3 Rincorrer-2
翌朝、モグラ仲間たちはまったく普段どおり、それぞれの仕事に出かけていった。
ランは朝から妙に上機嫌で、はたから見ているアオが気持ち悪く思うぐらいである。昨日の昼間は何をしていたのかといくら聞いても、にっこりとした笑みではぐらかされてしまう。
そしてキューレ大聖堂に着き、それぞれの持ち場に分かれようという時に、ランは「そうそう」と今思い出したかのように言った。
「アオ、今日は日が沈む前に、先にモグラ穴に帰ってて。今夜はアルディアさんに呼ばれてないよな?」
「うん……え、でもランは?」
「ちょっと野暮用。昨日より遅くなるかもだけど、心配しないでねっ、ダーリン」
チュッ、と投げキッスを飛ばし、ウインクまでしてきた。気持ち悪いを通り越して心配になってくる。
ランは掃除道具の入ったバケツを担いで、持ち場の方へと駆け出す。
「ラン、」
「ジャック2世に気をつけて!」
バケツを持った手を高く掲げ、振り向きざまに一言元気よく言って、引き止める間もなくランは行ってしまった。
仕事を終え、日がだいぶ西に傾いたころ、アオはランに言われたとおり一人で大聖堂を出た。そのまま素直に土竜の穴を目指したが、途中ではたと立ち止まる。
そういえば、アルディアに借りていたハンカチーフを一つだめにしてしまった。怪我をしたルーに預けたのだが、あれからどうなったのだろう。殺されたとき、ルーはまだ持っていたのだろうか。
(とりあえず、返せなくなっちゃったのは確かだな……)
くる、とつま先の向きを変える。アルディアに一言詫びを言っておかなくては。
(あ、でも)
ランには、先にモグラ穴に帰っていろと言われた。
人の多い夕方のポロッツォ通りにつっ立ったまま、アオはしばらく考え込んだ。
そして結局、アルディアの屋敷の方向へ歩き出す。謝るなら早いほうがいい。それに実のところ、ホームズシリーズの最新刊の続きが気になっていたのだった。少し読んで、遅くならないうちに帰れば問題ないだろう。ランも帰りが遅いというのだから、その前に帰っていれば。
アオは足早にアルディアの屋敷に向かった。
アルディアの屋敷の書斎は、ドアと窓以外のすべての四方が本で埋まっている。高い天井まで本棚が伸びているので、上の本を取るには脚立に上らなければならない。
本棚のほかには、机とイスがぽんと置いてあるだけ。絨毯やカーテンなどの小物も高価なものだ。読書好きのための贅沢な部屋である。
その机の上にも難しげな本が山積みだったので、アオはイスに座りひざに本を置いてホームズを読みふけっていた。
そしてちょうど最後のページを読み終えたタイミングで、コンコンコン、とドアがノックされた。光沢のある木製のドアの向こうから現れたのは、屋敷の主であるアルディア夫人だった。
「お茶のおかわりいるかしら、アオ」
彼女の手のトレーの上には、香り高い湯気を上げるティーカップが二つ。
パタン、とアオは本を閉じた。
「すみません、いただきます」
「あら、もう読み終わったの?」
「おもしろかったですよ。ありがとうございます」
カップを両手で取り、ふぅふうと息を吹きかける。それから、アオはそっと口をつけた。
その仕草を満足げに眺めながら、アルディアは華やかな声音で苦笑する。
「ところで、アオ? 今日は暗くなる前に帰るんじゃなかったの?」
「えっ? ……あっ」
にごったような悲鳴を上げ、アオは盛大に顔を歪める。窓の外はすでに真っ暗であった。
本に夢中になりすぎた。
「まいったな」
「面白いものを読み出したら、気が済むまで閉じないものね。アオは」
ふふ、と笑いながら、アルディアは座ったままのアオを後ろから抱きしめた。耳元に口づけ、冷たい指先を彼のあごや頬に這わす。
「ねぇ、もう遅いし危ないわ。……泊まっていってくれるでしょう?」
アオは眉を下げなら微笑する。
「今日はランに言わないで来たから、帰らないと」
「こんな時間に出歩くのは危ないわ。ジャックはまだ捕まっていないのよ」
ぱく、と耳をくわえられた。熱い吐息を感じる。
「ごめんなさい、アルディアさん」
甘えたような声音。だがはっきりと言うと、アルディアのしなやかな腕が離れる。
