track36 昼下がりの自由落下
「おーいフロイスさん!寄ってかないかい?」
ネヴロの繁華街に構える小さな青果店の門前から、一人の年老いた男性が威勢の良い声を上げた。
その対象は同じく年老いた老婦人。絵に描いたような杖を突き、腰を曲げ人混みを歩いている。
声に気が付くと彼女は振り返り、笑みを浮かべつつその青果店へ歩みを変えた。
「あら、ご機嫌よう。じゃあ買わせて頂こうかしら」
「今日は何か用事かい?」
「えぇそうなのよ。少しばかり、若い子達とお話ししに行くの」
「若い子……?フロイスさんもまだまだ隅に置けんねぇ」
腕を組みながらにやけ顔を浮かべてからかう男性。
意味を察した彼女は上品に笑いながらそれを訂正する。
「もうとっくにそんな年じゃないわよ。新しく……私の身の回りのお世話をしてくれる方々が来てくれたの」
「あぁ!なるほどね。じゃあ恒例の”アレ”の事か」
「ふふ、そうよ。………じゃあ、これとこれを頂けるかしら?」
彼女が指差したのは、赤く熟れた林檎のような真球の果実と、干からびた細い植物の根の束。
”あいよ!”とこれまた威勢の良い掛け声とともに男性は慣れた手つきでそれらを取り、紫色の大きな紙に包み紐で結んで渡す。
受け取った彼女は懐から小さい財布を出し相応の通貨を支払った。
「ありがとうボルクさん。また来るわね」
「おう!お気を付けて、フロイスさん」
………その時、彼らの遥か頭上で凄まじいエンジン音の様なものが轟き始めた。
「ん!?な、何だこの音!?」
反射的に見上げると、上空を日常的に飛来するフォッグと同様の物体が、あろうことか上下逆さまになって右方から猛スピードで飛来していた。”飛来”というよりはもはや”発射”の方が正しいとさえ思える程だ。
「嘘だろ!?どんな運転したらあんなことになるんだ?」
「あら……」
遅れて顔を上げた彼女はそのフォッグを見て、再び上品に笑った。
「………平和ね。今日も」
◆
「ああああぁぁああああああぁぁああああ止まれええぇぇええ!!!!!」
「シーラ様!!!闇雲に操作したらまた大変な事……に……うわああぁぁああああ!!!!」
頭頂部に渾身の重力を受けながら上空を飛来する我々一行。
半ばパニックになっていた俺は手あたり次第ブレーキの様なレバーやらボタンやらを引いて押しまくっていた。
……それにより、フォッグは止まるどころか更にスピードを上げたり、回転したり、活きの良い心電図並みに上下運動したりと、事態は増悪の一途を辿っていた。
「やめてくれシーラ君!!このままでは死んでしまう!!!若しくは生きながらにして液状化してしまう!!」
「て、ていうか……ぉえっ………このままだと……燃料が………っぅ……」
懇願するジーク隊長、嗚咽するアイラ副隊長、そして考える事を放棄し無表情で腕を組むミルダ。
ハンスはたった今気を失い、智里は初動で気を失っていた。
……そしてアイラさんが口にした懸念は当然ながら数分後、ブザー音と共に起こる。
「はっ!!!?この音何!!?それになんか赤くなってない!!?」
あからさまにエマージェンシーなブザー音に加え、車内のガラス一面が真っ赤に色を変えている。
……続いて運転席に対面するガラスに、”緊急警告”というホログラムが表示された。
「何これ………」
その文字は左に流れ、続けざまに警告の内容が表示された。
”燃料の不足並びに急激な蓄魔力消費によるオーバーヒートが生じています。今すぐ停止して下さい。10秒後に緊急停止致します”
「………うわぁ、すっごいベタ」
「”うわぁ”じゃないよシーラ君!!どの角度のリアクション!!?」
