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デメキンよ、空で泳いで。  作者: 笹井ほら
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1-四 靴と射法八節

 矢を放ち、的を射る。およそ五十射ほどになるだろう。大会の日が近づくにつれて、弓道に対する小梅の熱量はより増して行った。的中制、得点制、採点制のどの競技方法においても、彼女は極めて秀でた成績を残し、同部活内では一、二を争う実力者だった。

「大学行っても続けよっかなって」

 いつの日か、小梅がそれとなくそう告げたことがある。その言葉は、もはや弓道それ自身が彼女にとって、彼女の自我及び自尊心と絡み合って切り離せなくなっていることの裏書きだった。

 一方、小春はと言うと、弓道に対しては可もなく不可もなくといった態度で臨んでいた。練習においては申し分のない結果を残してはいたものの、試合に出場することはおろか、昇段審査にも消極的だった。三年への進級時には、自ら進んで後輩の指導担当を受け持ち、その傍らでただただ小梅の背を見守っていた。そして実際、それは彼女の性分に合っていたのだろう。小春は自分に与えられたその役目を全うし、それを心から楽しんでいた。

 この日も小春は、数人の後輩たちに対して物腰柔らかに、妹に対するかのように接し、可もなく不可もない指導者として存分にその能力を発揮していた。道場の脇へと後輩たちを呼び、射法八節という弓道における基本動作を何度も繰り返させる。次いで彼女たちを射位に立たせ、実際に弓を引かせ、射型を修正したりしてやる。最後には各々に自主練をさせるのだが、この定型化された指導の合間、弓道部顧問であり、現国の教師でもある中ノ村先生がふと小春に呼び掛けた。薄いピンクのポロシャツと黒のスラックスといういつもの出で立ちで、生徒の靴が四分五裂になっている道場の玄関口に立ち、足の踏み場を決めかねながら彼女は手招きしていた。

「久恒さん、ちょっといい?」

 小春は後輩たちに詫びるような一言を残し、弓道衣を着たままで先生の許へと向かった。

「えっと、どうしました?」

「ううん、どう? 可愛い後輩ちゃんたち?」

「あっ、えぇ」と言って、小春ははにかんだ「いつも通りで、順調です」

 会話の節々に『離れ』の動作を示す音や的中の音、蝉の声が入り混じる。耳をそばだてれば袴の衣擦れや、足袋と檜の床材の擦れ合う音さえ聞こえてくる。

「あの、なにかしました? 私」

 それらの響きに割って入るように、小春は不意に尋ねた。

「いやぁそういうのじゃないの。ほんとにネガティブやねぇ、久恒さん」

 そう言って微笑しながら、中ノ村先生は右手で左の頬を掻くと、何気なくといった按配に、視線を道場内に一巡させた。小春は先生の目の動きにつられ、同じように道場内を見回した。が、すぐに中ノ村先生の方へと再び向き直り、訝し気な面持ちで、慎ましそうに片方の手で逆側の肘を押さえながら言った。

「じゃあ、なんでしょうか?」

 中ノ村先生は視線を小春の目へと据え直すと、腕を組んで、小さな溜息を一つ落としてから話した。

「まぁ、単刀直入に言うね。先生ね、次のあの個人戦、大会に久恒さんを出させてあげたいって、そう思っててね」

 言いながら先生は顔を伏せ、生徒たちの靴をぞんざいに、せめてその向きだけでも揃えようとして、それらを足先で突いた。

「あー、そうですか」

 小春はまた先生の視線につられて、部員たちの靴や土間床を見やりながら、生返事で応じる。

「うん、久恒さんが出たくないのは先生も知ってる。それは知ってるけど、でもどう?」先生は顔を上げ、願いを乞うような表情で、打ち合わせた両手を顔の前にかざして続けた「先生の為だと思って、出てくれない?」

 小春は後ろ首に手を添え、目を逸らし、困惑した素振りを示した。

「お願い、どうかな?」

 その追い討ちを受け、小春は一瞬口を引き結んでから、こう答えた。

「ええと、私、緊張しいなんです。知ってると思いますけど、試合となるとそうなんです。足踏みだって、いざその場になったら弓を持つのだって全然――」

「本当に、緊張だけ?」

 打ち合わせている両手が、形そのままで先生の腹の辺りまで下がる。続いて首が少し傾ぐ。その急に落ち着いた声色と、何か見透かすような眼差しとに、小春はほんの微かな動揺を示し、目を逸らして言った。

「緊張する自分も、なんか嫌なんです」

 そこでほんの暫く、沈黙の帳が下りた。中ノ村先生はそっと両手を下ろし、部員たちの練習風景に視線を注いだ。小春も目のやり場に困っていたらしく、身体を道場内へと向け、先程と同じように一方の手で逆側の肘を押さえながら、時折自分の足元をさり気なく見つめていた。若干重苦しい空気の漂うこの現状を打破するような、何か珍奇な出来事が起きるのを、小春は突っ立ったままで待っていた。その内に中ノ村先生が、互いの間に吹き込んでくる弓道場独特の森閑とした趣に、鹿威しの原理よろしく、溜め込んだ静寂を糧にして水を差した。

