track27 其処に在る地獄
自分の、狂った様な呼吸音しか聞こえない程朦朧とした意識の中で、確かに切り離された彼女の右腕は意思を以って言葉を発していた。
「う…………!!がぁっ…………はぁ………!」
嗚咽は止まらず、度を越して地に吐く。内臓ごと飛び出してしまうかと錯覚するほどだった。
しかし、彼女はその様子を見て再び高笑い、愉悦と言わんばかりの表情を張り付けている。
「腕くらいで吐いちゃうの?………証明だね。やっぱりまだ足りない」
「………ハァッ………ハァ………」
髪から手を離すと、血の付いたナイフを今一度握り直したデラネは…………刃先を自身の右腹部へと垂直に突き立てる。
その行為から連想される数秒後の光景は、再び俺の中の狂気を奮わせた。
「何なんだよお前は!!何で…………!!そんな事したら………!!」
「勘が悪いなぁシーラちゃん?こんな事して平気な化物なんて、不死身しかいなくない?」
一秒も待たずして、突き刺す。
刃先の方向に従い、腹部を右からゆっくりと真横に裂いていく。
「うぅっ………!!」
青白い皮膚から、赤黒い塊が無造作に流れ、翠緑の草花を侵していく。
未知の頭で浮かべた連想などより、現実は遥かに惨憺たる光景だった。
吹き出る臓物と血液をそのままに一切相貌は崩さない。………堪らず俺は嘔吐し、慟哭にも似た声を上げた。
「やめろ…………!!これ以上……」
「……………まだだよ」
四方に散らばる臓物へ一瞥もくれず、彼女は次々に自傷を続けた。
左手、一指から五指まで、第一関節と第二関節を続けて切断。
左腕、手根から肘まで裂き、橈骨と尺骨それぞれを引き出す。
頸部、右側面に短刀を突き刺しそのまま左側面まで半円を描くように切り開く。
右大腿、腓腹、頚部
左眼瞼、眼球
右頬、右耳
心窩
…………もう、分からない。
どう力を込めても首が動かず、俺は無秩序に行われる悍ましい自傷から目を一切背けることが出来ない。
いつしか喉は叫喚の末に枯れ果てていた。病的な程に咽返り、病的な程に目を血走らせ、それでも嗄声を振り絞り叫んでいる。
「なっさけな~~い!!もうギブなの?……………ざぁこ」
唯一傷を付けていない左足で思い切り頭を踏みつけられる。
踵を捻じ込むように圧力を掛け、その痛みに思わず呻く。
「ふざけてんの?アンタ。こんなので何叫んでんの?何吐いてんのよ!!」
「はっ………はぁ……………うぅ………」
「言ったでしょ?これは”日常”。アンタが考え得るどの地獄よりも私達の日常は残虐で、醜悪で、狂態に塗れてるの」
「………………」
「”欲望を奪えるから欲獣化を治せる”。確かに素晴らしいわ………でもそれは理論値。そこに至るまでには無数の惨劇が隠れてる。暴走した欲獣による民衆への攻撃、これ一つで何人死ぬと思う?無力にも間に合わずに今の私みたいな死体があちこち転がってる光景を…………ここに居る騎士団の連中はもう数えきれない程見てるの」
荒れ狂う頭の中に、彼女の言葉は何故か突き刺すように入ってくる。
声色は狂気から怒り、そして虚しさへと変遷していく。
「アンタの功績は全部聞いてるわ。その上で言ってるの。中途半端に成功体験積んでるガキ程厄介なのは居ない」
「………な…………何だ……と…………!」
「……………アンタは今、私が言った光景を想像できた?何度も欲獣を見て来た癖に、たった一人分の惨死体で発狂する程度の覚悟で今日まで生きてきたの?」
「お…………おれは……………俺は……………皆……を……救いたいから…………」
「帝国騎士団を嘗めないで。………救う覚悟ってのは、救えない無力から目を背けて決める物じゃない」
彼女は踏みつけていた足を戻した。
………右腕がひとりでに指を鳴らす。すると、辺りに散らばる臓物や皮膚、血液が突如一斉に蠢き始めた。
「私はアンタの入隊を望まない。…………自分からその半端な覚悟を撤回するまで、せいぜいそれで遊んでなさい」
蠢く物達は次第に形状を変えていき、あろうことか人型を成していく。
