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2   Profumo -2




 今日もキューレ大聖堂の朝の鐘が響く。アオは仕事に向かうため、アルディアの屋敷の使用人用の裏門から出た。


「おはよ、アオ」

「ラン?」


 驚いたことに、門の脇にランが座り込んでいた。アオがアルディアの屋敷に泊まることはよくあることだが、ランが迎えに来るのはこれが初めてである。いつもは大聖堂の入り口でおちあうのだが。


「どうしたの、珍しい」

「んー、ちょっと心配だったから」


 立ち上がるランは、少し疲れているように見える。昨晩あまり眠っていないのだろうか。


「心配って? あの通り魔のこと?」


 うん、とランはうつむいて弱々しく微笑む。


「実はさ、夕べもまた出たんだよね」

「知ってる。アルディアさんの屋敷の人が見てきたって」

「……殺されたやつ、モグラなんだ。オレたちの仲間の奴じゃないから、アオは会ったことないと思うけど。カルズ通りを縄張りにしてる奴らのリーダーでさ、オレたちとも結構付き合いがあったんだよ。いい奴だった」


 いつになく静かなランの言葉に、アオは無言で立ち尽くした。見知らぬモグラでも仲間は仲間で、初めて犯人に怒りを覚えた。身元がすぐに分からない、というのもモグラなら当然だ。モグラに身元などないのだから。


 アオは口元だけ微笑ませた。


「それで、心配して迎えに来てくれたんだ」


 ランもやっとアオの方を見て笑った。


「次も夜中に出るとは限らないから。ここから大聖堂に行くにはカルズ通りを通るし」

「ありがとう。でも、ランがこんなところに一人でいるのも危ないよ」


 ランはにっこりするだけで答えなかった。そうやってすぐごまかす、と思いながら、アオはため息をついた。


 アルディアの屋敷からキューレ大聖堂までは、カルズ通りを上っていかなくてはならない。カルズ通りは大きな通りだが、わき道が入り組んでいて狭い袋小路も多くあり、ミレーノの中央部にありながら治安はすこぶる悪い。普段なら、夕方になれば街娼や少年たちが目をぎらぎらさせて街角に立つ。だが今は、衝撃的な連続通り魔殺人事件の中心地ということもあって、一日中警察がうろうろしている。それでも死角があって殺人が繰り返されるのだ。


 警察に囲まれるのは気分が悪いから、アオとランはあえて細い裏道を使ってキューレ大聖堂を目指した。


「通り魔って怖いな」


 つぶやくようにアオが言う。


「モグラが殺されたってことはさ、殺す目的とか理由とか本当にないんだね。目に付いたからってだけなんだ」

「アオは今まで、切り裂きジャック2世の殺人には何か目的とか理由があると思ってた?」

「そういうわけじゃないけど。被害者に何か共通点でもあるのかなって」

「シャーロック・ホームズの読みすぎじゃない?」


 からかうように言ったランに、アオはギクッとした。


 ホームズシリーズはアオの愛読書の一つで、いつもアルディアに借りて読んでいる。せがまれればランやモグラ仲間たちにも読み聞かせている。そして昨晩も、アルディアの書斎で一番新しいものを深夜まで読みふけっていたのだ。


「面白かった?」


 すべてお見通しらしいランの笑顔。


「………まだ途中までしか読んでないよ」

「そ。じゃあ、面白かったら後でオレにも読んでね」


 わかった、とため息混じりに答えて、ふとアオは通りの奥に見知った人影を見つけた。狭い裏道に面した家の、一階の窓枠に、精一杯背伸びをして腕を乗せている金髪の少年。


「ルーだ」

「ん? あ、本当だ。何してんだろ、あいつ」


 足を止めずにアオたちはそちらに近づいていって、ルーがいつになく嬉しそうな表情をしているのを知った。聞こえてくる声も弾むようだ。どうやら、窓から家の中の誰かと会話しているらしい。親しげである。


