2 Profumo
もう何年前のことだったかは忘れた。けれどアオは、あのときの不思議な光景は今も鮮明に覚えている。
あれは、医者であり植物学者でもあった父の研究のために、ロンディウムの都からニレ村の屋敷へ移り住んで間もないころ。
ニレ村は山あいにある小さな村で、山の傾斜地には畑がぽつぽつとあり、トウモロコシやブドウの木が育てられていた。少し広くなっているところでは、放牧されている山羊や牛などがのんびりと草を食べている。村人はみな穏やかで、子供たちの明るい笑い声が絶える日はない。山からはきこりが木を打つ音が響く。
田舎ではあったが、それが都会育ちのアオには逆に新鮮だった。
しかし、アオの屋敷は村はずれの丘の上にあったから、村の子供と遊ぶには森を通っていかなくてはならなかった。それまでロンディウムという大都市の、それも上流層が住む区域に暮らしていたアオは、一人で森を抜ける勇気がなかった。また家庭教師の目を盗むことも至難の業であった。
しかたなく、広い庭で小鹿と戯れて気を紛らわせる日々が続いたが、遊び相手のいない寂しさは募るばかりだった。
それからしばらくしての、穏やかな春らしい日だった。屋敷のみんなも少し眠たげで、監視役を兼ねる家庭教師が居眠りしている間に、アオはそっと外に出た。春の陽気や、せっかく監視役を出し抜いたのだからという気持ちもあって、少し興奮気味だったのだと思う。少し冒険してやろう、という気になって、仲良しの小鹿のヴィズを連れて森に入った。
アオの部屋からは村が一望できたから、いつも広場で子供たちが遊んでいるのを知っていた。アオは仲間に入れて欲しくて仕方がなかった。一緒に遊んでくれる友達が欲しくて、仕方がなかったのだ。
森は思っていたよりも暖かく明るかった。草木の匂いが濃く香って、緑色の柔らかな光があふれて。アオはわくわくしながらヴィズと歩みを進めたが、いくらも行かないうちに足が止まった。多分、息も止めていたと思う。
他より一回り大きな樹の根元に、金髪の子供がいた。苔むした幹を背にうずくまり、自分の血だらけの腕や足を舐めていた。うつむいていて顔はよく見えないが、色素の薄い白い肌に、鮮やかな血の赤。陽の光にきらきらと反射する金色の髪。そして夢のような春の森が、アオの全身を支配した。
陽だまりに座り込んで傷を舐めている金髪の子供を、人間だとは思えなかった。迷子になった天使か、そうでなかったら森の小鹿が化けているんじゃないかと、アオは本気で考えた。
そんなことばかりが頭の中をぐるぐる回って、アオは指一本動かせずに突っ立っていた。だが何か気配を感じたのか、金髪の少年はハッとしたようにこちらを振り向いた。そのしぐさは本当に森の小動物のようだった。
振り返った顔を見て、アオは彼が泣いていたことを知った。
少年は濡れた薄茶色の両目を丸くして、アオを凝視している。きっとそれまでのアオと同じ表情だろう。彼は少し少女めいた、とても整った顔立ちをしていた。
少年に気づかれたことで止まっていた時間が動き始め、アオのほうは少しわたわたとしながら、やっと尋ねた。
「け……けがしてるの…?」
返事はない。金髪の彼は、ただ驚いたように瞬きを繰り返している。それからほんの少しだけ唇が動いて、だれ、とつぶやいたようだった。
「ちょ、ちょっと待ってて!」
怪我をしているなら手当てしなくては。ようやく頭が回転してきて、アオはきびすを返して屋敷に向かう。小鹿のヴィズに「ここにいてね」と言いつけてから、急いで救急箱を取りに戻った。
眠りこけていた女中を叩き起こし、有無を言わさず救急箱を出してもらって、大急ぎでアオは戻ってきた。早くしないと金髪の天使はいなくなってしまう気がして、緑の道をとにかく走った。
果たして、少年はヴィズや他の森の動物たちと一緒にそこにとどまっていた。アオはほっとし、それから彼が涙の痕をきれいにぬぐいさっていることに驚いた。
ロンディウムで医者をやっていた父のやりかたの思い出しながら、アオは何とか少年の手当てをした。嫌がるかなとも思ったが、少年は大人しく、包帯の巻かれていく自分の腕や足を見つめていた。
傷はほとんどが切り傷だった。何か鋭い物で切りつけられたような――そして、似たような傷跡は少年の体中にあった。それから、無数のアザも。
