track35 発進
「ねぇ主、言われた通り2体用意してネヴロに送ったっすけど………何に使うんすか?」
鬱蒼とした木々に囲まれた仄暗い森林。
ローブを纏う男は吊り下げたハンモックに揺られながら、鼻歌交じりに本を読んでいた。
傍らで問いかけるのは半獣人の女。顔含めた全身の皮膚は人間の物だが、狐の様な耳と深い紫色の尻尾を携えている。
「………一つは見学、もう一つは修正……かな?」
「意味わかんないっすマジで」
「はは、ノリ悪いねぇ相変わらず。……シェード、成長には模範が必要だ。しかし、稲神奈生にはその模範が無い」
「いるでしょ、母親の……ヴィエラとかいう女やら執事やら」
男は本を閉じ、上体を起こして首を振る。
「いいや、淫魔ではなく人間の模範さ。前世での人間としての記憶と理性、そして欲望が残っている以上、彼は適応種が出せる限界を容易に超えられる筈なんだ」
「余計わかんないっす」
「………まぁ要約すれば、彼の成長へのモチベーションを上げる為に、強大な力を持つ人間をぶつける為だよ」
「2割は理解しました。もう一体のほうは?」
「君と話すと脳の糖分が枯渇するね…………。そっちは、彼の新しい執事君に向けてのプレゼントさ」
「傲慢の?」
「あぁ、彼も一応サンプルとして経過を追いたいんでね。取り敢えず鎮静記号による欲獣化の制御を盤石にさせ戦闘に利用させるため……止むを得ない状況を作りたいのさ」
「へぇ…………色々難しいんすね、枢要罪の人らって」
心底興味のなさそうに、半獣人は空を飛翔する鳥達を眺めている。
そんな彼女を見て嘆息しつつ、男は再び本を開いた。
「君も、その一部じゃないか。………怠惰」
◆
「おお……!!思ったより乗り心地良いな!」
鎮静記号を購入した我々は、移動手段であるフォッグを貸し出しているという場所までたどり着いた。
こじんまりとした煉瓦造りの建築物内部にて簡易的な貸し出しの手続きを済ませ、脇に並ぶ数多のフォッグの中でも一回り大型の物に一行は前後三人ずつ座席に乗り込む。
俺は前の座席の中心で左隣にハンス、右にミルダ。後ろでは左から智里、アイラさん、ジーク隊長の順で座っていた。……因みに運転はミルダであり、俺達は当初やんわりと反対したのだが……微塵も譲らなかったためやむを得ず操縦権を与えた。
「では、早速参りましょう。……飛行型のフォッグを借りたので空を走ります」
「えぇ!!?空!!?」
突然の申告に、前世でも飛行機にすら乗ったことが無い俺は動揺を隠せなかった。
それによく考えれば……チャリ以外全種類酔うほどの雑魚三半規管を兼ね備えていることも忘れていた。
い、いやもうあの頃の三半規管じゃない。生まれ変わったことでトリプルトウループにすら耐えうるつよつよ三半規管になっているかもしれない。
「ミルダ、失礼だが本当に君が運転で大丈夫……」
「徹頭徹尾問題ありません」
同じ隊長とは言え普通に先輩であるジークさんに食い気味で反論するミルダ。
その自信がもうかなり純度の高いフラグである事に、俺は目を背けていた。
「では改めて………発進致します」
ガチャッ……と、足元にあるレバーを右の踵で押す音。
次の瞬間、我々が見ている景色が反転した。180度。しかも左右ではなく、上下に。
「おぉおおお!!!??何これ!?空中でひっくり返ってんじゃねぇのこれ!!?」
車内全員の思考と三半規管が悲鳴を上げる。
何か胃に入っていたら確実に全部出ていた。間違いない。
大概の事象に感謝してきた人生だと思っていたが、この時俺は初めて”空腹”に感謝した。
「痛っった!!天井に頭………!!」
「アイラ副隊長、シートベルトをしっかり閉めてください」
「やかましいわ!!てかアナタ操作すら碌に出来てないじゃない!免許持ってんの!!?」
「無論です」
重力に従い毛髪が逆立ったまま彼が取り出したのは一枚の黒いカード。
そこには彼の顔写真と個人情報が記載されている。フォッグにおける運転免許証なのだろう。
「あれ、この発行年月日って……」
気付いてしまった疑問を投げかける。
「昨日取りました。職務が忙しい為、特例の超短期コースで」
「………超短期?って……どんくらいの?」
「8時間です」
「はっ…………………法律的に……どうなの……?」
「隊長なので。融通が利きます」
「この犯罪者が!!!融通を利かすな!!!誰かに代われ!!!」
「運転中にシートベルトを外すのは如何なものかと」
「コントしてんじゃねぇんだよ今はさぁ!!!頼むから代わっ……」
ミルダを運転席から引きずり降ろそうと躍起になっていた最中、俺の右肘が両者の間のレバーに触れ思い切り後方に倒れた。言わずとも、考えずとも分かる。これはやってしまったと。やるとしてもこんなベタ極まりない顛末でいいのかと。
刹那、我々一同を乗せた上下反転フォッグは打ち上げられるが如く上空に飛び、そのまま前方へ弾き出されるが如く発進を遂げた。
結局俺が、一番の犯罪者になってしまった。