「誰と話しているんだろう、あんなところで」


 アオには、アルディア以外このあたりに知り合いなどいない。ルーだって、この周辺は彼の縄張りからはずれているだろう。


 小首をかしげるアオの隣で、ランは何か思い出したようにつぶやく。


「ああ、確かあそこって……」


 そのとき、窓の奥と夢中で会話していたルーが、やっとこちらに気づいたらしくぎょっとした。


「ぎゃっ、ランの兄貴、それにアオの兄貴まで! ど、どうしてこんなところにいるっスかっ?」

「オレらはまじめに仕事に行く途中だよん」

「ルーこそ、こんなところで何してるの?」


 尋ねながら、アオはちらっと窓をのぞいてみる。それはレースのカーテンがつけられたかわいい窓で、中の部屋も花をモチーフにした小物の多いきれいな部屋だった。そして窓辺には、部屋の主らしい小さな女の子がきょとんとした顔でイスに座っている。


「お兄ちゃんたち、だぁれ? ルーのお友達?」


 大きな目をぱちくりとさせながら、少女はアオを見つめた。するとすかさず、アオの後ろにいたランが明るく彼女をのぞき込む。


「やっほー、アリスちゃん、オレのこと忘れちゃった?」

「……あっ、えと、ラン!」


 そうだよ、と答えるランに、アリスという名らしい少女は目を輝かせた。


「わぁ、ルー、今日は友達たくさんだね。ねぇねぇ、お兄ちゃんのお名前は?」


 頬を紅潮させながら、アリスはアオの袖をぐいぐいと引っ張った。アオはとりあえず子供向けの笑顔をつくる。


「僕はアオ。君の名前は、アリスちゃん?」

「そうだよっ。わたし、アリス。この子はお友達のロッテ」


 そう言って、アリスは抱いていた白ウサギのぬいぐるみを見せた。


 かわいいなー、とランがアリスの頭をなでる。昔から、子供の扱いはアオよりランの方がずっとうまい。


 アオは声音を小さくして、まだ落ち着かない顔つきのルーにそっと尋ねた。


「今朝の仕事はいいの?」

「うっ、えーっと、もう行かなきゃなんスけど……」

「ルー、もう行っちゃうのっ?」


 耳ざとく聞きつけて、アリスが顔いっぱいに不満を表した。ルーも複雑そうな顔で彼女をたしなめる。


「しかたないだろ。仕事なんだから」

「………うん」


 アリスは大きな瞳に涙をいっぱいにためて、ロッテをぎゅっと抱きしめて頷いた。ロッテはどこか間抜けな笑顔をしている。


「じゃあ僕たちも行こうか、ラン」

「おう」

「……っ、う」


 その会話でまたアリスの顔が大きく崩れたが、なんとか涙をこらえている。


 ルーは心配そうに彼女に見つめ、それから思い切ったように窓から離れた。


「じゃーなっ、アリス。おいらのことはちゃんと秘密にしておくんだぞ」

「う、ん」


 アリスは必死の形相でぎこちなく頷く。


「約束破ったら、もう来ないからな」

「大丈夫だよ。アリス、ちゃんと約束守るもん。その代わり、絶対明日も来てね、ルー」

「わかってらい。そんじゃあなっ」


 ルーは小走りで行ってしまう。その後ろをアオたちも追った。


 バイバイ、とアリスはロッテの手をとって、ルーに忙しく手を振っている。それから、お兄ちゃんたちもバイバイ、とアオやランへの挨拶も忘れない。


 ばいばーい、とランが明るく返して、アリスの手は見えなくなった。


 入り組んだ裏道をきゅっと曲がると、ルーは一息ついたように足を緩めた。


「かわいい子だね」


 アオが後ろから言うと、ルーはにこぉっとして肩越しに振り返る。


「どうもっス」


 つられてアオの頬も緩んだ。


「あんな小さな恋人がいるなんて、ルーもすみにおけないな」