「西種さん、上手やね」

 小春は一瞬間、先生の方に振り向いた。先生は顎先でくいっと、小梅を指し示す。促されるようにして、小春は小梅を注視した。

「七、八割って感じかな?」と、中ノ村先生は言った。

「そうですね」気のない返事ではあったが、言葉に感情を込めようとした形跡の多少は認められなくもない、そんな声音で小春は言った。

「久恒さんって、一番は誰って思う?」

 このふとした質問に、小春は思わずまた振り向いた。

「えっ、はい? 一番って――」

「段位とか、なに制とか、形式とか関係なしに、直感でね」

 先生は小梅の姿を捉えたまま目を動かさずに、腰の後ろで手を組んでそう言った。小春は少し考えた後で、きっぱりと答えた。

「私はうめが、小梅が一番だって思います。でももちろん、あくまで個人的にってだけで、他にも――」

「そう?」と先生は遮り、何か他意のありそうな音のない微笑を浮かべた「先生はね、久恒さんがぶっちぎりって思ってるんやけど」

 この言葉を受けた小春が見せた表情には、驚きや喜びといった類のものは表れてこない。ただ中ノ村先生を横目にちらりと見やり、次いで決まりきった反応を示しでもするかのようにかぶりを振るのみだった。

「どうして、そう思うんですか」と、小春は言った。

 中ノ村先生は一息ついてから、少し声を落として「この前ね」と始めた「誰かさんが一人で練習してるとこ、見ちゃった」

 小春は先生の顔を見ず、言葉を噤んでいた。

「水曜日の、朝八時頃やったかな。何時から入ってたの?」

「あれは別に……ちょっと早く来すぎて、暇だったんで、ほんと――」

「前から思ってたんやけど、もしかして久恒さん」と中ノ村先生が口を挟む「なにか誰かしらに、例えば西種さんに気を遣って、皆の前で弓引かないの?」

「どういう……ことですか」小春は動揺を悟られるのを恐れてかどうか、間を置かずにすぐさま言葉を返し、その後で小さく咳払いした。

「うーん、どういうことでしょう?」中ノ村先生は意地悪そうな笑みを浮かべる「にしても、今先生が、久恒さんがぶっちぎりって言ったこと、疑問に思ったりしないんやね」

 小春の口元は微かに動いたが、言葉を発することなく閉じられた。次いで彼女は唇を丸め込み、口内に収められたその乾いてもいない唇を舌で軽く舐めた。

「久恒さんって、西種さんに憧れるような気持ちってある?」と、不意に中ノ村先生が尋ねる。

「えっ?」小春は思わず振り向き、聞き返した。

「西種さんに、憧れたりって、してる?」

 小春は少し考えに耽るような表情を浮かべながら、顔を正面に戻し「どうでしょう、そりゃ普通に好きですし、あるかも知れません」と答えた。

「そっか」それだけ言うと、先生は数秒の間を挟み「変なこと言ったけど、まぁとにかくね、その……さっきの先生のお願い、ちょっと考えてて欲しいなって、それだけなの」と続けた。

「あぁはい、分かりました」小春は先生に一瞥を与え、その場を凌ぐようなとりあえずの言葉を零す。それから最後に「多分出ませんけど」と言い添えた。

 中ノ村先生は軽く吹き出すように鼻で笑うと「じゃあ、後輩ちゃんたちよろしくね」と言って小春に背を向け、立ち去って行った。

 小春はそこで、ほっと溜息をついた。肘に添えられていた彼女の片手には、今や無意識的に力が込められている。小春は両手をだらりと下ろすと、次に何かを確かめるかのように掌を返した。手汗の滲んだその両手を見るが早いか、すぐに袴の側面でそれを拭い、乾かそうとするみたいにして両手をひらひらと振りながら、彼女は後輩たちの元へと戻ろうとした。

 しかし、そうして二、三歩進まないうちに、彼女は回れ右をして、部員の靴が散らばった道場の玄関口へと立ち戻った。そしてそこへ屈み込んだかと思うと、小春はその靴を綺麗に揃え始めた。ヒールのない歩きやすそうな黒のパンプス、ナイキのランニングシューズ、洒落たローファー等々が所々に入り混じってはいたが、そのほとんどをシンプルなスニーカーが占めていた。ニューバランス、GU、VANS……小春はこれらの靴の一足一足の向きを揃え、整然と並ばせると、最後に目についた、若しくは最後にとっておいたコンバースの紺色のスニーカーに手を触れた。それは小梅の靴だった。小春は何か思い付きでもしたかのように、その小梅のスニーカーの、靴紐の片方をそっと解いた。そうして、小春は後輩たちの元へと戻った。

「どうしました?」

「先輩、なにやらかしたんですか?」

 小春が戻った途端、彼女たちはにやりとした笑みを湛えながら口々に尋ねてくる。小春は微笑を浮かべ、顔の前で手を振りながら照れ臭そうに言う。

「なんにも、なんにもしてないよ」それから玄関口を指差して「なんか、あそこ散らかってるから注意しといてだって」

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