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5   Amore!



「ところでさ、アオはなんでカルズ通りにいたの?」

「え?」


 東の空がまだ太陽を待っているころ、アオとランはアルディアの屋敷にいた。血の止まらないランの左手を手当てするため、土竜の穴よりもずっと近いここに駆け込んだのだ。ランが「もういい」と言うので、ビアンカはそのまま置き去りにして。


 真夜中の突然の訪問にもかかわらず、アオの焦り具合と、ランの真っ赤な左腕に、アルディアは眼を丸くしながらも迎え入れてくれた。そして傷を負った経緯を聞き、今は警察へ連絡したりと後始末をしてくれている。


 通されたいつもの部屋で、アオはランをイスに座らせ、使用人が用意してくれた傷薬で手当てをしているのだった。


 ランは少しすねたようにアオを見つめる。


「オレ、先にモグラ穴に帰っててって言ったよね?」

「あ、えーと、それは……」

「あんな時間に一人で、しかもカルズ通りをうろつくなんて。襲って下さいって言ってるようなもんじゃないか」


 ムッ、とアオは言い返す。


「僕はお前を探してたんだよ。なんで帰りが遅いのかも教えてくれなかったし、どこにいるかもわからないし。心配だったんだからな」


 するとランは一瞬驚いた顔をして、それからにへら、と子供のように笑う。


「そっかぁ。ごめん、心配かけないようにと思って言わなかったんだけど」

「……ずっと、一人でジャックのこと調べてたのか?」


 アオの顔が沈んでいたのか、ランは苦笑していた。


「ん、犯人のが見てみたくなって」

「なんで僕にまで黙ってた? 言ってくれれば手伝ったのに」

「そう言うと思って内緒にしてたんだよ。危ないから」


 さらりと言うランに、アオは本気で眉をひそめた。


「危ないって……そんなのランも同じじゃないか! なんで一人で傷ついて、それで満足してるんだよ!」

「アオが危険な目に遭うより全然マシ。それにオレ、ケンカにはけっこう自信があったんだよ。ほら、ちゃんと怪我だって利き手じゃなくて左手だし」

「そういう問題じゃないだろ」


 アオは悔しくて奥歯を噛んだ。


「自分が情けない……」

「アオ?」

「だって僕、死んだルーが花びらを握っていたことにも全然気づかなかった。ランは気づいたのに」

「ああ、あんなの嘘だよ」


 えへ、とランはかわいらしく笑って見せた。


「は?」

「だからぁ、ルーがユリの花びらを持ってたなんてウソウソ。あれは、夕べサレッタ修道院に行ったときにちょっと拝借してきたの」

「…………はあぁ?」


 アオは大きく顔を崩し、手当ての手を止めた。対するランの笑顔はまぶしい。


「ハッタリかけたら本当にビビってるんだもん。あれは笑えたなー」


 アオは呆れ顔でため息をついた。


「もし見当違いだったらどうするつもりだったんだ」

「いや? ルーが殺されたときに修道院のユリを持っていたことはわかってたよ。死んだあいつを抱きしめたときにかすかな残り香がしたし、肩のところにはたくさん花粉がついてたから。花粉の方は警察も頑張って調べてたと思うけど」


 アオはじっとランを見つめ、少し首をかしげた。


「おまえって、昔からそんなに匂いに敏感だった?」

「んー、そうなのかも。父さんがアル中だったから、いつも酒の匂いを気にしてたとは思うよ。今でもオレ、ほんの少しでもあれが匂うと動けなくなるもん。なのに、みんなそんなのおかまいなしにねぐらでパーティとかやるからさ、まいっちゃうよなー」