どういうわけでついた傷なのか、どうして一人でこんなところで泣いていたのか。尋ねていいものか、手当てしながらアオは悩んだ。幼いながらにも、興味本位で気軽に訊いてはいけないと感じた。
「オレ、お金払えない……」
ぽそっと、消え入りそうな声で少年がつぶやいた。
「えっ、いいよ、そんなのっ」
初めて少年の声を聞いたことにどきどきしながら、アオは激しく首を振った。それから、ふと思い至って、おずおずと言った。
「……お金なんていらないから。その代わり、よかったら、僕の友達になってよ」
金髪の少年はきょとんとしてアオを見つめた。アオも緊張しながら彼を見上げる。
「だめかな……」
少し眉を下げて気弱に尋ねたアオに、少年はゆっくりと表情を崩す。目を細め、うっすらと頬を染めて、オレの名前はランだよ、と微笑んだ。
* *
「――アオ? アオ、朝よ。起きなさいな。今日も仕事に行くんでしょう」
聞きなれた、艶のある声がアオの意識を引く。夢が急速に遠ざかっていく。
「ほら、せっかく用意させた朝食が冷めるわ。ねぇ、アオ」
耳元にかかる吐息。ふふ、と楽しそうに笑っている。
柔らかく温かなベッドの中で、ようやくアオはまぶたを持ち上げた。
「おはよう、やっとお目覚めね」
ほとんど下着姿と変わらぬ格好で笑む女性は、昨晩アオを泊めてくれたアルディア夫人である。
豊かな黒髪が腰まで流れ、彼女の女性らしい肢体をいっそう妖艶に見せている。はっきりとした印象的な目元に、真っ赤な唇と爪。漂う香水の甘い香り。高貴な美しさをいっそう引き立てるように、アルディアはいつも強気に笑う。
彼女の素性を、アオはよく知らない。知っているのは、大人であること、しかしまだ二十代であるということと、裏表のない性格であること、そして教え込まれた性感帯の位置ぐらいだ。
アオは全裸のまま、ブランケットをかぶって起き上がった。しかしまだ半分夢の中で、惚けた表情のままぼうっとしている。
「寝グセついてる」
アルディアは楽しげにアオの黒髪を撫で、まだ覚醒しきれていない彼にチュッとキスをした。口紅がついてアオの唇が少し赤くなる。
「……懐かしい夢を見ました」
ようやっと目を覚ましてきて、アオは我知らず微笑んでつぶやいた。
「あら。どんな夢?」
「ランと初めて会ったときのです。もう何年前かなぁ……」
アルディアは少しがっかりしたように肩をすくめた。
「そう、わたしとの夢じゃないのね。一晩中一緒にベッドの中にいたのに?」
「すみません」
アルディアが本気で拗ねているわけではないと分かっているので、アオは苦笑して返した。それからベッドをおり、昨日脱いだ服を再び着込む。
アルディアと夜を共にしているいつもの部屋は、広い屋敷の隅にある。他よりは幾分か狭いのだろうが、それでも調度品の一つ一つは豪華なつくりだ。棚に並べられた天使たちのオルゴールや、人形仕掛けの時計、小さいがかわいいシャンデリア、そして天蓋におおわれた大きなベッド。
ドアは二つあって、廊下に出る方と、もう一つは隣の書斎に通じている。アオが出入りするのは、主にこの寝室と書斎だ。
アルディアは、使用人が運んできたアオ用の朝食を小さなテーブルに整え、自分の分のモーニングティーに口をつけて「そうそう」と思い出したように言った。
「そういえばね、アオ。ゆうべまた例の通り魔が出たみたいよ。ついさっき、カルズ通りの方で死体が見つかったんですって」
「本当に?」
アオは身支度を整えて顔をしかめた。
「物騒ですね。うかつに出歩けないや」
「殺されたのはまた男の子よ。新聞にはまだ載ってないし、詳しい身元も分からないらしいけれど。うちの下働きの子が野次馬に行ってきてね。でも、行かないほうがよかったみたい。顔を真っ青にして帰ってきたわ」
アルディアも眉根を寄せる。アオは朝食をとるためにテーブルについた。
「やっぱり目と花ですか?」
いただきます、と言ってからそんなことを尋ねる。どうぞ、とアルディアはうなづいた。
「そうらしいわ。あなたも気をつけなさいね、アオ。ランと一緒だからって夜中にフラフラしちゃだめよ」
「はい」
ベーコンを口に運び、アオは素直に答える。だがアルディアは大げさにため息をついて見せた。
「いっそのこと放し飼いなんかやめて、やっぱりうちの庭で飼おうかしら?」
「あはは、遠慮します」
にこ、とアオは即答した。その頬を、赤いマニキュアが塗られたアルディアの手が撫でる。彼女は少しうっとりとして言った。
