4 Verita
「修道女?」
アオは驚きの声を上げ、立ち尽くしている「切り裂きジャック2世」なる人物を凝視した。
月明かりに照らし出された影は、思っていたよりもずっと小柄で、その顔立ちや体型は確かに女性のものだった。それも、まだ若い。
呆気にとられているアオの隣で、ランは笑みを浮かべて彼女を見ていた。
「ビアンカ・アリオスト。サレッタ修道院に入ってまだ一年の修道女。最近は院で貴重な外来ユリの世話をしている。――あんたに間違いない?」
「………どうして」
震える声で彼女は答えた。驚愕の表情から察するに、本当にランの言うとおりらしい。
ランはにんまりとしてから、スッと目を細めた。
「そしてさらに、夜になると『切り裂きジャック2世』になって連続殺人事件を起こしてる。あんまりいい趣味だとは言えないね」
「ち……違うわ」
何かに気づいたかのように、ビアンカは強張った笑みを浮かべた。
「違うって? 何が? 自分では高尚な趣味だとでも思ってんの?」
ランの声音が冷たくなる。それに気づいていないのか、ビアンカの笑みが強気になった。声音は歌うように。
「いいえ、わたくしは殺人などしておりません。あなたは何か勘違いをなさっているみたい。――そちらの子がこんな夜道を歩いていらっしゃるものだから、危ないと思って後ろから声をかけようとしたのです。それなのに逃げ出してしまわれたものですから、つい後を追って……驚かしてしまったのですね、ごめんなさい」
ビアンカは恭しく言い、アオに向かって頭を下げた。アオは状況についていけず、反応できない。
「え、えっと……?」
「演技ヘタだね。一年も修道院にいたのに、全然身についてない。向いてないんじゃないの?」
さめているランに、ビアンカは悲しそうに首を振った。
「ひどいですわ、信じてくれませんのね。なぜ神に仕える身であるわたくしが、人殺しなどという恐ろしいことをしなければなりませんの」
「あれ、自分でやったことも覚えてないの? 頭、大丈夫?」
ランはつまらなさそうに言う。ビアンカから表情が薄れ、帽子の奥の双眸が鋭くランをにらんだ。
「ラン」
アオはランの肩に手を置き、彼とビアンカとを交互に見やる。
「説明してよ。本当に、この……か弱そうな修道女がジャック2世で、通り魔なの?」
ランがでまかせを言っているとは思えないが、ビアンカは残虐な通り魔のイメージからはあまりにもかけ離れている。
「このヒトが間違いなくジャック2世だよ、アオ。通り魔とは少し違うけれど」
ビアンカに向けていた冷たい目が一変し、ランはにこ、と上機嫌に微笑んだ。アオは瞬く。
「通り魔ではない?」
「――まぁ、おもしろいことをおっしゃいますのね」
ビアンカは上品に微笑むと、袋小路の奥に階段状に積んである木箱の上に腰かけた。そしてランに向かって、ちょっと小首をかしげて笑んで見せる。
「あなたのおっしゃる『ジャック2世』というのは、今噂になっている恐ろしい殺人鬼のことでしょう。わたくし、彼は通り魔だと聞いておりましたけれど?」
「ジャックは『彼』じゃなくて『彼女』。あんたが実は男だっていうなら別にいいけど」
細かい訂正をいれるランに、ビアンカの目が厳しくなる。
「どうしてもわたくしを殺人者だとおっしゃるなら、きちんと説明していただきたいですわ」
「Va bene. アオからもお願いされちゃったし。そんじゃあ、簡潔に話してあげようか。あんたのやらかしたヘタな殺人劇の裏側を」
ランは不敵に微笑んだ。
*
「話を進める前に、一つ前提を置いておいた方がわかりやすい。最初の被害者、ドスイート・エレッヂは例外ってこと」
ランは一歩前に出て、アオを背中にかばう位置に立った。それからズボンのポケットに両手を突っ込んで、場に似合わない明るい声音で語る。
「ドスイートを除くと、被害者は四人。酒問屋の次男ケドア・マージス、郵便屋の息子ジョバンニ・キイト、それからモグラっ子のアルシードとルー。互いにほとんど面識はなかった」