存外、真の驚嘆はこんなものなのかもしれない。
俺は10秒後に起こる事実を諦観と共に受け入れ、同時に己がしでかした事への懺悔を脳内で始めた。
「まずいぞ……彼女の目が完全に逝ってしまった!!!くっ……こんな状態じゃブレーキまで手も伸びない……!!」
「ぅうっ……もう……無理……ぐぅ……吐く……」
状況は絶望的。墜落を待つのみ。
しかし……これ以上なくグロッキーな彼女と、遥か下に広がるネヴロの街並みを一瞥した隊長は、何か閃いた様子でその肩を揺すり声を上げる。
「もうやるしかない…………おい!しっかりしろアイラ副隊長!!!墜落を始める前に欲獣化してくれ!!」
「な……ぅ…何を言って……るんでずが……ぁおぇ……隊長ずびばぜん……もう嘔吐ます」
「出す前に頼む!!!これしか助かる方法が無いんだ!!」
「ぅぅ………」
「………冬のボーナス2倍!!!」
「ぅぅ………」
「3倍!!!」
「もうひとこえ………」
「”もうひとこえ”って何だ!!!まぁまぁ元気じゃないのか君!?………じゃあ5倍!!!」
「っしゃあ!!!!そんだけあればシーラたんと年単位の旅行に……」
「早くやれよ!!死んだら旅行も何も無いんだぞ!!!」
迸る熱意で嘔吐の危機から逃れた彼女は、すぐさま隊長の言う通り欲獣化を図る。
………それと同時にフォッグは全ての活動を停止し、無慈悲にも上空から自由落下を始めた。
◇
「準備はいいか副隊長!」
「はい!全員出せます!」
アイラは、何故かシーラを抱きかかえていた。
残りの乗客は隊長含めフォッグの入口付近まで移動している。
ハンスと智里以外の二人は気絶していない筈だが、完全に思考が停止しており成すがままであった。
………間を空けずに、隊長がタイミングを計り合図を出す。
そして彼らは三人をフォッグの外へと押し出し、あろうことか自らも飛び降りた。
………地表まではおよそ500メートル前後。
アイラは事前に交わした会話を脳裏で反芻し、その時を待つ。
400メートル。
300。
200。
彼女は地表を見る。
そこに広がるのは一つの小さな湖だった。
ネヴロの市街の南方にある自然保護区域に存在するそれは、奇跡的にも一行の予想落下地点のほぼ真下に存在していた。
そして、およそ100メートルを切った時点で隊長は叫ぶ。
「頼む!!!」
気流に塞がれた鼓膜に当然その声は届かなかったが、アイラは応じる様に頷いた。
抱きかかえたシーラに、そして下方を落下する隊長含めた五名に向かって言い放つ。
「”支配欲”!!!」
………瞬間、湖の水面ギリギリの地点で全員が自由落下を停止する。
魔力を掛けられたシーラを抱える彼女自身も、危機一髪のところで動きを止めた。
「……………ハァ……ハァ~~~~………良かった……」
逸る鼓動をそのままに周囲を見渡し、作戦の成功を確信したアイラは安堵と共に深く息を吸い………シーラの顔を腕で覆いながらその魔力を解いた。
上空500メートルからの位置エネルギーを殺し、水面ギリギリでの位置エネルギーに置き換えられた一行は、相応の静かさで湖へと落ちる。
「ぶはぁっ!!………う……うまくいったなアイラ君……!!!気絶した二人を連れて地表に上がるぞ!」
「はい!………ていうか、あんまり意識ない今ならシーラたんに合法的に激熱なキスとか出来るんじゃ……」
「非合法だっつの!!!いいから行くぞ!!」
「………………はぁっ!!!………え、何これ……?なんで浮かんでんの俺!!?」
俺が正気を取り戻した瞬間、目に映ったのは一面の湖と………何故か口を尖らせてこちらに迫りくるアイラさんの顔面だった。