 しかし今度は、ルーは微妙な顔をした。笑っているが、少し困ったような。すると隣のランがびっくりしたように言う。


「へ? 何言ってんだ、アオ。アリスはルーの妹だよ」

「え。……えぇっ?」


 アオは目を丸くしてルーを見やる。ルーはやはり困ったような笑顔だった。


「いやいや、わからなくて当然っス。あんなかわいいお嬢様がモグラっ子の妹だなんて、普通考えないっスよね。そんなに似ているわけでもないし」

「そっかぁ? そっくりだと思うけど」


 言われてみてよく見れば、目が大きくくりっとしているところなどが確かに似ていた…気もする。


 アオが何と返せばいいのやら言葉を探していると、ルーはそれを察したように道を行くがてら語った。


「おいらとアリス、母親が違うんス。おいらは愛人の子ってやつで、アリスは本妻の子。だからおいらは父ちゃんと会ったこともないし、母ちゃんが死んでからはモグラっ子になるしかなかったんス。でも、おいらなんかが新聞屋で雇ってもらえたのは、父ちゃんがクチきいてくれたかららしいんスけどね」


 それからルーは、少し大人びた寂しそうな笑みで二人を振り返った。


「兄貴たち、お願いっスから、このことはアリスに言わないでほしいっス」

「……え? じゃあ、あの子は」


 表情をなくすアオに、ルーは目を細めた。


「知らないんス、おいらが血のつながった兄ちゃんだってこと。……あいつはもうずっと体が弱くて、しかも母ちゃんが過保護なもんだから、一日中あの部屋から出られないでいるっス。だからおいら、せめて話し相手になれたらって」


 どうして兄だと名乗らないの、とは訊けなかった。


 ルーも子供ながらに、大人の汚さや世間の厳しさは充分わかっているのだ。十歳やそこらの子供が知らなくていいはずのことまで、知っている。そしてその小さな頭で考えて悩んで、生きている。


 今さらアオが口を出すことなどない。


 アオは微笑んで、ルーのくるくるとした髪をなでた。


「わかった。言わないよ、秘密にする」

「ありがとっス」


 へへ、とルーも笑った。


「でもさぁ、すぐにばれるんじゃないか? 誰が見たって、ルーとアリスは兄妹だろ」


 頭の後ろに腕を組むランを見て、ルーは苦笑する。


「ランの兄貴には一発で当てられてビビったっス」

「だから、普通わかるって」


 わからないだろ、とアオは心のうちで反論した。


(ランは妙なところで鋭い……)


 昔からそうだったろうか、とアオは考え込む。その隣で、ランは何を思ったか突然ルーを抱き寄せ、クンクンと鼻を鳴らした。


「わわっ、どうしたっスか?」

「んー、何かさっきから変な匂いがするなぁと思って。やっぱりルーから匂ってきてる」

「へッ?」

「何言ってるんだよ、ラン」


 ろくに風呂にも入らず洗濯もしないのだから、土竜の児が多少匂うのは当然である。アオは呆れたが、ランはムウッと拗ねた。


「本当だって。ちょっとどっかで嗅いだ覚えのある匂い」


 いぶかしみながらアオもルーに鼻を近づける。すると、かすかだが確かに。


「少し…甘い香りがするね。花、かな」


 ルーは難しい顔をしながら首をひねっていたが、やがて合点がいったらしかった。


「ああ、今朝早く、サレッタ修道院に新聞配達に行ってきたんス。そしたら黄色いユリがたっくさん咲いてて、むせ返っちゃうくらいっスよ」


 サレッタ修道院はキューレ大聖堂の裏にある。アオにも顔なじみの修道女や修道士が何人かいるが、実際に修道院に踏み込んだことはなかった。彼らに会うのは、いつも大聖堂の裏庭だ。


