幼い駄々っ子のように叫びながら魔王が…………いや、少女が少年を睨みつける。
甘えるように少年に抱きつく少女の顔には、隠しきれない安堵と涙が浮かんでいた。
「…………ごめん。君以外の全部を確かめたから、いつもより時間かかっちゃった」
勇者であった少年も困ったように笑いながら、壊れ物のように優しく少女を抱きしめる。
「次はもっと早く来て。折角おめかしして待ってたんだから」
「ごめん。頑張るよ」
確かに少女は美しかった。事前に見た魔王の容姿と比べても。本当におめかしして来たのだろう。………こんな特別扱いをして大丈夫なのだろうか?
「私、忘れられちゃったのかもと思ったの……」
少年に抱きつく力が強まる。小柄な少女の体は、微かに震えていた。
「………オレが忘れるわけないじゃないか」
何があっても、絶対に。
そう伝えると少女の顔に安堵の笑みが漏れる。何十年も、ずっと変わらない笑顔だ。
「会えて嬉しかった。―――そろそろ行かなきゃ」
流血によってHPの尽きた少女の体が、少しづつ崩壊を始めていた。
「次は何処に行けば良いんだい?」
離したくないと少女に縋りつきながら、そう少年が尋ねると……花が綻ぶように少女が笑う。
「そろそろ春になるのだから……マーガレットの咲く丘で、一緒に笑い合いましょう。……私、待ってるから。今度は、もっと早く見つけてね?―――幸人」
そう言いながら少女は、塵になって消えていった。…………消える最中に塵がハートマークを描いたのは気のせいだろうか?また無駄に高度な事を……。
「わかったよ。直ぐに探しに行くからね、恵」
呆れたように笑いながら、少年が呟く。
そしてファンファーレの音と一緒に現れた財宝を確認すると、「ログアウト」とただ一言そう呟いて………少年は今しがた救った世界から消えていった。
◇
『ログアウトが完了しました』
電子音が、逢瀬の終わりを告げる。
「ッ!グッ…………プハッ、ハァハァ……」
カプセルから起きあがろうと体に力を入れた途端、鋭い痛みが胸を襲い息が出来なくなる。……もう80にもなるのだ。一度病院で診察を受けるべきなのだろうが‥…個人的には行きたくない。
一度病院に行ってしまえば今や義務化されている、住民登録用のメモリーチップを体に埋め込んでいない事もバレてしまうだろう。
今時、買い物も資産管理も本人照会も、果ては健康診断まで、日常のありとありやる情報のやり取りが全てこのチップで行われているのだから、バレないはずが無い。
しかし、チップを埋め込むということは、政府に個人情報を握られるという事だ。…………そうなってしまえば、二度と彼女に会う事は出来ないだろう。
技術の進歩で昔より遥かに便利になった世の中だが、私にとっては生きづらい。
「よっこいしょっと……」
あまり長くカプセルに転がっているとカプセルが緊急事態だと判断して救急車を呼びかねないので、痛みが治まった頃合いを見てカプセルから出る。
目に写るのは、小さく見窄らしい我が家だ。
手近なテーブルに置いてあった液晶を開き、今春に発売されるゲームを検索する。
「マーガレット」で検索したのだが、ヒットしたのは『マリーゴールドの咲く丘で』というゲームだけだった。他には十作ほどあまり花と関係のなさそうなゲームが並んでいるだけだ。
昔と比べると、随分とゲームの数が減ってしまったものだ。…………まぁ、新しく生まれてくる子供はほぼいないし、殆どの人間がインターネット上で好きな事だけをして生きているのだから仕方ないだろう。
「ったく、タイトル間違えてるじゃねぇか……あいつ…………」
遠い昔を思い出しながら相変わらずだと苦い声を出す萎びた老人の口元には、隠しきれない苦笑と、変わってしまった時代への哀愁が浮かんでいた。
◇
『人類電脳化計画』
かつて、そう呼ばれたプロジェクトがあった。
一昔前なら何処ぞの新興宗教が騒いでいそうな名前だが、れっきとした国際プロジェクトだ。
人口過多や環境汚染、民族紛争、食糧不足、気候変動、大量絶滅…………当時、世界中で起こっていた問題を解決する為に世界中から知識人が集められ、一つの結論が出された。
『人類は増えすぎた』
たったそれだけの、幼児でも分かりそうな結論が。
発展を繰り返す文明は当時、地球という資源の枯渇、という限界を迎えており、もはや人類が成すべき役割はほぼ全てロボットやAIに取って代わられ、増えすぎた人口も一部の国を除いて、寿命による死と自殺以外で減る事は無かった。人が生きる長さも、150年近くに伸びていたのだから、人口が減る筈もない。
長い人類の発展の歴史が到達した、限界点のようなものだったのだろう。
そこに至って人は、ただ息をし、食事をするだけの存在になり、叡智の獣は養豚場の豚に成り果てた。
『人がより良く生きていく為の発展』の結末が、『人が必要ない社会』だったのだからお笑い草だ。
『よりよく生きる』為に『誰も死なない、悲しまない、楽ができる』世界を求めた果てには、『もう生きているのか分からない、何もすることが無い』そんな停滞が待っていた。死を遠ざけた結果、人は生すらも見失ってしまったのだ。
