2-三 うるさいくらいに静かな廊下
学生鞄を手に提げて廊下に出た小梅は、教室前に小春がいないことに気付くと、真っ先に二つ隣の教室へと向かった。二人で昼食を供にした後、部活に行くという流れは、彼女たちの暗黙の了解だった。もちろん例外があるにはあったのだが、そういう場合にはスマホでメッセージを送ったりして連絡を入れる。この日のこの時、連絡があった訳でも無く、教室前にも小春の姿が見受けられなかったが、小梅はそれを些細な違和感程度に捉え、ただの連絡のし忘れだとか、トイレにでも行っているのだろうと、またはホームルームがごたついているのだろうと言った感じに、ただ漠然と考えていた。
教室に着くと、小梅は引き戸の開け放しになっている出入口から頭だけを覗かせて小春を探した。ホームルームが終わっているのは明らかで、夏休み前の解放的で活気づいた、やけに広々と感じるような教室内にはすでに、持参した弁当を机の上に広げている女子が何人かいた。
「ごめん、はる、どこか知らん?」小梅は手近にいた女子の一人に声をかけた。「あー、久恒、久恒小春――」
「さっき出たのは見たで。教室から、どこかは知らんけど――」
「あぁ、そうなんや。どもども」
トイレに行ったか、連絡のし忘れだろう。そう見当をつけた小梅は、顔見知り程度の女子との素っ気ない会話のやり取りが跡を濁さないうちに教室から頭を引っ込め、廊下の反対側、窓のある方の壁に背を凭せ掛けた。それから鞄を両足の間に置き、スカートのポケットからスマホを取り出し、小春へのメッセージを打ち始めた。
『どこー? いま教室前』
そこまで入力した時だった。左の方から不意に「西種さーん」と呼ぶ声がした。振り向くとそこには、顧問の中ノ村先生がいた。どこか差し迫った用事があると思わせるような、そんな風に見えなくもない顔つきで、中ノ村先生が歩み寄ってくる。小梅はメッセージを送信する前にスマホをポッケにしまった。そして、壁に凭せ掛けた背中を突き出し、その反動を借りて姿勢を正してから「はーい」と返事した。
「今からお昼?」
「あぁはい、ご飯食べて、その後行きますけど。もうペッコペコで」小梅は少し訝し気な調子で答えた。忽ちに中ノ村先生は視線を斜め上にやって、指先で耳朶の辺りを摩り「あー」と、何か躊躇いを示す素振りのワンセットを見せた。ただそれは、相手の好奇心を煽る為の意図的な仕種であったかも知れないし、(今でこそこう言えるが)一風変わったとある疚しさに駆られてそうなったのかも知れない。
「どうしたんですか?」
「いや、ね。出来たらで良いんやけど、ちょっと今から弓道場来れないかなって――」
「え、今から、ですか?」
「うん、ちょっと……夏季大会のこととか、いろいろね」
何か含みを持たせたような言い方ではあったものの、小梅はすぐにそれを楽観的に解釈した。つまり、自分にとっては良いニュースとして、具体的に言うなら推薦などの話が聞けるものだと解し、すぐさま「あぁ、分かりました。もう、今行けばいいんですか?」と、喜びをひた隠しにしつつ返した。
「うん、ごめんね、急で――」そこで先生は口を噤んだ。何か物言いたげに口を引き結び、一瞬目を逸らしたがすぐに「あぁ先生は、用事片付けてから向かうから」と言って、自分の肩越しに後ろを指差した。
「いいえー、じゃあ適当に待ってますね!」
小梅はにこやかにそう告げると、鞄の持ち手を拾い上げ、たおやかにくるりと身を翻して先生に背を向けた。
「うん、ありがとね」
中ノ村先生は抑えの聞いた声を、小梅の背中に向けて零した。
「いえいえ」と小梅ははきはきとした調子で答えながら、ちらと振り向きつつ頭を軽く下げる。そして心持ち軽やかな足取りで、廊下を階段の方へと歩いて行った。
階段を下りる途中、小梅は小春にメッセージを送信していなかったことを思い出し、歩調を格段に緩めつつポケットからスマホを取り出した。それから踊り場の辺りで立ち止まるような気配を見せつつ、彼女は素早く文字を入力していった。
『中ノ村先生に呼び出しくらった。どっかおっといて』
これを送信するが早いか、小梅はまた矢継ぎ早に文字を打ち、その後には『コウペンちゃん』というキャラクターが泣いているイラストの可愛らしいスタンプを送った。
『死んじゃうかも。遺書書いとけばよかった』