ビアンカは木箱の上でにこやかに笑む。
「あら、ずいぶん記憶力がよろしいようね。でも、それではやはり通り魔の仕業なのではありません? わたくし、そのような方たちとお話をしたこともございませんわ」
「でも見たことはあるでしょ」
人なつっこい笑みでランは答える。
「昨日、一日中駆けずり回って調べたんだ。ケドアとジョバンニはずいぶん信心深くて、毎朝かかさずキューレ大聖堂に祈りをささげに通ってたって。シスター・ビアンカ、あんたはその時間、礼拝堂のほうへ務めに出てるんだってね? 言葉を交わしたことはなくても、二人の顔ぐらいは覚えていたはず」
どこまで、どうやって、調べてあるのだ。
ビアンカがわずかに怯んだのが、アオにもわかった。
「アルシードは信仰心なんかカケラも持ってないけど、大聖堂の裏庭で働いていた。あいつの活動時間は、オレたちと入れ違いで日が暮れてから。欲求不満な修道女や修道士たちの秘密のお相手だ。あんたも、一度くらい相手をしてもらったことがあるんじゃない?」
ビアンカはカッと赤面して息を呑んだ。図星なのかもしれない。
その反応が気に入ったらしく、ランが楽しそうに笑う。
「で、この四人には共通点がいくつかある。小柄なこと、金もしくは薄茶色の髪、それから――隻眼」
「隻眼?」
アオは思わず聞き返した。
「どういうこと、ラン。確かにルーはあの日、ハンカチを眼帯代わりにしていたけれど。あれはあの日だけだった。それに、他の被害者は」
「隻眼だったんだよ」
ランはアオに優しい目を向けてから、ゆっくりビアンカの方へ視線を流していった。
「死体は顔をズタズタにされて、ご丁寧に両目をくりぬかれていたから、結果だけを見れば誰も気づかない。四人とも写真が残っているほど裕福な家の人間ではないし、殺害前の顔を知っているのはそれぞれの知り合いだけだ」
ねぇ? とランは青い顔をしているビアンカに微笑みかけた。
「二人目の被害者・ケドアはものもらいで事件の数日前から眼帯をしていた。三人目のジョバンニは小さいころに事故にあったせいで右目がつぶれてる。四人目、アルシードは髪で隠していたけど額から右目にかけてひどいやけどがあった。右目は見えない。そして五人目、ルーはまぶたに怪我をしたせいでハンカチを眼帯代わりにしていた。――一時的なやつを含め、みんな右目が見えない状態だったんだ」
「……よく、そんなことまで」
「捜査は足から、って言うでしょ?」
驚嘆したアオのつぶやきに、ランはにっこりと幼く笑う。それから、少し大人びた笑みになった。
「ケドアとジョバンニのことは警察もおさえていたみたいだけどね。モグラっ子の、しかも夜にしか出歩かないアルシードのことを詳しく調べるのには、時間も労力もかかる。モグラは警察が嫌いだからね。けど、同じ仲間には協力を惜しまない。そして、ルーが事件当時に右目が見えなかったことを調べるのは、さらに至難の業だ。あれはほんの数時間、日が暮れてから深夜に事件に遭うまでの間だけのことなんだから」
パチパチ、とビアンカから乾いた拍手があがった。
「すごいですわね、警察も知らない被害者の共通点を見つけてしまうなんて。まるで推理小説に出てくる名探偵のよう」
「ホームズぶる気はないって言ったんだけどな」
独り言のようにつぶやいて、ランはビアンカに向き直った。
彼女は修道女らしからぬ、嫣然とした笑みを浮かべている。
「でも、残念ですわ、探偵さん。今あなたがおっしゃったことと、わたくしが犯人ということには何の関係もありませんでしょう」
「オレの話、ちゃんと聞いてた?」
ランは呆れたようにため息をついた。
「犯人が隻眼の少年を狙っていたなら、それはハンカチを頭に巻いてるルーを見たやつってことだ。つまり、ルーが殺された日の夕方以降にあいつを見た人間」
ランとビアンカの視線がまっすぐにつながる。
「と言ってもルーは、仲間のモグラがぐっすり寝ている深夜に、一人で出て行ったんだ」
「……どこへ?」