「いいこと、アオ。わたしのかわいい黒猫。いつどこで何をしていようが、誰と浮気しようがかまわないけれど、ちゃんとここにも帰って来なきゃだめよ」
「わかってます、アルディアさん」
アオはされるがままに、長く深いキスに応えた。
酸欠になりかけながら、今朝見た夢のことを思う。
出会ったときのランは、まだ右目を失っていなかった。きれいな薄茶色の両目で泣いていた。
あの日から、アオとランは度々森の中で遊んだ。しかしアオはいつも救急箱を持ち歩かなくてはならなかった。ランが毎日のように新しい傷を負ってくるのだ。それを陽だまりで手当てして、アオはよくランに本を読み聞かせた。ほとんどが聞き飽きたような童話だったけれども、ランはいつだって嬉しそうに聞いていたからアオも楽しかった。
傷を負う理由は訊かなかった。いや、訊いたこともあったかもしれない。けれどもランはにっこりとするだけで答えてくれず、アオもいつの間にか慣れてしまって追求しなかったのだ。
だが、アオはのちにそのことを深く後悔することになった。鋭い切り傷がランの右目をつぶした時、初めて知った。それらの痛みはすべて、酔ったランの父親によるものだったことを。
ランの右目が光を失ってから、数日経った朝。あれがアルコールの中毒症状の結末だったのか、ランの父親は首をつって自殺した。
自殺は神への裏切りとされ、自ら命を絶った者は村の共同墓地に埋葬することすら許されなかった。そして背徳者の息子であるランも、村を出て行かなければならなかった。
ランを乗せた馬車は、水の都ミレーノに向かったらしいと後で聞いた。
半年近く経って、アオも両親を亡くした。ロンディウムの叔母の家に引き取られる道のりの途中、馬車はミレーノの近くを通ってその隣の街に立ち寄った。
そしてその夜から、植物学の権威であったコンスィスタ・クロード博士の一人息子、アオーウェン・クロードは行方不明となる。
アオは一晩かけて、凍えそうな中をみずからの足でミレーノに向かった。ただランに会いたいというだけでなく、もっと固い決心をもって。――ランに会わなくてはいけないと思った。
ミレーノを訪れたのは初めてだった。幼いころ来たことがあると父に聞いていたが、記憶に残っていなかったので、本人にとっては見知らぬ街。東の空は美しい朝焼けに染まろうとしていたが、街中はさすが水の都というだけあり霧に覆われて薄暗かった。
まだ人々は眠りについているのだろう、巨大な街はひっそりとしていて。湿っぽい霧が心細さを増して。アオは少し泣きたくなりながら、ランの姿を探して歩きまわった。
やがて朝日が人々を目覚めさせ、日が昇るにつれて街はにぎやかになっていった。アオはその足で一日中捜し歩いたが、ランに出会うことはなかった。やがて陽は落ちて、また街は暗くなっていく。その時分から、大通りの端にたむろしている少年や少女たちが目立ち始めた。身なりは決していいとは言えず、少女のほうは街娼であることがアオにも分かった。
ランはただでさえ人目をひく顔立ちをしているし、眼帯をしているからなおさら目立つだろう。同じ年代の彼らなら、ランのことを知っているのではないか。
アオはそう考えて、角に座り込んでいた少年たちのグループに向かった。少し汚れているとはいえ、アオの服装は労働階級とは明らかに違うものだったから、近づいてくる見知らぬ少年に、彼らは厳しい警戒の視線を向けてきた。
アオは少しひるんだが、すべてはランに会うためだと思って声をかけた。
「こんばんは。あの、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「誰だよ、アンタ」
少年たちの目は厳しいままだ。
「見かけねえ顔だな」
「どこから来た?」
「お坊ちゃんがオレらに何の用?」
「買ってくれるわけ?」
一人の少年がにやっとして言うと、どっと彼らの中で笑いが起こった。アオはわけが分からない。
「いや、実は人を探しているんだけど」
なんだ、と少年たちはしらけた顔をした。
「ランっていう奴、知らないかな。金髪で、右目に眼帯をしてて……」
すると少年たちは顔を見合わせた。それから一人が不審げに言う。
「あんた、あいつに何の用なの?」
「知ってるんだね!」
アオは顔を輝かせた。いた、ランは確かにミレーノにいたのだ!
