非日常への扉3
教室。
「ふぃ~、楽っ勝だったな」
汗で濡れる体操服上を脱ぎ捨て、勝ち誇った顔を広人に向ける。そんな友人とは対照的に、広人は静かに肩を落とした。
「…俺は疲れた」
カッターシャツのボタンを上から留めてゆく。お前のテンションにあわせるのも、城戸、小宮の『不協和音』に捕らわれるのも、当分はごめんだね。
『楽っ勝』という言葉が聞き捨てならなかったのか、城戸は浮かれる男子に向かって、
「ふん、言ってくれるじゃないか。今度カラオケいったとき覚えとけよ、乙女のラブソングを野太く歌ってやる」
恐ろしい事を言い出した。
人間は外部の情報の約七割を視覚に頼っている。これに聴覚を加えると九割近く。そこに想像力が加われば、その値は限界を超える。
ここで相方の精神攻撃に乗らないようでは、二年七組のナイスペア、『四天八衆』の一人とは言えないだろう。相方の援護射撃に小宮が動いた。
「あ、じゃあ僕はずっとその隣で腕組んでてあげるね♪」
小宮は脱いだ体操服を胸の前で抱いたまま頬を赤く染めると、Tシャツ一枚になったバカに舐めるような視線を送った。
「……っ!?や、やめろ小宮、オレは男にそんな目と仕種で見られても、うれしくないぞ!絶対に、ほんとだぞ!ほんと……ほんとなんでお前は女じゃないんだっ!!」
叫びつつ、生暖かい視線から逃れるようにくしゃくしゃのカッターシャツを羽織る。
気持ちはわかるぞ。茶色がかった猫毛の髪におさない顔つき、小宮が女子ならめちゃくちゃお前の好みだからな。
………胸が小さいのが好きなのは、お前じゃないのか?
「照れんなよ広人、俺たち女の好みは似てるんだ。小宮が女子だったら、広人もクラッとくるだろ?」
女の子ならな。
「へ~、じゃあひろひろにもしてあげるよ。……どう?」
あごを引いて上目づかい。広人はにっこりと笑うと一言、
「多少、気持ち悪い」
「ひどいな」
小宮が前かがみになってむくれた。
「でも『多少』なのな」
城戸が笑いながらつっこむ。広人は体操服をたたみながら、
「男だろうが女だろうが、好意のこもった目で見られれば悪い気はしないさ」
ぶっきらぼうに言い切った。
右方向から生暖かい視線を感じる。見るとまだ下を着替えていない親友が、潤んだ瞳を俺に向けていた。ああ……やばい、これが殺意か。
広人は思わず凶器になりそうなものを探しそうになったが、やめた。
その気になれば素手でも人は殺せるしな。
「わりぃ、もうしない。ほんと」
「バカなことやってないで、早く着替えろ。みんな着替え終わってるぞ」
ぐるりと教室を見渡して、下だけ体操服という悲しい格好をしているのはお前一人だけだ。
「悲しいという表現は言いえて妙だね。君は言葉の使い方をよく知っている」
お褒めの言葉、ありがとう安藤。話は変わるんだが、そんなにジロジロとあいつの着替えを見ないでやってくれ。あんな無防備な状態で女子の視線を感じると、この年頃の男子はいろいろと困るんだ。自分の力じゃどうすることもできないことが、たくさんある。
「そうかい。思春期の女子として男子の身体に少し興味があったんだが、そういうことなら仕方がないね」
安藤は冗談なのか本気なのか、よくわからないことを言うと、すこし残念そうに頬杖をついた。
ああ、本気だったんだな………
こそこそと着替える親友の後姿が、なんだかすこし、小さく見えた。
さて………
今週最後の授業。六時限目、現代文。
教科書に載っている随想的文章を朗読しているのは佐々木コジロー。ところどころ漢字につっかえながらも区切りのいい段落までたどり着き、やりきった表情で着席した。
「はい、結構。ここでいう『わたし』は主人公。主観を語っているわけですが、それでは『彼』とは誰のことでしょう?え~…神導時くん」
「はい、前の行で出てくる、子供のころの『わたし』を表しています」
牟田先生は満足そうにうなずいた。牟田先生は二十五、六歳の女性でオペラ歌手のような体型をしている。性格も見た目どおり優しく、生徒、特に女子と仲のよい先生だった。
現代文は数学につぐ広人の得意科目だった。ちょちょいと漢字さえ勉強すれば80点は固い。
牟田先生は『わたし』と『彼』を使い分けることによって、著者が読者に、『今と過去の自分がまったく別のものである』という印象を与えたいのだと説明していた。
(まあ…そうだろうな)
これを書いた著者の気持ちが、なんとなくわかる。
「………広人、広人」
バカが小声で話しかけてきた。真剣な表情だ。なんだ?牟田先生のパンツの話なら遠慮しとくぞ?