横からアオが、そっと尋ねた。ランの左目がアオを映す。
「サレッタ修道院だよ。ルーはさ、アリスの誕生日に、あそこにしか咲いてない黄色いユリをプレゼントしたかったんだ。部屋から出られないアリスは、自分で見に行くことさえできないんだからね。昼間行ったら見つかってボコボコにされたから、夜更けを待ってまた行ったんだ。――そして、そこをあんたに見られた」
ギロ、とランの目がビアンカに戻る。
「あんたはユリを摘んでるルーを見つけて、街中までつけていってから殺したんだ」
声音は平坦だった。
「オレが最初に妙だと思ったのは、ルーの死体にあのユリがまかれてなかったことだよ。カルズ通りは、キューレ大聖堂やサレッタ修道院からアリスの家の方にのびている。ルーがアリスの家に向かっていたのは確実なのに、つんできたはずのユリがまかれていない。犯人はルーの持っていたユリを、いつものように死体の周りに花をばらまくのに使わないで、わざわざ持ち去ったんだ。あのユリがサレッタ修道院にしか咲いてないことは有名なんでしょ?少しでも自分と接点ができることを恐れたんだろう、つまりジャック2世は修道院の中にいる。って、考えるのは自然なことだ」
沈黙が降りる。
ビアンカは顔をこわばらせてランをにらんでいたが、しばらくしてふと笑みをつくった。
「しょ、」
「証拠ならあるよ」
言葉を発することさえ許さないように、ランはすばやくさえぎった。ポケットに突っ込んでいた右手を出して、ビアンカの方に突き出す。その手には、
「……花びら?」
アオがつぶやくと、ビアンカの息をのむ音が聞こえた。
にこ、とランは笑みを浮かべる。
「暗いし、そこからじゃ色もよくわからないかな。黄色だよ。これはルーの死体が握りしめていたものだ。警察が調べれば、すぐにサレッタ修道院の黄色いユリと同じものだってわかるよね」
「! もしかしてラン、あの時……」
二人がルーの死体を見つけた時。アオが愕然としている間に、ランはルーに歩み寄り、その亡骸を抱きしめた。まさか、あの時に手に入れていたのか。
ランはアオに笑顔を向けて応えた。
(なんて抜け目ないんだ……)
驚嘆すると同時に、呆れる。
ランは手の花びらを自分の鼻に持ってきて、嗅ぐようなしぐさをして見せた。
「なかなか匂いが強いよね、このユリ。でも、人間の思い込みのほうがもっと強い。花の匂いと花が一緒にあれば、現場の凄惨さや強烈な血の匂いも手伝って、その花の匂いだろうって思うのは自然だ。死体の周りにまいた花が一種類じゃなかったってことも、いい効果だったと思うよ。まぁ、それはどちらかというと不可抗力だったんだろうけど」
アオは息を吸い込んだ。
「つまりシスターは、そのユリの匂いをごまかすために、今まで死体の周りにいろんな花をまいていたってこと?」
「……んー」
ランは初めて少し難しい顔をした。
「そうとも言えるけど。どちらかといえば、最初のドスイート・エレッヂ殺害のときにそうしたから、後の殺人でもそうしておいたってところだろうね……」
フアァ、とランは大きくあくびをした。「いつもならもう寝ている時間だ」と涙目で言うが、それにしたって緊張感に欠けている。
しかし、ビアンカがみじろいた一瞬で真顔になった。その強い視線に圧倒されてか、彼女は立ち上がりかけた格好で固まった。
「さて、どこまで話したっけ。……ああ、ドスイート以外の四人の関連性か。じゃあ話を続けよう。なんでシスターが、『金髪の隻眼の少年』を見つけては殺したかってことだけど」
そういう風に言われて、アオは思わずランの袖を取った。見れば、ビアンカも悔しそうにランを激しくにらみつけている。
金髪の、隻眼の、少年。
「ラン……」
「Si.」
アオに短く答えてから、ランはビアンカを見た。
「シスター。あんたがずっと探していたのは、オレだよ」
「どうして」
アオはランの袖を握り締める手に力を込めた。
なぜランが狙われていた? 本来ならランが殺されていたとでもいうのか?