「その中を突っ切ってきたから、きっと匂いが移ったんスね」

「ユリは匂いが強いものが多いからね」


 植物学者であった父のおかげで、植物に関する知識はある。だが、アオ自身は植物に大して興味はない。


「それが、最近外国から入ってきたばっかりで、特に匂いの強い種類らしいっス。この辺じゃあそこにしか咲いてないから、昼間は一般公開してて見に来る人も多いって。兄貴たちも行ってみるといいっスよ。匂いはきついけどきれいっスから」


 そのユリがよほど気に入ったのか、ルーは少女のように笑った。その笑顔を見たときやっと、ルーとアリスは確かに兄妹だ、とアオは納得したのだった。




 昼前。アルディアは屋敷の庭に下りて、気に入りのピンクのバラの花を眺めていた。


 バラたちは、アルディアが手ずから世話をしてきただけあって、きれいに咲きそろった。


 今度あの黒猫がやってくるときにでも、寝室に飾っておこうか。アオは自分を喜ばせることがうまいから、きっと美しい花に気づいてくれることだろう。ベッドに横たわってバラを眺めているアオを想像すると、自然と笑みがこぼれてしまう。彼は本当に猫のようだから。


 アルディアが鼻歌交じりにバラを眺めていると、ふいに庭の隅の茂みがごそごそと揺れた。最初は風か野良猫かと思ったが、どうやら違うらしい。――何か、いる。


 察した瞬間に緊張が走る。周囲には使用人の姿もない。大声を上げて誰かを呼ぼうか。しかし…


 迷っている間にも、茂みの奥からそれが近づいてくるのがわかった。


 息を呑む。足が、動かない。


 ガサガサッ、とひときわ大きく茂みがゆれ、何かが飛び出してきた。


「きゃあっ」

Ciaoチャオ! アルディアさん」


 茂みの下から引っかき傷だらけの顔をのぞかせたのは、金髪独眼の美少年。


「ラン……!」

「あ、ごめん、もしかしてびっくりさせた?」


 ランはヘヘヘ、とごまかすように笑う。それからずりずりと茂みから全身を引っ張り出した。もともと古かった彼の服は、あちこちに泥と葉をつけていっそうみずぼらしくなっていた。


 だがしかし、土ぼこりを軽くたたいて立ち上がったランの左の瞳は、変わらず宝玉のように美しい。


「まぁ、ラン、普通に裏の門を通ってくればいいのに」

「こっちの方が近いと思ったんだ」

「……アオは?」

「まじめにお仕事中」


 悪びれずに彼は言う。


 アルディアはなかば呆れ、だがランらしいと笑ってしまいながら、改めて尋ねた。


「それで? あなたが一人でわたしのところへ来るなんて、どういう風の吹き回しかしら」

「ちょっと、お願いがあって」


 ランは左目を細めて微笑んだ。猫にも似た妖しさを秘めて。




* *

       


 夕暮れになって、仕事を終えたアオは礼拝堂のイスに座り、読みかけの本を読んでいた。こうしてランの仕事が終わるのを待つのが、アオの日課である。アオがアルディアの家に行かない日は、決まってここで落ち合い、ねぐらへ帰るのだ。


 キューレ大聖堂の礼拝堂は、やはりミレーノで一番大きいとされるものである。正面には祭壇があり、巨大なキリスト像が掲げられ、奥のステンドグラスも壮大なものだ。わきのパイプオルガンも相当歴史あるものらしく、普通の礼拝者は触れることさえ許可されていない。


 四方の壁と天井にかけての装飾画も有名なもので、たくさんの天使が飛び交い、祝福と救済とが描かれている。


 礼拝堂にはアオの他にも何人か人がいたが、静寂が保たれていた。


 この静けさの中で本を読むときが、アオの好きな時間の一つだった。心の底から落ち着く。


 同じ礼拝堂でも、休日の賑やかな時やミサの時になれば、がらりと雰囲気が変わる。パイプオルガンの音は好きではない。それよりも、ステンドグラスを通って夕日色が揺らめき、音のない音を奏でている今の時間帯が、とても好きだなと思う。