「オレだってしたくねぇよ!いや、まあいい先生だけどさ、統計とろうと思うほどオレの好みじゃない」
「じゃあ、何だ?」
お前は前向いたままだからいいけど、俺は振り返ってるんだ。早く言ってくれ。見つかる。
それに親友は明らかに困った顔をして、子供がクレヨンで書きなぐったような作り笑いを浮かべた。
「じ、実はオレはこのクラスに関する女子のほとんどの情報をもっていて……スリーサイズと毎日の下着の色を推測するのが趣味なわけだが、」
何をいまさら。お前の人としてどうかと思う趣味は、俺たちが物心ついたころから知っている。
「うそつけ、そんなガキの頃から女に興味があったわけじゃない。せめて小学校二年のころからだ!」
話がそれたな。と咳払い。それでも早ぇよと、心の中でつっこんでおく。
「まあ、それでだ……クラスに一人だけ。決め付けや怠慢ではなく、情報がなくてスリーサイズはおろか好きな色さえわからない女子がいてな………」
うわぁ………いやな予感がしてきたぞ。このクラスで、お前が、情報を持っていない女子?
広人の友人は『聖書』と書かれたメモ帳を取り出した。
「そういうわけで、まずはゆっきーの好きな色を教えてくれ」
「先生、彼がトイレに行きたいそうです」
「あらあら?急いで行ってきなさい、ほら」
生徒の一大事に即座に対応する牟田先生に連れられて、変態は教室から押し出された。
誰がお前みたいな変態にかえでの情報を教えるか!!……………まったく、バカ野郎が。
「……?」
嬉しそうな悲しそうな、不思議な表情を浮かべている広人を、野見山克美は不思議そうな目で見つめていた。
授業終了を意味するチャイムが学内に響く。
「きりーつ、れいっ!」
「「「ありがとうございましたっ!!」」」
休日を目の前にして、青春真っ盛りの少年少女たちはテンションが上がりっぱなし。必殺ゲージ三つぶんの大声で礼をする。
かわいい教え子たちに見送られ、牟田先生は教室を後にした。授業が終わったいま、残る学校行事はホームルームと部活、そして掃除のみ。
「よーし、机下げてー」
「うぃ~」
委員長の指示にしたがって、クラスメイトたちはいつもそうするようにおのおのの机を持ち上げ、教室後方へと引きずっていった。
「掃除?」
克美が尋ねる。
「うん。ああ、そっか…克美は~……どうしよう」
掃除区域は出席番号別に区切られた男子女子三つずつの班が、教室、廊下、男子女子トイレを一ヶ月のローテーションで担当している。転校生である克美はまだ班が決まっていないため、どこを掃除すればいいのかわからないのだ。
「委員長!」
「…ん~?」
「どうした、神導時」
女子の学級委員長、坂本さんと男子の学級委員長、古賀がこちらを向いた。
「克美の掃除場所、どうする?」
助けを求める広人の言葉に、するどく細まる坂本さんの目。古賀のメガネがキラーンと光った。
「なるほど…そういうことなら、」
「委員長である、私たちの出番よね」
横目で交わされるアイコンタクト。二人は示し合わせたかのように同時に教壇に登ると、
「「女子限定、野見山克美争奪大会っ!!」」
叫んだ。
あ然とする克美。いっきに盛り上がる女子たち。くやしがる男ども。なんだコレ。
「あ~…あの二人は、仕切るのが大好きでな。時々こうなる」
ナイス前田。俺ですらフリーズするこの状況下で、克美への説明ありがとう。
すっかり目の輝きが変わった二人は混沌のなか、女子三班の代表者を選び出していた。
「野見山克美さんは『な行』です。あいうえお順にいって、私たちと同じ班に入るのが一番ややこしくないと思います!」