「幼なじみなんだ。とにかく会いたい、ランが今どこにいるか知ってる?」
「……へぇ」
すると少年たちは、今度は楽しそうにお互い目を見交わした。
「じゃあ、あんたもよそ者ってことだ」
「え?」
少年たちは笑いながら立ち上がった。
「いいよ、ついてきなよ。会わせてやるからさ」
だがアオが素直についていった先は、何もない袋小路だった。ランがいる気配などない。しまった、と思ったときには逃げ道などなく、アオは少年たちに思い切り殴られた。夕日色の路地裏の隅で、アオは気絶するまで殴られ、蹴られ、上着と有り金のすべてを盗られた。
気がついたときは、世界はもう真っ暗で。痛みで動けなくて。このままここで死ぬんだなと思った。そういえば今朝から何も食べてないや、なんて呑気に思ったりもした。
(……でも、ランに会わなきゃ…)
死ぬなら、せめてランに一目会ってから死のう。そうじゃなきゃだめだよ。ランなら、きっと。
アオは何とか立ち上がり、うまく動かない体を引きずりながら大通りのほうへ向かった。だが、これからどうすれば良いのかは分からない。まだ頭がぼうっとしている。
口の中を切ったらしく、血の味がする。その鉄臭さが鼻を満たす。
血の匂いで思い出すのは、父と母の死にざまだ。
母はもうずいぶん前からわずらっていて、意識はあるというのに表情一つ動かせなかった。ベッドの上で寝返りを打つこともできずに、仮面のような顔で横たわっているだけ。原因も治療法も分からず、気休めの療養も兼ねてニレ村へやってきたのだった。父は、愛する妻が人形になっていくことを止められず絶望していったのだろう。自分が医者であったのだからなおさら。
そうして父は母を殺し、またみずから首を切って命を絶ったのだった。血の海と化した母の部屋を最初に見つけたのは、夫婦の一人息子のアオだった。本当に人形となってしまった母と、それに寄り添う幸せそうな父の死に顔。吐き気を誘う血の匂い。
あの日、アオの中で確かに何かが壊れた。だがそれが何かは、自分でも分からない。ただ、心のどこかが麻痺して、失くした感情がある気がするだけだった。
アオは大通りへ出たところでまた倒れた。秋の終わりの地面は冷たい。
もういっそこのまま眠ってしまおうか。多分まだ死なないだろうと根拠なく思った。動けないのは、きっと疲れと空腹のせいだ。ちょっとぐらい休んでもいい。起きたらまた、ランを探さなきゃ……
まどろんでいるうちに、ガラガラと馬車が近づいてきた。倒れたのが通りの端でよかった、中央まで行って力尽きていたら、あやうく馬車に轢かれるところだったなぁとぼんやり思う。
次第に大きくなってきた車輪の音が、アオの前を通って急に消えた。その代わり、ぶるんと馬が鳴いたのが聞こえる。
(…止まった……?)