 パラ、と本のページをめくる。他の人もアオと同じように読書にふけっているらしく、耳を澄ませばかすかな紙のこすれる音がある。それがこの上なく心地よい。


 アオは、満たされた気持ちで本を読み進めた。


 が。


「アーオっ、お待たせ!」


 突然耳元で元気よく言われ、思わず飛び上がった。


「ラン……! いきなり大声出すなよ」

「ごめんごめーん」


 まったく反省していない様子でランは笑う。そして楽しげにアオの本をのぞき込んだ。


「何読んでんの?」

「……残念でした。ホームズじゃないよ」

「わかってるよ。だから何って聞いてるのに」


 ランは子供っぽくむくれた。


(あれ? ホームズだと思って寄ってきたんじゃないのか)


 今朝、ホームズが読みかけだと話しておいたから、そうだと思ったかと考えたのだが。


 シャーロック・ホームズシリーズは他と違ってアルディアも気に入っているから、新しいものは屋敷の外へ持ち出させてくれず、読むには彼女のもとに通うしかないのだ。いや、もしかすればアルディアは、むしろそれを狙って持ち出し禁止にしているのかもしれないが。


「詩集だよ。またアルディアさんがくれたんだ」

「へー、どういうの?」

「退廃的な感じ」

「たとえば?」


 ランはアオの肩にあごをおいて甘えるように言った。仕方ないなという顔で、アオは目の前の一節を読み上げる。


「『愛しい人よ、僕を殺す君の顔が見てみたい』」


 ランは難しい顔をしている。


「………どういう意味?」

「そのままだろ。薄っぺらい詩だよ」

「ふぅん」


 アオはパタンと本を閉じ、カバンにしまいながら立ち上がった。


「読み終わったらいつものところへ売りに行くよ。いくらになるかな」


 アルディアさんには悪いけど、と一応付け足すが、きっと本人もそのつもりでアオに譲ってくれているのだろうと思っている。




 二人は連れ立って大聖堂を後にし、通称『土竜もぐらの穴』と呼ばれる地下水路への階段を目指して歩いた。


 『土竜の穴』はミレーノの街にいくつか点在し、それぞれのモグラ仲間の縄張りの中心となっている。アオやランたちの穴は、ポロッツォ通りの外れにあり、落ち着いていて比較的治安もいい区域であった。


 住宅街を抜けて、倉庫ばかりが密集しているところに出ると、すぐ横にはケリーナ川がゆうゆうと流れている。その橋のそばに、アオたちのモグラ穴はある。


「あれ、こんな時間に見張りが出てる」


 地下へ続く階段の入り口に、小柄な少年がひざを抱えてうずくまっているのを見つけ、アオが不思議そうにつぶやいた。


「切り裂きジャック2世さんとやらで、物騒だからねぇ」

「だからって、あんなところに一人でいる方が危ないってば。おーい」


 アオは小走りで少年に駆け寄った。ランもそれに付き合う。


「……ルー?」


 ひざを両手でくるみ、ぎゅっと体を小さくしているのは、新聞売りのルーであった。


「ルー、一人で見張りしてたの? 危ないよ。見張りは二人以上でやるのが決まりだろう」


 アオが覗き込もうとすると、ルーは無言でさらに顔をうつむけた。


「ルー? どうしたの」


 どこか具合でも悪いのかとアオが首をかしげた瞬間、


「……ルーっ!」


 突然後ろにいたランが怒鳴り、ルーにつかみかかった。細い両腕をつかみ、無理やり顔を上げさせようとする。だが、ルーは必死に抵抗した。


 いつも呑気なランの慌てぶりに、アオはしばし呆気にとられたが、自分の足元にあるものに気づいて青ざめた。ねずみ色に塗装された地面に、まだ真新しい赤い染み。――血痕だ。