「……仕方ないわね。でも本当に危ないから、馬車で送らせるわ」
「ありがとうございます」
アオは微笑んだ。厚意は素直に受け取る。
ほとんど空になったカップをトレーに戻したとき、ふとアオは、机に山積みになった本の一番上の一冊に目を取られた。
「――あれ」
まだそんなに古くないらしい、かわいい装飾のついたその本を手に取る。
「グリム童話集なんてあったんですね」
哲学書や大人向けの小説が多いアルディアの書斎の中には、少し似つかわしくない。
「え、ええ。昨日、ちょっと久しぶりに読みたくなって上の本棚から出したのよ。かわいい本でしょう?」
アルディアは少し取りつくろうような声音で言った。恥ずかしいのか。
「はい。懐かしいですね。昔、よくランと一緒に読んだっけ……」
アオは笑顔で答え、パラパラとページをめくって眺めた。
「ヘンゼルとグレーテル」、「赤ずきん」、「ブレーメンの音楽隊」、「白雪姫」に「いばら姫」。子供向けらしく、中には挿絵もある。
思い出して、アオは思わずクスッと笑った。
「ランの好みって妙なんですよ。いばら姫と白雪姫ばっかり読んでほしがるんですけど、せっかく王子が登場したっていうところで、もういいって言うんです。キスで目覚めるっていうのが納得いかないのかな」
フフフ、とアオは本に向かったままで微笑む。
アルディアはそれを聞いて、笑わずに目を丸くしていた。それから腕を組み、妙に静かな声音で尋ねる。
「ねぇ、アオ?」
「はい」
アオが上機嫌で顔を上げたので、アルディアも口元を微笑ませた。
「そうすれば目覚めると知っていても、あなたは白雪姫にキスをする?」
「? はい。そうしなきゃ、めでたしめでたしにならないじゃないですか」
素直な答え。
アルディアは微笑した。どこか大人びた苦さを含んで。
アオは童話集を閉じ、また本の山の上に戻した。
「この本、今度借りていいですか? またランに白雪姫とか読んでやりたいんで」
仔犬のようにはしゃぐランを想像したとたん、ふっと一筋の不安が胸をよぎった。できればルーにも読んでやりたかった、と思ったのがいけなかったのかもしれない。
今、ランがどこで何をしているかわからないということが、巨大な黒い渦となってアオの胸をざわつかせた。
外は暗い。もしかしたら今頃、この瞬間にだって、ランもルーのように――
本の上に置いた指先が、カタと震える。そばにあったカバンをさっと肩にかけ、立ち上がった。
「……すみません、アルディアさん。僕、もう帰ります」
「え? ちょっとアオ、顔が真っ青よ。どうしたの」
顔色を変えたアオに、アルディアも驚いたように瞬く。
「また来ます!」
たまらなくなって、アオは書斎を飛び出していた。
「アオ!」
後ろでアルディアが叫んだが、アオにはもう聞こえていなかった。
ランはどこにいるのだろう。
どうして今朝、今夜遅くなるというランにきちんと事情を聞かなかったのだろう。
昨日だって一日、彼がどこにいたのかアオは知らない。
なぜ今、隣にランがいないのだろう。
また一緒にいられるという保証なんか、どこにもないのに。
アオは一度モグラ穴に帰り、ランがまだ帰っていないことを確認するとまた飛び出してきた。暗い通りを、息を切らしながら走る。
「ラン」
名前を呼びながら道を行く。
心当たりを端から尋ねて回ったが、どこにも彼の姿はない。
キューレ大聖堂の礼拝堂、裏庭。ポロッツォ通りの噴水広場に、モグラの溜まり場となっている袋小路。出くわしたモグラ仲間に聞いても、首を横に振られた。
(……まさか)
そんな馬鹿なことはない、と思う。縄張りでもないのに、わざわざ行く必要はない。あんな危険なところへ、こんな夜遅くに。
キューレ大聖堂の表門の前に立ち尽くして、アオは動けなくなる。
真っ暗な町並みに、ちらほらと街娼と土竜の児たちの姿。いつもなら、アオはこんな時間に一人で外に出ない。隣にはいつも、ランがいるはずだった。
(――行こう)
意を決し、アオは顔を上げた。そして駆け出す。
向かう先はさらなる闇、カルズ通りだ。
*
『主よ、我を救いたまえ。このように泣き暮らす日々はもううんざりなのです』
よろしいでしょうと主はおっしゃる。
子羊は両目をつぶされ、二度と泣けなくなった。