 ランは特に嘆く様子もなく言う。


 けれど、包帯を巻いていたアオの手が完全に止まった。


「? アオ、どうした」


 答えず、アオはうつむいてしまう。


「おーい、アオくん?」

「………ラン」

「ん? なに、お腹すいた?」


 アオは下を向いたまま静かに口を開く。


「お前、本当はわかってたんじゃないのか。僕が、あの日――」

「あの日って?」

「僕がこの街に来て、お前と再会した日。……僕がどうしてお前に会いに来たのか、お前ならわかったはずだ」

「なーんのこっちゃ」

「しらばっくれるなよ」


 アオは勢いよく顔を上げ、思いつめた瞳でランを見つめる。


「あの日、僕はお前に」

「あっ、行くところがなくて、オレなら助けてくれると思ったから、だ。そうだろ?」


 合点がいったというように。ランは無邪気に喜ぶ。


「当たり前じゃん。そんなのとっくにわかってたよ。オレだって、お前が頼ってきてくれて嬉しかったし。なんだよ、今さら」

「――そうじゃなくて……」


 アオは緊張しているのか、急に喉が渇くのを感じた。一度息を整えて、ランの視線から逃げるように顔を下げた。


「ランなら、僕のこと、殺してくれると思ったんだ……」


 シンとした。呼吸さえ、なかった。


 アオはうつむいたまま、ランの表情をうかがうことすらできない。ぎゅっと目をつむり、ランの答えを待つ。


 ずいぶん長く感じられたのだが、本当はほんの一瞬のことだったのかもしれない。


「オレに殺してもらいに来たってわけ。わざわざ、どうして?」


 問う声は穏やかで、優しかった。


 アオは、手にしていた包帯を握りしめる。


「ランは僕のこと、殺したいほど憎んでいるはずだから。殺されたって文句の言えないことを、僕はしたから……」


 そっとランをうかがい見る。ところが彼は、きょとーんと瞬いていた。


「へ? オレ、アオに何かされたっけ?」

「とぼけるなよ!」


 アオはカッとして、なぜだか泣きそうになっていた。


「お前の父さんがアルコール中毒になったのも死んだのも、僕の家のせいじゃないか! 僕の父さんが金を貸して、だから酒を飲み続けて、だからアルコール中毒になって、だからランは毎日殴られて! それで、金を返せないからっておじさんは自殺して、だからお前は村を追い出されたんだろ、だからっ――」


 だから、ランは僕を恨んでるんだろ。


「……ばか?」


 あんまりな言葉。


 驚いて、アオは声を失う。見れば、ランは首をかしげて微笑んでいた。


「父さんが首つったのは、酒に内臓をやられて、もう長くないってことにビビったからだよ。借金のせいじゃない」

「でもっ……、だったらやっぱり、僕の父さんが金を貸したりしなければ、おじさんだって酒におぼれなかったかもしれない」


 違う違う、とランは明るく手を振る。


「父さんが酒を飲みだしたのは、アオたちが村に来るよりもずっと前だよ。言わなかったっけ、母さんが恋人つくって出て行っちゃってさ。それから金をあるだけ酒にかえるようになって。アオの家に貸してもらわなかったら、オレはとっくにのたれ死んでたかも」


 にっこりとしてランは言った。


「お前の家のせいじゃない。アオのせいじゃないよ。――ばっかだなぁ、もしかしてずっと気にしてたのか?」


 アオは惚けたようにランの笑顔を見つめていたが、それからまた下を向いた。


「……ランは、自殺したおじさんのことを恨まなかった? それに僕の父さんは、おじさんが酔ってはランを殴ってるって知ってて、おじさんにお金を貸してたんだよ。それでも、僕や父さんを恨んだりしないって言うの?」


 少し間があったが、ランの答えに迷いはなかった。


「うん。あれはさ、仕方のないことだったんだよ。しいていうなら、酒のせいだ」

「……嘘だ。恨まないはずがない」


 アオは涙をためて顔を上げた。


「だって僕は恨んだよ! 僕をおいて勝手に死んでいった父さんたちを恨んだ。母さんが病気になったのは母さんのせいじゃないけど、治せなかったのは父さんのせいじゃないけど、……苦しむことや、おいていかれることに耐えられなかったのは、二人のせいじゃない、誰のせいでもないってわかってるけど。でも殺してやりたいくらい恨んだ!」

「『殺したいくらい恨む』と『殺したい』は違うだろ」


 ランの右手と包帯を巻きかけの左手が、アオの震える右手を包み込んだ。


「恨んだってしようがない。どうせオレたちの人生はたかが知れてるんだから、そんなことに時間を割くのはもったいないよ。モグラっ子は楽しむことにこそ貪欲にならなくちゃ」


 幼子を慰めるような、甘い声。


「アオがいないよりいてくれた方が何倍も楽しい。だから、オレはアオのそばにいたいし、絶対に殺さない。そんな理由じゃだめ?」

「……ラン」


 でも、とアオが言うより先に、ランは派手に悲鳴をあげた。


「いってぇ―――ッ」


 どうやら、アオの右手がランの左手の傷に触れたらしい。


「あっ、うわ、ごめんっ」


 大丈夫か、と焦ったときには、ランは「しょうがないな」と言って、


「うん。許してやるよ」


 満足そうに笑っていた。


(あ……)