第二班代表、中村さんの主張に「「「おお~!!」」」という声が上がる。坂本さんは黒板に10ポイントと書き記した。
「野見山さんは転校生。転校生は名簿の一番最後に名前が記されるわ。だったら私たち『や、ら、わ』で始まる第三班に入るのが自然じゃない?」
山本さんが言った。再び湧き上がるざわめき。筋の通った言い分が聞いたのだろう、黒板には15ポイントと記された。
この時点で第二班は脱落。中村さんがくやしそうに教壇から降りる。
残るは第一班。名字の有利も世間的な後押しもないこの状況で、第一班代表、安藤ゆかりは笑って見せた。
「…僕は、第一班こそ野見山さんにふさわしいと思うけどね」
ざわり。
教室にどよめきがはしる。
「それは、どういうことですか?安藤さん」
司会進行ということで口調がちょっと変わった古賀が、中指でメガネをクイッと動かした。
安藤はその質問にゆっくりと口を開いた。
朗々と。謡うように。皆のこまくを震わせてゆく。
「まずは第二班、第三班の言い分を否定しよう。名前が『な』で始まろうが名簿で一番最後に記入されようが、彼女が〝この班に在籍している″という周りの認知さえあれば、大した問題ではない。むしろそれよりも大事なのは転校生、野見山克美の気持ちだと、僕は思う」
安藤の演説に皆がひきこまれる。安藤がふいに広人に目を向けた。
「君。今月、君の担当する掃除区域はどこだい?」
「き、教室……」
急に話を振られて言いよどむ。
そういえば、コレは女子限定なんだし、そろそろ男子は掃除を始めたほうがいいのではないか?などと広人は思ったが、そんなことを言う空気ではなかったのでやめておいた。
安藤が両腕を広げる。そして観客に語りかけるように、一言。
「そう。僕ら、女子第一班と一緒にね」
それは、何かの呪文のようだった。人間にはおよそ逆らうことのできない力を持った、魔法の言葉。闇の中に落とされた光のしずくのように、瞬き、静寂に染み込んでゆく。
「転校生、野見山克美にとって、隣の席であり最初に話しかけた神導時広人という男子の存在は大きい。いくら野見山さんがクラスに打ち解け始めているとはいえ、まだ転向したてという初日の不安を抱えているはずだ。もし彼女が望むのであれば、彼と同じ掃除区域である僕たちの班に入れてあげるのが一番じゃないかな?」
どうだい?克美。と、彼女は声をかけた。皆の目が新たなクラスメイトへとそそがれる。
克美はちらりと俺を見て眼をつむり、開けた。
「…うん。ヒロくんと一緒んほうがいい」
このとき、克美の雰囲気が変わったと感じたのは俺の気のせいだろうか。
「決まりだ」
古賀が言った。黒板には『革命』の文字。これは二年七組にとって、一致団結、45人の魂を一つにして掴んだ勝利を意味している。
満場一致。文句なし。全員が無言でうなずいた。
「それでは、野見山さんの班は第一班とします。みなさん掃除に取り掛かってください」
「「「おうっ!!」」」
坂本さんの言葉に、男子も女子も勇ましい返事を残し、緊急出動をかけられた消防隊員のようにすばやく各自の掃除場所へと移動を開始した。みんな、頼もしい背中しているな………
クラスメイトたちの背中に見とれていると、一仕事終えた安藤がほうきを三本もってこちらに近づいてきた。そのうち一本を克美に渡し、もう一本を広人に差し出す。
「さあ、早く掃除を始めよう。時間がなくなってしまう」
「…はいよ」
広人は差し出されたほうきを受け取った。