2-一 や、はるどん
期末テストの三科目を終えた小春は、二つ隣の教室の前で小梅を待っていた。こういう手持ち無沙汰な状況に差しかかった場合、大抵の人は決まってスマートフォンを取り出し、大した用も、訳もなく、その画面に指を走らせる。この時の小春もその多分に漏れず、ホーム画面のページを右へ左へと往復させるばかりだった。
やがて教室内から、椅子を引き摺る音が何重にも重なって響き、続けて解放的な談笑が教室の外まで漏れてくる。スマホの操作にも飽きて、それを鞄のポケットにしまいかけようとした小春だったが、教室の引き戸が開くや否や、彼女は再びスマホを弄り始めた。一見無意味に思える素振りではあったが、小春にとってそれは、あからさま過ぎるような喜びを抑えるための、スマホを弄るついでと言った具合にして何気なさを装いながら小梅を迎えるための、隠れ蓑であったのかも知れない。とにかく、心情を素直に表すような素振りは一切見せず、彼女はスマホの画面に視線を注ぎつつも、戸口から出てくる一人一人をちらりと見やっていた。その内に、小梅が姿を現した。
「や、はるどん」
「はーいー」と、小春は気のなさそうに言った。が、次にはもう隠れ蓑のことなど忘れてしまったかのように、スマホをすぐにも鞄の中にポケットにしまい込み、口端を密かに吊り上げた。
「あー、ちょっと待って」
小梅はそう言うと、ぱっと身を翻して教室に戻った。そして数秒の後、小梅は教室の戸口から上半身だけを出し、両手を引き戸の縦枠に添えながら覗き込むようにして尋ねた。
「はるって、この後なんかある?」
「えっ?」小春は僅かに目を見開かせて聞き返した。
「この後、なんか用事ある?」
「ううん、まぁ明日の勉強、とか?」
小春がそうあやふやに告げた瞬間、教室の中から声高に「うめこー!」と小梅を呼ぶ声が聞こえた。小梅は声の方へと振り向き、返答代わりといった具合にムンクの『叫び』のような、滑稽な表情をそちら側に向けた。そして自虐的な笑い声を上げると、その笑いに尾を引かせたまま、再び小春に顔を向けた。小春は小梅とそのクラスメイトのそんなやり取りに対し、少々ぎこちないような微笑を浮かべて見せた。
「友達に勉強会誘われててさ」と小梅が言った「ガストでお昼食べてから、そのまま勉強するって感じなんやけど、はるも来る?」
「あぁ、坂の上のあそこ?」小春はその坂の上とやらの方角を指で指し示して言った。
「うん、そそ。他にまゆ――相原まゆみって子とかと、みおりとかと――」
「あぁ知ってる、知ってる」と小春は両手を打ち合わせたり、忙しなく首を縦に振ったりと、若干オーバー過ぎるような身振り手振りを交えながら高調子に言ったが、誘いの明確な返事らしい返事は口に出さなかった。そうした小春の返事を渋る様子から、何らかの動揺や迷いを察し取ったのか、すかさず小梅がフォローした。
「あー、みおりって結構いじられキャラで面白くて……まぁ何て言うか、それは関係ないけど、はるにやったら色々勉強教えてもらえるかなぁって」
小春はそこで含み笑いをして「あぁ、そうなんだ」と言った。しかし彼女は続けて「あーでも、多分教科違うし、やめとこっかな……私も明日の教科やばくて」と呟くように言った。
「あぁ、確かにそやね」小梅は朗らかな声色で同調し、それから数回頷いた「あーあ、テスト勉強の足引っ張ってやろって思ってたのにぃ」
にやりとしながらそう言うと、小梅は不満そうな表情を芝居がかった感じに広げ、すぼめた口を突き出した。
「うぅわ、やめといて良かった」
そうして二人はクスクスと笑い合い「じゃあバーイー」、「うん、またー」と告げ合って別れた。その去り際、小春はふと思い出したかのように足を止めて振り向き、尻目に小梅の靴紐を見やった。それは綺麗に結ばれていたが、朝に自分の結んであげたものがそのままなのか、それとも一度解かれたものが誰かに結び直されてそうなっていたのかは分からなかった。
小春は普段よりもほんの僅かに速い歩調で廊下を進み、階段を下りて行った。しかしその途上、二階と一階の間にある踊り場で、彼女は歩調を緩めた。三人の女子の背中が道を塞ぐようにして、談笑しながら恐ろしいほどにゆっくりとしたペースで階段を下りて行くのが目に入ったからだった。
「うん、お母さんも付け過ぎやって言われて――」
「やろ? だって香りで近くにおるなってわかるもん!」
小春は居た堪れないような気持ちになりながら、階段を下りるペースを彼女たちに合わせようとした。ただそれがあまりにも遅すぎるので、すぐに彼女たちへと追い付いてしまい、その真後ろに位置してしまった。小春は自分にしか聞こえないような咳払いを挟み、頭を申し訳程度に下げながら、か細い声で絞り出すように言った。
「す、すいません」
「ひゃっ」
彼女たちの一人が驚きの声を上げる。それからその調子外れの声を恥じらうみたいにして口元を片手で覆うと、彼女は「びっくりした」と零しながら微笑交じりに他の二人に顔を向ける。
「邪魔やって、そこ」と、別の一人が冗談半分と言った感じに窘めると、驚きの声を上げた女子が身を寄せて道を空ける。小春は詫びるようにして片手を上げ、また軽く頭を下げながら、彼女たちの間を抜けた。そして胸の詰まるような小恥ずかしさ、気まずさに悶々としながら、彼女は最後の一段を下りた。
「って言うかなんなん今の、あざとい驚き方」
背後から、そんな声が聞こえてきた。
「なんで! 別にあざとくないやん!」
「あれやん、あれ。後ろに人がいたのもほんまは気付いてて、わざとそういう天然アピールして――」
「違うって、わざとちゃうから!」と、この言葉だけは小春の耳にも届いて欲しいと言ったような按配で、驚いていた女子が高らかに言い放つ。そんなやり取りを聞く傍ら、小春は自分の歩き方だとか、姿勢だとかが変になっていないかを、どうも意識せずにはいられなかった。
不安感や孤独感、はたまた憂鬱感。校門までの少しの道のりを辿る小春の心中に、そういったものが去来していたと断定してしまいたいところなのだけれど、物事はそう明確ではなく、微妙かつ繊細で、特に心情云々に関してはいついかなる時でも、本当に言い表せたということなどないのだ。ただ彼女の次の行動から察するに、先に述べた感情に似た何かが、変化とも言い切れない変化が彼女の心中で揺れ動いていたかも知れないと、そうは口にしても良いように思える。
校門の敷居を跨いだところで、小春は足を止めた。そして何か思い立ったかのように踵を返し、校舎の前を横切って、弓道場へと足を運んだ。