 今、初めてアオは気づいた。


 死んでつぐないたいとまで言っておきながら、きちんとランに謝ったことは一度もなかった。


「ごめん」を言ったことは、今日この時までなかったのだ。


「ラン」

「んー?」


 アオは包帯巻きを再開した。


「ありがとう。これからもよろしく」

「おう、こちらこそ」


 へへっ、とランは嬉しそうに笑った。





 ほんの少し開いたドアの外で、アルディアは中の様子を見守っていた。廊下の壁に寄りかかり、腕を組んでため息をつく。


 ともかく、二人が無事でよかった。昨晩、突然アオが飛び出していったときはどうしたものか思ったが。


 それに、ランも。


 本当に切り裂きジャック2世と呼ばれる通り魔を探し出してしまうとは。


 この前、昼間にひょっこりと現れたときには、たいして情報をつかんでいるわけではなさそうだったのに。



 ――お願いがある、と先日やってきたランは、書斎で本を読ませてほしいと言った。


「アオには黙って来たの?」

「まぁね」


 ランが頼みごとをしてくるのは珍しくて、アルディアは気前よく彼を書斎に通した。ランがこの部屋に足を踏み入れるのは、別段今日が初めてというわけではない。


「だから、読んだらすぐ帰るよ。遅くなったらアオに怪しまれる」

「あら残念」

 

 クス、とアルディアは笑って見せた。ランにその気がないことは、もうわかっている。


「それで、お目当ては何の本? 机の上のホームズはだめよ、アオの読みかけだから」

「ああ、これ? 最新刊」


 しおりの挟まった本をチラッと見たが、ランはさして興味がないらしい。そのまま、本棚の脚立に上っていった。


「ホームズはいいよ。面白かったらあとでアオが読んでくれるから」

「そう。それじゃあ、何か調べ物?」

「ん」


 ランは一番天井に近い段をのぞきこみ、何か探すように背表紙を眺めている。


 その辺りの本はぶ厚いものばかりで、持ち主であるアルディアがコレクションとして持っているだけの犯罪記録のものだった。


「通り魔的殺人事件の記録ってあったっけ。こういうことはすべて過去の繰り返しだ、っていつかホームズも言ってたし、一応参考までに」

「あら。探偵になって、いったい誰を捕まえる気? もしかして」


 冷やかすようなアルディアの笑みに、ランは薄く笑って返す。


「ホームズぶる気はないんだけどさ。モグラ仲間も殺られたんでね、ジャック2世とやらの顔を見てやろうと思って」


 ランは目当ての本を見つけたのか、一冊の本を取り出すと、脚立の上に座ってひざの上に乗せて開いた。辞書よりも厚い本だが、ランのページをめくる速さも並ではない。


 アルディアは部屋にたった一つのイスに腰を下ろした。


「そういえば、ラン? アオがね、あなたは字が読めないんだって言っていたわよ」


 ピタ、とランの手が止まる。アルディアを見た顔は少し緊張していた。


「……それで、何て?」

「『あらそうなの』って、話を合わせておいだけれど」


 聞いて、ランは素直にホッとした表情を浮かべる。そしてまた、本に戻った。


「ありがと。さすがアルディアさん、わかってるね」


 アルディアは足を組んで頬杖をついた。


「わかってないわよ。どうして教えてあげないの? あなたがテニソンの詩の一つでも読んであげれば、アオも喜ぶでしょうに」

「そんなの趣味じゃないよ。――いいんだ。オレがアオの前で字を読める必要なんかないんだから」


 ――『必要』?


 アルディアに、その真意はつかめない。ただ知っているのは、ランはアオに本を読んでもらうことがこの上なく好きであるということ。


 アオのそばにいるときや彼の名を出すとき以外、ランは表情が極端に乏しくなる。笑い方もずっと大人びたものだ。何事に対しても、自分とはまるで無関係だと切り捨てているように。