カチャ、と馬車のドアが開き、誰かが降りてきた。コツコツというヒールの音が、まっすぐアオのほうにやってくる。だが、アオは顔を上げる気力すらない。
「あなたはモグラ?」
大人の女性の声。しかし意味が分からない。
「モグラ同士でケンカしたの? それとも、大人にいじめられた?」
答えようにも声が出ず、アオは黙っていた。女性はしゃがみこんで、アオの黒髪をなでながら楽しそうに言った。
「黒髪って好きよ。黒猫が好きなの。迷信も宗教も信じていないから」
アオはなんとか目だけ彼女のほうに向けた。夜色の髪と、血のように赤い唇。その口元が、妖しく笑んでいる。
「うちへいらっしゃいな、かわいい黒猫さん。温めてあげる」
そう言ってアオを屋敷に連れ帰ったのが、アルディアだった。
アオはアルディアに手当てと食事を与えられ、一度ゆっくり眠った。目覚めたときにはもう日は沈んでいた。
そしてそのまま、アオはベッドから出ることなく男としてアルディアの相手をした。それまで経験はなかったし、未知のことに少し恐怖もあったが、世話をされた手前で拒否しようとは思わなかった。ただ抵抗せず、すべてアルディアに任せた。
行為と浅い眠りを何度か繰り返して、ちょうど夜明けとともに目覚めたときに、アルディアが服を着ることを許してくれた。
「ねぇ、アオ。このままうちで飼われる?」
お茶のカップをアオに渡しながら、アルディアが甘く言った。
「ベッドの上だけじゃなくて、庭でも働いてもらうけれど」
アオは一口お茶を含んでから、いいえと答える。
「人を探してるんです。この街にいるって聞いて来たんですけど……」
「あら」
アルディアは少し驚いてから、なるほどという顔をした。
「それであんなところで倒れていたのね。あの辺りの子達に、自分がよそから来たって言ったんでしょう」
今度はアオが驚いてアルディアを見た。彼女は苦い顔をしてため息をつく。
「あの辺りの子はね、よそから来た子達ととにかく仲が悪いの。縄張り争いっていうやつかしら。あなたの探し人も、他から移り住んできた人なら、あの辺りには寄りつかないわ」
「そうなんですか……」
「運が悪かったわね」
アルディアもお茶を飲みながら言う。
「他から移り住んできたモグラっ子なら、ちょうどこの屋敷から東の方を縄張りにしているわよ。それとも探しているのは大人かしら? 親戚とか」
モグラ、というのがこの街で浮浪児を指すということは、先ほど彼女から聞いた。
「幼なじみです。ランっていう名前で、金髪で右目は眼帯なんですけど」
「ラン? あら、ランの友達だったの」
「知ってる……んですか?」
お互いに驚きながら、アルディアはええもちろんとうなづいた。
「あんなに目立つ子でしょう、ポロッツォ通りの方じゃ有名よ。どこにいるかは知らないけれど、わたしもたまに見かけるし、仲間のモグラっ子に聞けばすぐ教えてくれると思うわ」
「ほ、本当に……?」
先日のこともあってアオは少し気が引けたが、アルディアは笑って言った。
「大丈夫よ。ポロッツォ通りの子達も、みんなよそから来た子だもの。ミレーノはね、もともとここの生まれの子はよそ者に冷たくて、よそ者同士はお互い助け合っているの。それでも困ったら、わたしの名前を出しなさいな。少しはあの子達に顔がきくのよ」
それからアルディアは冷たい手でアオの頬を撫でた。赤い口元が艶めいて微笑む。
「ねぇ……アオ。閉じ込めたりしないから、わたしの黒猫にならない? 気の向いたときに来てくれればいいの。ね? 悪い話じゃないと思うわ……ランと無事に会えたら、またここにいらっしゃいな」
椅子に座っているアオを覗き込むように身をかがめ、きりっとした美しい顔を近づける。豊満な白い胸が迫ってくるようで、アオは目を閉じた。そうして唇が重なると、何も考えずに激しく応えていた。
そうしてアオは、アルディアの黒猫になった。
* *
半年前、アルディアに拾われたアオは、体力が回復するとさっそくランを探しに街に出た。
その日は一段と寒く、夕方から雪が降り始めた。その年初めての雪だったのを覚えている。ポロッツォ通りを行き交う人々の足も、自然と速くなっていた。
アオはアルディアに言われるまま、彼女のマフラーを借りた。首輪代わりだったのかもしれない。
土竜の児と思われる子供を捜すのには、思ったよりも時間がかかった。前の通りでは、夕方なると少年少女があちこちにいたのに。やはり向こうとは勝手が違うのだろうかと途方にくれた。