ランはビアンカの方を見つめたまま。
「答えは簡単。オレが、最初のドスイート殺害の現場に居合わせたからだよ。って言っても、あの時は真っ暗で、オレには何も見えてやしなかったんだけどな。でもシスターからは、一つ目で金髪の子供が走っていくのが見えたんだろ。そして手当たり次第に目撃者殺しを始めた」
顔を歪めたまま惚けてしまって、アオはずるりと手を離した。
少し語り疲れたように、ランは両手を頭の後ろで組む。
「もとから、最初の殺人とその後のは話が別なんだ。ただ、殺し方やまかれた花がつなげてしまっただけ。全部が通り魔のせいってことになれば、動機や被害者の交友関係からは目がそらされるもんね。この前の切り裂きジャック事件がまだ記憶に新しい分、またかってことになる」
ビアンカが放心したように、ぺたりと木箱の上に座り込んだ。
「本当は、たった一度の殺人に目撃者殺しが積み重なっていったんだ。最初の一つの嘘をとりつくろうために、どんどん嘘を重ねていくみたいに」
ランの瞳に同情はない。
「もう少し詳しく言ってあげようか? あんたが本当に殺したかったのは、ドスイート一人だった。――彼は執拗なまでにあんたを口説いていた。どうせ道楽息子の気まぐれだろうけど、大修道院の修道女に手を出すなんて面白い趣味だよね」
一歩、ランはビアンカの方に踏み出した。うつむいている彼女の肩が、おびえるように揺れた。
「実際、あの修道院の腐り具合はオレたちもよく知ってるから、どうやってドスイートと会っていたのかとか夜中に抜け出していたのかとか、そんな説明は今さらだよね? そしてある晩、あんたはドスイートを外に呼び出した。恋人として」
ゆっくりと、ランはビアンカに歩み寄っていく。アオは追えずに突っ立ったままだ。後ろからランの顔をうかがうことはできなかったが、それでも彼が微笑していることはわかった。
「金持ちの色男が、女と会うのに手ぶらなわけないよね。想像するとすごく間抜けなんだけど、ドスイートはあんたのために花束を持ってきたんでしょ?」
ビアンカが顔を上げ、恐ろしい悪魔を見るような目でランを凝視した。
「あんたは、自分の世話しているユリが特に強いの強い種類だって自覚があった。普段から染みついてる匂いって、自分じゃ気にならないものだよ。でも、人殺しだもん、敏感になる。抱き合ったり、首を絞めているうちにユリの匂いが彼に移ってしまったかもしれない。横たわった死体を目の前にして、すごい恐怖だ」
フフ、と笑いがもれた。
「そこでとっさに、彼が持ってきた花をばらまいてごまかそうとした。死体を切り刻んだり目をくりぬいたりして、血の匂いも漂わせる。後の殺人も、通り魔の奇行に見せかけるために同じようにした。――ルーがユリを持っているのを見たときには、心臓の凍りつく思いがしたんじゃない?」
ビアンカは木箱の上へたりこんだまま、ぎゅっとこぶしをにぎりしめ、かろうじて笑顔をつくった。
「は……花びらなんて、なんの証拠にもならないわ。あのユリを世話しているのはあたしだけじゃないのよ」
近づいてくるランを、震えながら見上げる。
「だいたい、警察がモグラの言うことなんかきくもんか」
「じゃあ、そのコートの中のロープやナイフはどう説明する? 修道女がこんな夜中に修道院を抜け出してる理由は?」
ランの声はどこまでも冷え切っている。
「あんたは、さっきまでサレッタ修道院をうろうろしてたオレを見つけて、ここまで追ってきたんでしょ。せっかくどんくさく歩いてやったのに途中でオレのこと見失って、なんでかアオを襲おうしてたけど」
首をかしげ、一つため息をつく。
「オレがどうしてサレッタ修道院にいたかは、考えないわけ?」
「ど、どうしてって……」
ビアンカの顔が歪む。
ランは不思議と色めいた笑みを浮かべた。
「あんたが口説いてくるドスイートに悩んでいたこと、修道院のお姉さまがたはけっこう知ってたよ。時々夜中に抜け出してることに気づいてる人もいた。そうそう、中には、あんたがジャック2世かもしれないって疑ってる人も」
それから、屈託のない笑顔になる。
「こういうことは肉体に訊くのが一番、ってね。サービスしたらみんな色々教えてくれたよ。おかげで腰が痛いんだけど。警察には話しにくいことでも、モグラには口が軽くなるみたい」
一変し、また声音が冷たくなった。
「オレの手の中にはなくても、証拠なんか探せばいくらでも出てくる。他のシスターたちも感づいてるぐらいだ。もう通り魔ごっこは終わりだよ。諦めれば?」
月明かりのもと、ランがビアンカを見下ろす。彼女は呆然とランを仰いでいたが、やがて力なくうつむいた。――しかし。
「……あたしは悪くない!」
叫ぶと同時に立ち上がり、忍ばせていたナイフをランに向けた。帽子が落ち、隠れていた長い髪が乱れる。