 アオの隣にいるときの無邪気なランと、独りのときのどこか冷めているラン。


 いったいどちらが本当の彼であるのか。


 アルディアは目を細めて微笑む。


「猫かぶり」

「アオの前ではあれが素なんだよ。オレは自分に正直なの」


 本当に読めているのかという速さで読み進めていくランを、アルディアはしばらくぼうっと眺めていた。


 紙がこすれる音だけが、忙しなく続く。


 やがて、おもむろに口を開いた。


「わたし、あなたに嫌われたと思っていたわ」

「どうして?」


 ランは字面から目を離さない。


「アオがミレーノに来てから、あなた、一度だって一人で会いに来てくれたことないじゃない。たまにアオと来たと思ったら、顔を見せただけですぐに帰って」

「オレまでここに通ってたらアオがやりにくいから」

「そういうのは言い訳で。本当は、わたしがアオを飼っているから、あなたはい気分がしないんじゃなくて?」


 おおかた読み終わったらしく、ランは本棚からまた一冊取り出した。


「それはどういう意味で? アルディアさんがオレを捨てたから? アルディアさんが飼っているのがアオだから?」

「後者よ。あたしはあなたを手放した覚えはないし、だいたいあなた、あたしのことよりもアオのことの方がずっと好きでしょう」


 すると、本に向かい始めてから初めて、ランが表情をつくった。口元が笑んだだけであるが。


「まぁ確かに、オレが女だったらアルディアさんのこと殺したいくらい嫌ってるかもね。でも実際オレは男で、アルディアさんとは立場が全然違うよ」


 本に向かうまなざしが優しくなる。


「アオのやつさ、初めて会ったとき、オレのこと『天使だと思った』とか真顔で言ったんだ。でも、オレからすればアオの方が本物の天使だった。オレが父親から受けた傷を、心配してくれたり手当てしてくれたのは、あいつだけだったから」


 いつものように一人で森に隠れて泣いていたランのところへ、突然現れた黒髪の少年。不器用ながらも、こちらが口を挟めないほど熱心に手当てをしてくれたアオ。


「アオはオレにとってたった一つの光みたいなもんで、どんな汚い中に落とされようがその輝きを失ったりはしない。オレが触れさえしなければ」


 パタン、と本を閉じる。


「オレ、アルディアさんや修道院のやつらよりずっと汚いよ?」


 本を棚に戻してから身軽に床まで下り、ランは微笑む。それから、少し疲れたように脚立に寄りかかった。


「……ねぇ、アルディアさん。白雪姫の王子はさ、キスすると姫が目覚めると知っていても、そうしたと思う?」

「あら、なぁに? 突然」


 ランは目を伏せた。


「オレだったらさ」


 声音は、大人びた哀切を響かせて。


「もしもアオが、永遠に眠り続けるいばら姫か白雪姫だったなら、指一本触れないで寝顔を見守りながら、あいつの横で静かに朽ちていくのに。そのときオレはきっと、すごく幸せだと思うんだ」


 叶わない夢をみるように、ランは微笑んでいる。それから顔を上げた。


「アルディアさんは?」

「そうね……でも、わたしは」


 アルディアは優しく笑み、イスから立ち上がった。


「いくらキスをしても、愛する人は生き返らないことをもう知っているわ」


 アルディアは結婚して一年もしないうちに、夫とお腹の子を事故で失っている。


「……そっか」 

「ええ」


 二人は笑みを交わした。


「オレ、アルディアさんのこと好きだな。善人でもなくて、偽善者でもないところが」

「あら、ありがとう」

「じゃあ、また来るね。今度はアオと一緒に」


 おしゃべりの相手しかできないけど、と、ランはいたずらっぽく笑った。





 また来る、とは言っていたが。まさか噂の通り魔と対峙し、その手傷を手当てしてもらいに来るとは思ってなかった。


 部屋の中で談笑している二人の楽しげな声を聞きながら、アルディアは改めてため息をついた。


 それから気を取り直して笑顔をつくり、ドアをノックする。


「アオ、ラン、手当ては済んだかしら?」

「あー、アルディアさん」

「すみません、こんな時間に押しかけて。どうもありがとうございました」


 ちょうど包帯を巻き終わったところらしく、アオが恭しく頭を下げた。


「どういたしまして。替えの包帯も渡しておきましょうか?」

「いらないよ、大丈夫」


 ランはいつもの暢気な笑顔だ。けれどその「いつも」は、アオの隣にいるとき限定であることをアルディアは知っている。


「ところで、アルディアさん。今ランと話してたんですけど」

「ちょっとオレたちのお願い、聞いてもらえないかな」

「色々お世話になった上で、本当にあつかましいんですけど」


 アオとランはそっくりな笑顔を浮かべていた。何か、いたずらを思いついた子供のような。同調するように、アルディアも赤い唇を歪める。


「あら、何かしら。通り魔逮捕に大活躍したご褒美に、何でも聞いてあげるわよ」

「本当? やったぁ」

「ありがとうございます」


 アオとランは楽しそうに目を見交わす。それから二人してアルディアに言った。


「実は――」





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