しばらくうろうろとさまよって、やがて街の中央から外れたところに出た。そして、ケリーナ川の橋近くに、地下へ続くらしい階段と、その入り口に見張りのように二人の少年が立っているのを見つけた。
(あれが、ランの仲間の方の子達なのかな)
やはり少し不安になった。だが、ランに会いたい。どうしても会っておきたい。
アオは無意識にマフラーを握りしめながら、寒さに震えている少年二人に近づいていった。
「こんばんは…」
少し緊張した面持ちで話しかけると、少年たちはまじまじとアオを眺めた。一人は背が高くムスッとしていて、もう一方の小柄な方はアオより幼く、悪意ない目で見つめてくる。
「誰だ?」
背の高い方が不審そうに尋ねてきて、アオは覚悟を決めて答えた。
「僕はアオ。幼なじみのランを探しに、ニレ村から来たんだ。君たちはランの仲間?」
「Si! ランのお友達っ? ぼくはアシャだよ、よろしく!」
小さい方が顔を輝かせて答え、アオの手をとってぶんぶんと握手までした。それをすかさず背高がとがめる。
「馬鹿アシャ、簡単に信じるんじゃない。西の奴らのスパイかもしれないぞ」
「違う」
西の奴らというのは、彼らと敵対しているもともとミレーノに生まれた子供たちのことだろう。アオはあわてて否定したが、背高はきつくアオをにらみつけた。
「信じられねぇな。だいたい幼なじみがランに何の用なんだ、今さら」
「それは……」
アオは答えられなかった。ランに会う理由はあるが、それを本人以外の誰かに告げるつもりはない。いや、それを抜きにしても、「今さら」と言われるともう何も言う資格がなくなってしまう。
困っているアオを見て、アシャが背高に文句を言う。
「マリキは人を疑いすぎっ。いいでしょ、会わせてあげようよ。スパイかどうかなんて、ランに会わせればすぐわかるじゃない」
「でもなぁ、アシャ」
マリキという名らしい背高はそれでも渋った。アオは重ねて頼み込む。
「お願いだ、どうしてもランに会いたい。アルディアさんに聞いたんだ、ランはこの辺りにいるって」
「アルディアさんに?」
マリキは虚を突かれたような顔をしてから、仕方ないなというふうに後ろ頭をかいた。それから隣のアシャに言う。
「アシャ、案内してやりな」
「うんっ。やっさしーマリキ」
「さっさと行けって」
優しいと言われて照れているのか、不機嫌そうに言うと、マリキはそっぽを向いてしまった。それでもアシャは楽しそうに笑いながら「こっちだよっ」とアオの腕を引く。アオは小さなアシャに引かれるまま、階段を下りて地下水路の迷宮に入っていった。
地下水路は広く、水路の両脇にじめじめとしている通路があった。ぽつぽつと一定距離を置いて蝋燭が灯されているその狭い道を、アオはアシャの背中について進んだ。二人の足音が遠くまで響く。そして薄暗い水路の奥からは、何かにぎやかな談笑が漏れ聞こえてきている。
「今日はねぇ、アオ、パーティなんだよっ」
「パーティ? 何の?」
アシャはスキップしながら軽い足取りで進んでいく。
「今日、今年一番の雪が降ったでしょ? だから、ぼくらの誕生日パーティ」
「……雪が降ったら誕生日なの?」
アオが冗談かと思いつつ尋ねると、そうだよっ、とアシャは元気よく答えた、
「ぼくもね、自分の誕生日知らないの。だから、その冬の最初の雪が降ったら一つ歳を数えようって、モグラ仲間の決まりなのっ。だから今夜は、みんなでお祝いしてるよ」
ぼくは今日で十二歳、とアシャは満面の笑みでピースをする。
「――そっか、おめでとう」
アオは笑って言ったつもりだが、どこまでちゃんと笑えたかは分からない。しかしアシャは嬉しそうに「ありがとー」と言った。
「アオは何歳? ランと一緒?」
「うん」
「じゃあ今日で十四歳だね。おめでとー」
アシャは本当に楽しげにはしゃぐ。アオはいつのまにか自分が仲間扱いされていることや、どうしてここまで自分が懐かれているのかが不思議だったが、土竜の児たちが意外に楽しくやっているようなので少し安心した。
そんな話をしながらしばらくも歩かないうちに、アシャは大きな木製のドアの前で止まった。子供たちの笑い声が中から響いている。ここが彼らの棲み処らしい。
アシャが元気よくノックする。すると中が少しだけ静かになって、少し低めの少年の声が返ってきた。
「『ハートの女王がパイづくり』」
「『夏の日一日かかってさ』」