「ルー、怪我を!」

「見せてみろって、早く」


 ルーはじたばたと抵抗したが、しょせん力ではランに敵わない。とうとう力ずくで両手を広げさせられて、ルーはばつが悪そうにうつむき加減で顔をさらした。


 アオとランは一瞬言葉を失う。ルーの右目から下が、不吉な血色で染まっていた。


「右目っ、どうしたんだ」

「たいした傷じゃないっス……でも血だらけで、おいら、どうしたらいいかわからなくて…」


 混乱しているのか、力なくルーは笑った。


「そっとまぶた閉じて、じっとしてろ」


 ランはルーの頭をしっかりとつかみ、血だらけの彼の右まぶたを丁寧になめていった。アオは息を呑んで見守るしかない。


 やがて半分乾いていた血がなめとられ、傷口が確認できた。幸いにも、傷は眼球ではなくまぶたの方で、傷自体もそんなに深くない。もう一つ、頬の方にも傷があり、こちらのほうが深くて、流れ出た血がつながって大怪我に見えていただけのようだった。


 ほ…とランとアオは息をつく。


「大丈夫だ。血もほとんど止まってる。驚かせやがって」

「大事はなさそうだね」


 アオはカバンからハンカチーフを取り出すと、鉄柵を乗り越えはしごを降りてケリーナ川に降り、水面にひたしてぬらした。それを軽く絞って持ってくると、ルーの顔を優しく拭いてやる。ハンカチーフはアルディアに借りていたものだったが、この際気にしていられない。


 血をぬぐってやってよく見れば、ルーの顔はあざだらけだった。


「冷やしておくといいよ。傷が熱をもつかもしれない。右目は開けないようにして。また血が出て目に入ったらよくないから」

「ありがとっス。兄貴」


 ルーも安心したらしく、へら、と笑う。


「んで? 誰にやられた」


 立ち上がったランが腕を組み、厳しい表情で問う。


「だいぶ悪質だな。……大人か?」


 ルーは座り込んだままうつむいた。


「おいらが悪かったんス。………明日はアリスの誕生日だから。それで……」


 ランはクン、と鼻を鳴らしてから、気づいたように呆れ顔になった。


「盗もうとしたのか」


 こく、とルーは頷く。

 アオはひざを折って、ルーの頬や肩についた泥を払ってやった。


「だからってひどいな。ここまですることはないのに。いったい何を盗もうとしたの? ルー」

「それは……えっと」


 ルーは言いづらそうに口ごもる。下を向いてばかりの小さな頭を、ランががしがしと乱暴になでた。


「次はヘマすんなよ、ルー。かわいい子のためなら神さまだって大目に見てくれるさ」


 ルーはきょとんとしてランを見上げ、それから傷だらけの顔で大きく笑った。


「あっ、そうっス!」


 何を思いついたのか、ルーは楽しげに濡れたハンカチーフを広げる。それから細長くたたみ、傷ついた右目を隠して眼帯のように巻いた。


「ああ、そうしておくといいね」


 アオが賛成すると、ルーは嬉しそうにヘヘヘ、と笑う。


「おそろいっスね、ランの兄貴」


 にこやかに言われてランは目を丸くしたが、まんざらでもなさそうに「そうだな」と微笑んだ。





        *




 どうして、どうして、どうして。


 そればかりを繰り返し心で叫んで、夜闇を走り続ける。


 どうして、どうして、どうして。


 恐怖のせいなのか、うまく息ができない。必死で走っているつもりなのに、足が思い通り動いてくれない。恐ろしくて恐ろしくて、両腕の中のものをぎゅっと抱きしめた。


 鼻を突く甘い香り。むせ返るほどの――


(どうして)


 足の下から地面が消えた。


 どうしてなの、神さま。


 暗闇の中に、花が散らばる。ぽた、と地を打った涙は、やがて血だまりにのみこまれていった。



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