色は赤褐色から薄く血の通う肌色へと。頭部から四肢まで、元の状態を問わず全てが人に変わる。
ただ一つ、彼女が持つ右腕を除いて。
「お………おい………待て!!やめろ………!」
「じゃあ後は任せたわ右腕」
もう完全に肉塊は精巧な人間へと変貌を遂げ、無数のそれらが俺を取り囲んでいた。
老若男女同じ個体は無く、誰も彼も白い眼球でこちらを見ている。
「あ………うぁ………………あぁああ…………!!」
「好きに切り刻んで良いから」
彼女が右腕を放り投げる。
飛来し、獣の様に鋭く爪を尖らせたそれは、目の前の人間達を瞬く間に、悉く切り裂き始めた。
「ああぁああああぁああああ!!!!やめろ!!もう見たくない………!!!頼む………やめてくれ!!!」
降り注ぐ精巧な血と臓器を横目に、デラネ・ローワスターは冷徹に微笑んでいた。
◇
初めてその名前を聞いた時、”仲良くなれそう”と思った。
だって響きが良いから。シーラ、なんて名前中々出会えない。
でも彼女の事を知る度に気持ちは黒くなる。
サキュバスだから?違う。種族なんてどうでも良い。それに私だってアンデッドだし。
八年前………初めて見た欲獣に逃げ惑わないで、しかも戦ってるアイラを助けようとした。
欲獣と帝国騎士団について詳しく知って、それでも騎士団に入りたいと言った。
二ヶ月前、枢要罪級相手に一対一で戦い………その欲望の主を完全に救い出した。
彼女の行いは無論称賛されるべきもの。並大抵の覚悟じゃ成し得ない功績。
でも、だからこそ私は地獄を見せなければならない。
シーラの行動理念を、根底から崩す程の。
「デラネ………貴様ぁ!!」
「…………」
ハンスが私の肩を掴む。
怒りに震え、歯をギリギリと噛みしめながら。
彼だけじゃない、他の帝国騎士団の連中も……最初から私を取り押さえようとしてた。
でも無駄。私の結界魔術は破れない。
事実、こうして態々結界を自ら消すまでハンスは私の肩なんて掴めなかった。
「何?」
「ふざけるなよ………シーラ様へのテストは低級魔術攻撃のみだと言われていただろう!!!」
「これも低級だよ、私にとっては」
「貴様の基準など聞いていない!!!何故こんな真似をした……!!何故………」
ハンスは一瞥する。
そこには、死体なんて一つも無い芝生を見回して、割れんばかりの悲鳴を上げるシーラが跪いていた。
「幻覚………ですか」
もう一人、私の後ろに立っていた。
確か名前は……トモリとか言ったっけ。
二ヶ月前の一件でシーラが助け出した傲慢の主。
……こっちの執事と違ってこの子は声を荒げず、冷静に、怒りを秘めている。
「よく分かったねぇ執事君?………そう、シーラが見てるのはぜーーんぶ幻。吹き飛んだ右腕も、零れ落ちた臓器も、無数の人間達の切り刻まれた死体も…………今彼女が見てるのは全部、ね」
「そこまでの深度で庇護欲を掛けたのか貴様!!!そんな事をすれば彼女は!!」
「”無くす”でしょうね。意思を」
「ッ……!!」
そこで、シャルテ・アイラが歩み寄る。
私を見る目と口調はさっきまでの腑抜けたものじゃなく、完全に副隊長としての佇まいへと変わっていた。
「デラネ・ローワスター四首、今すぐ彼女を解放しなさい」
「………アンタも、呆れる程甘いわね。嫌よ。この子が一言”騎士団には入らない”と言うまで、絶対にやめない」
連中はシーラに向かい必死になって声を掛け介抱する。
中でもルイスは怒りを孕んだ視線を私へ突き刺しながら、彼女に呼びかけていた。
まぁ、声掛けた所で無駄なんだけどね。
「試験監督は私よ。部外者達はあっちで食事でも楽しんでなさい」
「っ……!!デラネ………いい加減に………!!」
ハンスは右拳を振り上げる。
……まぁそうなるでしょうね、いくらでも殴ればいいわ。
でも、その腕は一人の女性によって抑えられた。
「何があったの?ハンス」
「……………!!」
「………やっと、来たわね」
立っていたのは紛れも無い、シーラの母親で…………夢魔族を統べる適応種の到達点。
「随分遅いご帰宅ですね?お母様」
ヴィエラは、唯々表情無く私を見下ろしていた。