それでも人は増え続け、地球はゆったりと滅びへ向かう。
トロイア戦争、ノアの方舟、ハルマゲドンにラグナロク…………よくある神話の神々でもあるまいし、まさか大虐殺をするわけにもいかない。
結果、選ばれたのは棄民政策。
行き先はインターネット……つまり電脳世界であった。電脳世界において人は情報化され、サーバー内を巡洋しては己の好きな事をできる空間を作り、生きていく事が出来る。皮肉なことに、インターネットの世界は、現実なぞよりよっぽどリアルで自由な場所だったのだ。
そんな電脳世界で人は、神にも等しい万能を手に入れた。彼らのことを、現実に生きる人々は皮肉を込めて登場人物と呼ぶ。
この計画に賛同する者は多かった。死んだように何もせずに生きる毎日など、もはや死そのものと変わらない。どうせ何もすることが無いのなら、意識が現実にあろうがインターネット上にあろうが同じことだ。
今、現実に生きている人間はあまり多く無い。一部の回顧主義者とも呼ぶべき時代に取り残された者たちが細々と生きるだけだ。
電脳上で生きる人々は、文明の発展に取り残され古い遺物に縋って生きる彼らを旧世代と呼ぶそうだ。
―――思えば、社会が歪み始めたのはこの頃からだったのかもしれない。
―――いや、元から歪みはあったのだろう。『最大多数の最大幸福』……そんな言葉で弱者を切り捨てて、『自己責任だ。お前が生まれてきた事が悪かった』なんて平然と言ってのける生物が、まともな存在の筈がない。
とある作家だって言っていた。『狼は共食いをしないが、人間は人間を生きながらにして丸呑みにする』と。
人類の大半が電脳世界上で暮らすようになって、現実で暮らす人は絶滅危惧種になった。
人間の集団が、多数と少数に分かれたのだ。起こることなんて、何十世紀経とうが変わらない。差別、区別、暴力、虐殺、制裁、弾圧、隔離…………いつも起こる、起こってはならない事が起きた。
そして、現実と電脳は断絶した。冷戦のようなものだ。サイバー攻撃による電子機器全ての無効化と、銃火器によるサーバーそのものの物理的な破壊。
…………どちらも相手を完全に殺し切れる力を持っていたせいで、どちらも引かざるを得なかった。
現実側は新たにサーバーを作り出し、そのサーバーに現実に残っていた情報を移した。何十もの分厚いファイアウォールでプロテクトされている上に電脳側も監視しているので、クラッキングは実質不可能だ。
こうして不可侵の安全圏が作り出され、紛争は一応の終末を迎えたのだ。…………未だに両者は断絶したままだが。
それがあの日……恵が居なくなった年に起こった事だ。運が悪かったのだ、恵も、幸人も。たった数日、すぐに電脳世界で会える筈だった別れは、気づけば60年にもなっている。
「またね」「すぐ会いにいくから」………そんな言葉で別れた恵に直接会える事は、もう一生ないだろう。笑えない話だ。
そう、もう60年も経つのだ。…………当時の事を記憶として憶えている人も、随分少なくなってしまった。
会えなくなってしまった人の事を忘れられずにいる人も、もうあまり残ってはいないだろう。
それは決して不義理な事でも、悲しい事でもないのかもしれない。
―――前に進むために、価値のないものを切り捨てる。今までずっと、人類が繰り返してきた事なのだから。
そうだ、きっと悪くない。
それは、正しい事なのだから。
……………クソ喰らえだ。
そんな正しさに喜べる単純な生き物なら、こんなにみっともなく過去に縋ったりするものか。
それが正解だというのなら、ずっと間違いのままでいい。別に認めて欲しいなんて思わない。旧世代と、嘲笑うならそれでも良いさ。
…………それで、アイツを忘れずにいれるなら。
アイツに会いたくて。抜け道を探して……何十年もかけて、ついにはゲームの世界に流れ着いた。
ゲームのサーバーのセキュリティは、比較的弱い。保護しなければいけない情報も殆ど無いからだ。登場人物なら、簡単に侵入できる。
勿論、言うほど単純な話では無い。冷戦中の相手と、そう簡単に密会できるわけがない。プロテクトくらいされてるし、監視だって当然いる。それに、最初の再会は本当にただの偶然だった。もしまた歯車が狂ったら、二度と会う事は出来なくなるだろう。
―――だが幸いな事にオレはハッカーで、アイツは登場人物だった。ほんの少しの時間ならオレが誤魔化せるし、アイツがNPCのフリをしてくれるなら、一緒にいる事だって出来る。
…………勿論、バレたらオレは逮捕・拷問・処刑のコンボで、アイツはデータの抹消だ。とんでもない綱渡りだから、一瞬話す以上のことは、絶対に出来ないし、やっていない。
そんな馬鹿みたいに危険な密会を続けて、もう数十年も経つ。アイツに会う為に全て捧げたから、金もないし身寄りもいない。死ねば誰にも知られずに朽ちることになるだろう。
その為に生きた。忘れずにいる為に捧げた。
後悔はない。…………今更、後悔などするものか。
ただ、懸念はある。もうじき、自分は死ぬだろうという事だ。いくら医療が発展したって、病院に行かないなら意味はない。
―――ただ、もしオレが死んでしまったら………アイツはどうするのだろうか?
