Act1 未知なる胎動
「ん?速えぞあれ、おい」
一端署に戻り、整備課の親父さんにドヤされたのもどこ吹く風。
今度は覆面を持ち出して、本牧通りを山下公園方面に流し始めた坂下刑事と神岡刑事。
ちょうど通りに出ようとした瞬間、目の前を高速で走り抜ける1台の黒いスポーツカー。
「ちょっと追っかけてみんべ。300メーター追っかけたらパトカーに変身だ」
「またさっきみたいになっても、僕は知らないですからね」
「んぁ、ちょっと滑ってバンパー凹ましただけだろ?」
…パトカー転がしといて、なにがバンパー凹ましただけだよ…神岡刑事は心のなかでため息をつくが、決して口には出さない。
平日の朝、たまたま人も車も少ない時間帯を良いことに、黒のスポーツカーは、制限時速50キロの道を倍近い速度で疾走している。
神岡刑事が助手席からパトライトを車上に設置する、その横ではハンドル片手に坂下刑事が警告を発する。
「はい、前の車。左に寄せて止まりなさい。左に寄せて止まりなさい」
その言葉をあざ笑うかのように、更に加速して車間をすり抜け覆面をまこうとする黒のスポーツカー。
「このままじゃ車の多い通りに出るな、ちょっと乱暴なことするぜ」
ニヤリと笑う坂下刑事。
「次の交差点で仕掛ける、しっかり掴まってろよ!」
赤レンガ倉庫を抜けたあたりで、一気に加速する覆面パトカー。
新港の交差点、サークルウォークのあたりで強引に前に割り込み、新港ふ頭方面に進路を変更させる。
「神岡、ちょっとハンドル持ってろ」
「さ、坂下さん、駄目ですよぉぉ!」
神岡刑事の悲鳴、そんな彼を尻目にウィンドウを全開にした坂下刑事はホルスターから愛用のニューナンブを引き抜く。
狙いは左後輪、うまく当たれば路肩にぶつかり止まる。はずれれば…
南無三、引き金を引くと同時に乾いた破裂音とともにバーストするスポートカーの左後輪。
コントロールを失ったスポーツカーは狙い通り路肩にぶつかり停車する。
後ろに覆面を止め、そろそろと近づく坂下刑事と神岡刑事。
車は黒のスカイライン、ガラスにはスモークがかかっており中の様子を伺うことが出来ない。
「おい、後ろから援護してやるからドアを開けて中確かめてこい」
愛用のニューナンブを構えながら、神岡に支持を出す坂下。
「ぇええ、ぼくが?」
「何か会ったときのことを考えての選択だ、お前の射撃の腕じゃ心配だ」
「…あとで、いつもの店でコーヒー、おごってくださいよ」
「ついでにケーキも付けてやるから、さっさと行け」
…いっつもこういう役目は僕なんだよね…と思いながらも、車のドアに手をかけ開けようとするが、びくともしない。
中からロック、というよりは衝突の際の衝撃でドアが歪んでしまっているようだ。
仕方なく、拳銃の台尻でヒビの入ったガラスを叩き割り中を確認する神岡。
しかし、運転席には誰もいない。血痕一つ無い、きれいな状態だ。
まるで、最初から誰ものっていなかったかのように…
「…坂下さん、これ…」
銃を構えながら同じように覗き込む坂下刑事。
「…いつの間に…、おまえ、運転手が逃げるの見えたか?」
「逃げるも何も、ドア歪んで開かない状態じゃないですか…」
「ああもう、畜生。逃げられたか」
いやだから、逃げるの無理でしょう…と思う神岡。しかし、現実問題としてここには誰もいない。
何故…と思うよりも早く、周りのざわめきに二人は気がついた。
いくら人気のないふ頭に追い込んだとはいえ、白昼堂々のカーチェイスと発砲。
いつの間にか野次馬が集まってきていた。
「ああ、私達警察ですのでご安心ください」
手帳を掲げ、説明する神岡。その間に、坂下は鑑識の出動を要請する。
野次馬たちが散った頃、鑑識を乗せた車が現場に到着した。
「あ、これこれ。指紋とかきちんと採っといてね。じゃ、あとはよろしく」
それだけ言い残し、二人は再びパトロールという名の暇つぶしへと向かっていった。
彼ら二人が午前中のパトロールを終えて署に戻ってきた頃、既に時計の針は正午を回っていた。
「係長、一体今までどこで油を売ってたんですか??」
帰るなり、坂下に勢いよく詰め寄る部下の木下刑事。
「いや、ちょっと運動に…」
そっぽを向きながら答える坂下。だが、部下の口調に違和感を感じ向き直る。
「先程鑑識から結果が届いたのですが…」少し戸惑い気味の木下。それもそのはず、こんなに早く鑑識の結果が出るはずがないのだから。
「ああ、そうか。じゃぁ、ちょっと読んでみてくれ」
「車の左後輪タイヤに弾痕あり。38スペシャル弾だそうです。弾丸は貫通した模様で、まだ発見されていません。何かの騒動に巻きこまれたのでしょうか?