「おっと、やっぱそう来る?」
振り回されるナイフを冷静によけ、ランは下がって彼女と間をとる。
「ラン!」
「アオは動くな」
蒼白になって駆け寄ろうとしたアオを、ランが厳しい声音で制した。
ビアンカはナイフを構えたまま、木箱から下りてランをにらみつける。
「ドスイートがいけないのよ。……あたしはね、そう、一年前まであんたたちみたいなどん底の生活をしていたわ。生きていくためならどんなことでもした。だけど修道院に拾われて、まともな暮らしを知って、あたしは生まれ変わったのよ。神に救われるはずだった。それを――あの男」
「なるほどね。あんたの過去をにぎって脅したわけか」
ランに驚きや同情といったものは一切ないが、ビアンカの声音は憤怒で震えている。瞳は燃え上がるようだ。
「やっと手に入れた幸せよ! なんで、あんなろくでなしに邪魔されなきゃいけないの。過去を修道院にばらされたくなかったら俺のものになれって……あたしはもう神にすべてをささげたのよ、そして救われるのよ。今さら、神を裏切れるはずないじゃない」
笑い損なったように顔をゆがめる。
「馬鹿な男。ちょっとその気があるようなそぶりを見せただけで舞い上がって。思い出しても気持ち悪い、嘗め回すようにあたしを見てた、にごったあいつの眼。だから、キレイにくりぬいてやったのよ!」
狂ったようにわめきながら、ビアンカはナイフを振りまわしてランに襲いかかった。
「ドスイートは悪人だわ。だから天罰を下してやった。それが、あたしに与えられた神からの使命。正義よ。あたしの安息を邪魔するやつらはみんなみんな、あんたもッ、消さなきゃいけない。あたしは間違ってない!」
「――うるさい」
ブシュッ、と嫌な音がして、ビアンカの動きが止まる。何が起こったのか、アオからはよく見えなくて目を凝らした。
ポタ、としずくが地面を打つ音。
アオは息を止めた。
ビアンカが振り下ろしたナイフの刃が、額の前に上げたランの左手の中にある。当然手の平が切れたのだろう、血が腕を伝ってひじからしたたっていた。
そのまま、二人は動かない。いや、ビアンカは必死にナイフを押したり引いたりしているようだが、ランが許さないのだ。そのうちにも傷はえぐれ、深くなっている。ランの左袖がみるみる染まっていった。
ランは顔を歪めることもせず、まっすぐにビアンカをにらみ上げていた。
「ラン!」
「こ、の……グッ」
荒い息遣いでナイフを引き抜こうとしていたビアンカの腹部に、ランの容赦ない蹴りが入った。そのまま彼女の身はふっ飛び、レンガ造りの塀にしたたかに背中を打ちつける。
ナイフは血まみれのランの手に残されていた。そしてその刃は、すばやくビアンカの喉元に突きつけられた。
「何が正義だって? あんたのエゴが?」
凍てついた声音。月明かりを背に、不思議な鋭い光を持った独つ目。
ビアンカの首筋を冷や汗が伝う。
「あんたがどんな神を信じようが正義を信じようが、別にどうでもいいんだよ。正義は他人に押しつけるもんじゃない」
ビアンカもアオも、凍りついたように動けない。
「シスター・ビアンカ。あんたはさっき、ドスイートを殺したのは当然の報いだって言ったよな? それなら、ルーたちを殺したあんたをオレが殺すのだって、道理なんだろ?」
ビアンカは大きく目をむき、呼吸を止めた。
ランの目がそうっと細められる。
「オレたちモグラは正義を知らないから、正しいことをする必要もない。あんたの正義なんかじゃ、オレたちは縛れないんだよ」
何のためらいもなく、ランは血に汚れたナイフを振り下ろす。
「や、やめ……うあぁ―――ッ」
「だめだ、ラン!」
断末魔のような悲鳴と怒声。そして。
ガッ、と。ナイフは、ビアンカのこめかみのすぐ横の壁に突き刺さっていた。
うまく呼吸できないまま、ビアンカは眼だけでそれを凝視する。
「……自分が傷つく覚悟もないくせに……」
血だらけの手でナイフの柄をつかんだまま、うつむいてランは奥歯をかんでいた。怒りと悔しさに震えた、小さなつぶやき。
ビアンカは魂が抜けてしまったように、力なくへなへなとへたり込む。
「ラン」
アオが金縛りから解放されて駆け寄ると、ランは壁に深く突き刺さったナイフを手放す。
「シスター、あんたの神は誰一人救えない」
聞こえていないのか、ビアンカは唖然とした表情で座り込んだまま、もう動かなかった。
「ラン……」
何といって言いかわからずアオが立ち尽くすと、ランはいつものような柔らかな笑みで振り向いた。けれど少し、やりきれなさを含んで。
「切り裂きジャック2世は消えたよ、アオ。もう、誰も殺されたりしない」
「……うん」
アオも切なさを添えて微笑む。
死んだ者は帰ってこない。
失われた温もりは戻ってこない。
昨日を殺して、朝はやってくる。