登場人物の時間感覚は旧世代と異なる。その気になれば半永久的に存在できてしまう上に、全てが光の速度で動く世界だから、現実に生きる人々と同じでは彼女達の精神が耐えられないのだ。
だから彼女達の時間感覚は、可能な限り遅延されている。
例えオレがいなくなっても、永劫の時を待つ事が出来てしまうのだ。
そしてアイツは、多分待ってしまうのだろう。アイツは、そういう奴だから。
だから、伝えなくてはいけない。もうすぐ、死ぬと言う事を。もう、待たなくて良いということを。
それが……愛する人のために、最後に出来る事なのだから。
◇
『本当に良いんだな?』
『構いません。―――そうでもしないと彼に………合わせる顔がありませんから』
―――待ってて。もうすぐ、終わりにしてみせるから。
―――私は消えてしまう事すら出来ないけれど…………きっと、貴方を幸せにしてみせるから。
◇
「――――今……何て言ったんだ、恵?」
物語が終わったその先、マリーゴールドの咲き誇る丘で…………主人公とヒロインは向かい合う。
それは美しいはずのエンディングシーン。永遠の愛を誓い合い、笑い合うだけの……幸福な一瞬。
けれど、そこにいる二人の顔は………あまりにも暗く、険しい。
「もう会う事はないって……どういう事だよ?」
信じられないと、信じたくないと、声を震わせて主人公は尋ねる。
「言葉通りよ。…………ずっと縛り付けてごめんなさい。―――幸人」
ヒロインの答える声は冷たい。その声を聞いた人ならば、冷たい女だとでも思うかもしれない。
―――少女の顔が、涙で歪んでいるのを見なければ……だが。
「ずっと気づかなかったの。もう……60年も経ったのでしょう?60年も、ずっと私を探していたんでしょう?―――ごめんなさい。私、ずっと気づかなかった………!!貴方に会えて嬉しいって!会いにきてくれなくて寂しいって!そんな身勝手な事考えるばっかりで、貴方の事なんて……貴方がどんな人生送ってるかなんて、考える事すらしなかった!!」
「―――それは……」
言葉を紡ぐ事すら出来ず、主人公はただ立ち尽くす。
「もう、私の事は忘れて良いの。登場人物になっちゃった私なんて、もう死んだも同然なんだから………」
諦めと後悔を乗せて、疲れ切ったように少女は言の葉を紡ぐ。…………止めろよ。そんな似合わない顔するなよ…………。
「違う!縛られたんじゃない!オレが選んだんだ!!お前に会いたいって、オレが選んだんだよ!!」
一歩も前に進めなかった。だからせめて、何も失わないようにと………お前を探した。縛られたんじゃない、自分で選んだんだ。立ち止まって、足掻き続けるって。みっともなくても……馬鹿みたいでも……下手くそでも………いつか見つけるんだって。
―――だから、いつもみたいに笑ってくれよ。
―――さよならなんて、悲しい事言うなよ。
血を吐くように告げる想いは、しかし彼女には届かない。………頬を流れ落ちる雫すら隠さないまま、微笑みながら少女は告げる。
―――いつか、伝えなくてはと思った事を。
「…………心臓、病気なんでしょう?このままじゃ、死んじゃうんでしょう?」
「…………何で、それを」
今日伝えるつもりのことだったのに、頭が真っ白になった。
「ごめんなさい。貴方の生体信号を辿った先で聞いちゃったの。ほら私、登場人物だからさ……音声を拾えるデバイスがあれば、貴方の声くらいは拾えるのよ。…………電子法違反だから、次やったら捕まっちゃうけどね」
「そんな……」
まさか聞かれていたなんて、考えてもみなかった。
「もう良いの。…………今頃、救急車が家の前で貴方の目覚めを待ってるはずよ。もう会えなくなっちゃうけれど……………どうか、どうか貴方は生きて」
耳元でアラーム音が響く。誰かが、強制ログアウトを行なっているのだ。
それを寂しそうに眺め、少女が微笑みながら消えていく。…………次どこで会えるかすら、語らないまま。