車は1週間ほど前に県内で盗まれたものだということがわかりました。
それと、車の中からは、前の所有者以外一切指紋などは発見されなかったそうです。
それと…あのですね、誠に申し上げにくいんですけれど、走行距離がですね、盗まれたときから全く変わってないようなんですよ。
この車、所有者がコレクションとして保管していたものなので走行距離などもしっかり記録されていたんです。
他にも、ガソリンも入っていない状態だったし、バッテリーも上がりっぱなしの状態だったし…」
元町の商店街から少し奥に入った通りの一角にある喫茶店「ラ・モーレ」。
山岡悟の経営する小さな喫茶店だ。
彼の趣味をふんだんに取り入れたアンティーク調の内装と、こだわりの豆。
何よりも店の醸し出す雰囲気から、この界隈ではそこそこの人気があり、特にこの近辺に努めている商社マンなどは、昼飯時にはかならずここに来るほどである。
今日も、そんないつもと変わらない一日が始まろうとしていた。
昼飯時の客の入りも一段落し、溜まってしまった洗い物を片付けながら店の中に視線を巡らせる。
この時間はだいたい常連がくつろいでいる時間だよな、という確認のつもりだったが、彼の視線は奥の4人席に止まった。
目の前には湯気を立てているコーヒーと、サンドイッチの皿。
その奥に座って新聞を読む一人の客。
コーヒーの湯気が消える頃になっても、彼は新聞を読み続けたままであった。
一人、また一人と常連が帰っていく。
時刻は15時を少し回った頃。差し込み始めた西日が、店内をオレンジ色に染めてゆく。
穏やかなひととき、その静寂を破ってなる電話の音。
「もしもし、喫茶ラ・モーレです」
山岡の声にも返事はない、無言電話?いたずらか、それとも…
首を傾げ、受話器を置こうと耳から離す瞬間、「ボソリ」となにかが聞こえたような気がした。
パサッ
店内に響く乾いた音、なにか軽いものが倒れるような、例えば新聞のような紙束が…
受話器をおいた山岡が振り向く。
サンドイッチの皿の上に倒れた新聞、そして彼の目の前でゆっくり落ちていく黒のシルクハット。
かぶっていた人間が、まるで空気に溶け込んでしまったかのような錯覚を覚える瞬間。
彼の座っていた席には、すっかり冷めてしまったコーヒーと、手つかずのサンドイッチ。
そして、主を失ったシルクハットだけが残されていた。
「良いじゃないか、ここで」
「おじさん…ただにするつもりですね、また」
「ただじゃァない、常連価格ってやつだ」
勤務を終えた坂下と神岡がラ・モーレの扉を開けた頃には、すっかり日もくれていた。
この店のオーナーの山岡と坂下は昔なじみでもあり、ちょっとした仕事仲間でもある。
「あ、いらっしゃい」
快く二人を迎える山岡。
「こいつにうまいコーヒーを一杯、俺にはビール」
「はいはい、いつものとおりですね。あと、なにか軽くつまめるものを用意しますね」
準備に取り掛かっている山岡が、ふと夕方の出来事を思い出して口にする。
「そういえば、昼過ぎに新しい客が来たんですが、おかしいんですよね。電話に出ている最中に、ふっと消えるようにいなくなっちゃったんですよ」
「消えたって?何、食い逃げ?でも、この店出入口一つしかないよな?」
「うーん、食い逃げというか…新聞と、持ち物は置いたままでしたので」
山岡は店の棚に置いておいたシルクハットを手に取り、軽くふる。
「そういえば、今日奇妙な事件があったんですよ。逃走中の車から犯人がいなくなるっていう。なんか似てますね」
軽い調子で合わせる神岡。
「なんか気になりますから、こういう事件があったら教えて下さい。私もツテを利用して調べてみますので」
山岡の言葉に、坂下は軽く手を上げて答えた。