アシャが答える。どうやら合言葉らしい。
「『ハートのジャックがパイとった』」
「『そっくりくすねてどろんした』。アシャだよっ」
「よし、入れ」
キイ、と腐りかかったドアが開く。中はアオが思っていた以上に広く、隅には天井にまで樽や木箱が高く積まれている。充満しているのは酒の匂い。そこにいた十数人の少年たちは、開いたドアの方を一斉に向き、仲間の後ろにいる見知らぬ少年の姿に表情をかたくした。
「――アシャ、そいつは?」
先ほど合言葉のやり取りの相手をしていたらしい少年が、代表して訝しげに尋ねる。アシャは悪びれなく言った。
「みんな怖い顔しないで。――ラン、お客さんだよっ」
アシャが呼びかけたのは部屋の奥の、高く積み上げられた木箱の上。アオは緊張してそこを見つめた。木箱をベッドにして、向こうを向いて横になっているらしい金髪が見える。
「……ん~?」
もぞ、と金髪の少年が身じろいで、けだるそうにこちらを振り向く。
「ラン」
その顔がこちらを見るより先に、アオはなかば叫んで彼の名を呼んだ。振り向いた眼帯の少年は、確かにラン――アオが探していたランだった。
「………アオっ!」
振り向いたランはアオを見るなり叫んで、転がり落ちるようにして木箱の上からおり、その勢いのままアオに抱きついた。
「わっ」
受け止めきれず、アオは押し倒される形で倒れこむ。
「アオ、アオだ、どうしてここに」
「ラン」
「元気だったかっ?」
ランは体を起こしてアオを覗き込んだ。頬を紅潮させて、ほんの少しだけ涙ぐみ、嬉しくてしようがないというふうに。
「半年ぶりだなぁ、アオ。よくここがわかったな。今日はどうしてミレーノに? いつまでいるんだ? どこに泊まってんの? 今夜は何時までいられる?」
「………ラン」
アオに静かに呼ばれてから、ランはやっと気づいて見る間に青ざめた。震える手でアオの頬に触れる。
「アオ……? どうしたんだよ、このアザ。服もぼろぼろじゃんか」
倒れこんだアオの上にのったまま、ランの顔がどんどん険しくなっていく。よく考えれば、御曹司のアオが一人でこんな地下水路の奥にやってくることなどあるはずない。
「何か、あったのか?」
なかば放心状態のランに尋ねられ、アオは答える。
「父さんも母さんも死んだ。僕も背徳者の息子だよ、ラン。何かもかもいらなくなったから、お前に会いに来たんだ……今さらだけど」
ランは左目を見開き、しばらくアオを見つめていた。アオもまっすぐ見上げ返した。覚悟はできている。あとはランの望みどおりにすればいい。
しかし。
ランは突然にかっと笑い、立ち上がって興奮気味に言った。
「よっしゃ、わかった! アオもオレらの仲間になればいいよ、大歓迎だ」
「……ラン?」
起き上がったアオに、ランは胸を張って答える。
「行くところがないんだろ、アオ。だったらここにいればいい。一緒にいよう」
そして、唖然として二人を見ていた周りの仲間たちに向かって高らかに言う。
「みんな、こいつはオレの幼なじみのアオ。オレと同じくニレ村から来たよそ者。聞いての通りだ、仲間にしてもいいだろ?」
「賛成、賛成っ」
真っ先に答えたのはアシャだった。それからつられるようにして、他の少年たちも、ランがそう言うならと賛成を叫んだ。
アオは予想外の展開に立ち尽くしていたが、歓迎されていることにだんだんと胸が熱くなってきた。そんな彼に、ランが少し改まった笑みを向け、スッと右手を差し伸べる。
「モグラ仲間になるって言うなら、歓迎するよ、アオ。どうする?」
アオは状況を呑み込むまでに少し時間がかかったが、ランに差し出された手を拒む理由が見当たらない。やっと見つけたランのそばを離れる理由も見つからない。
アオは導かれるように右手を差し出して答えようとしたが、握手する寸前でランの手が少し引っ込んだ。
「握手の前に誓いを立てるんだよ、アオ」
「誓い?」
聞き返すと、周りの少年たちもうんうんと頷く。
ランが澄んだ声で言った。
「仲間の掟だ。オレが言ったら『誓う』って答えて。――『仲間を裏切るな』」
「誓う」
アオははっきりと答えた。
「『死ぬな』」
「……誓う」
「『不幸だと思うな』」
「誓う…」
答えた瞬間に、ランの温かな両手がアオの手を包む。
「ようこそ、アオ。来てくれて嬉しい。オレを忘れないでいてくれてありがとう」
ランの温もりがしみた。少し震えているのは自分の手なのかランの方なのか、アオには分からなかった。