「待って!嫌だ!待ってよ!恵!!」
みっともなく縋り付くように、真っ白な頭でがむしゃらに、消えゆく少女に手を伸ばす。
―――届いた腕の隙間から、彼女がこぼれ落ちていく。まるで最初からいなかったかのように。さっきまでそこにいた彼女が、消えていく。
―――電子データじゃ体温も、息遣いも、彼女がそこにいたと言う事実すら、この手に残りはしないのだ。今更気付いたそんな事実に少年はただ肌を泡立てる。
「―――さよなら。大好きだよ、幸人」
強制ログアウトに視界が闇に覆われる瞬間………そう言って彼女の笑う声が聞こえた気がした。
◇
『―――ごめんなさい。幸人』
彼のいなくなった空白を胸に、何もない真っ白な空間で、ただ彼女は蹲る。
さっきまで感じられた筈の彼の温度が、急速に失われていくのを感じながら。
悪気はなかった。ただ、彼と話したかったから、彼を追っただけだったのだ。それが………こんな別れを生むなんて。
彼の苦しむ声を聞いた時の辛さは、今も忘れられそうにない。
でも、これで良かったのだ。彼はこのまま死ぬ気だったのだから。
私と一緒にいたら、彼は死んでしまうのだから。
―――あぁ…………どうか幸せになって。私のことなんか、忘れてちょうだい。それが、私の最後の願いだ。
自分自身の設定を開き、時間感覚を現実と同じにする。
これだけで、簡単に狂うことが出来るだろう。…………彼のいない世界で永劫を生きるくらいなら、いっそ狂ってしまった方が楽だ。
朽ちる事は出来ないけれど…………彼と同じ時間を生きて、誰からも忘れられて消えてしまおう。
―――もしかしたら、天国でまた会えるかもしれないし。
最後に叶えようと思った願いは、しかし実現する事は無かった。誰もいない空間に、スーツを着た男のアバターが現れたからだ。
見知った男。私と彼の密会を見逃していた男だ。今日、彼と別れる事も伝えてあった。………ついに、電子側の政府が動いたらしい。
『小鳥遊恵さん。貴方をスパイ容疑で逮捕します。………時間感覚は、元の状態に戻して下さい。まだ、狂われては困りますから。貴方には政府の決定に従って頂きます』
どうやら私は狂う事すら、出来ないらしい。
強制的にデータとして転送されていく中で、私はただ虚に笑うしかなかった。
◇
―――私たちは、傷つきながら飛ぶ鳥なのだと……そう綴った物語がある。
―――願うことさえ出来るなら、私たちは何処へだって行けるのだと……そう綴った物語がある。
―――機械の翼に想いを託し、人には未来があるのだと、そこには希望があるのだと……そう綴った物語がある。
少年の頃にそんな物語を読んで、いつかこんな大人になりたいと、こんな風に生きたいと、そう願った。
―――結局、叶う事は無かったが。
病室の窓から空を眺めながら、ふとそんな昔の事を思い出した。
―――空を飛べない鳥達は…………下手くそにしか生きられない俺たちは…………何をすれば良いのだろうか?何を叶えれば良いのだろうか?
生きることも、願うことも、希望を持つ事すらも…………下手くそにしか出来ない人間には、一体何が出来るのだろうか?
そういえば…………
かつてそうオレが聞いた時、彼女は何と答えたのだったか。
―――あぁ、そうだ。思い出した。
老人の目から、涙が溢れる。
「全く。お前らしいよな、恵。―――『それでも星を探しましょう』なんて。……お前らしいよな、本当に……………………」
病室で一人空を眺めて涙を溢す老人は、まだ気付いてはいなかった。
下手くそに足掻き続けた二人が、もう星にたどり着いているという事を。
―――『臨時ニュースです。先程、現実と電脳間での相互移動に関する合意が為されたと発表されました。記念すべき最初の電脳側からの使者は、小鳥遊―――――』
再会の時は、近い。
「貴方と一緒に飛びたい」