非日常への階段2
数台のパソコンが並んだ白い部屋。大きな窓からは日差しが差し込み、机に積まれた幾つものファイルを照らしている。聞こえてくるのは小鳥のさえずりと冷却フォンの音のみ。
部屋には女性が一人しかいない。年は二十代後半、長方形の眼鏡をかけたこの部屋の主は久々の休憩を満喫していた。
「ねぇねぇねぇ、連絡きたきた?」
ドタドタと足音を立て、小学校五年生くらいの女の子が部屋に飛び込んできた。年相応の無邪気な笑顔、腰まで伸びた美しい金髪、その小柄な体は黒のウエットスーツに覆われている。
「おや?もう訓練が終わったのかい?」
女性は目の前にあったクッキーを袋ごと放り投げた。少女はうれしそうに袋をやぶり、口にほおばる。
「ゆのみ、こぼすんじゃないよ」
女性が言った。ゆのみと呼ばれた少女はふぁ~いと言いつつ、ぼろぼろと食いカスを散らしている。
「あ~あ…まったく毎度毎度……」
愚痴りながら少女の前に紙を敷く。
床に落ちたカスを拾おうと身をかがめたとき、パソコンが受信音を発した。
「あっ!連絡きたよ」
少女がはしゃぎながら言った。ぴょんぴょんと飛び跳ねるたびに、腰まで伸びた髪がゆらゆらと揺れる。
「こーら、あばれんじゃない」
頭を鷲摑みにして注意しておく。女性は少女がおとなしくなったことを確認するとパソコンへと向き直った。
『情報収集完了。霊子データを送信します』
文章に添付されたデータをクリックする。大小多数の円グラフやアルファベットの羅列が次々と写し出された。
「ふわぁ…これを一日で解析するの?」
少女が感心の声をあげる。
「そうさ…さーて、急いでやっちまうかね」
女性、井崎恵は唇を舐めるとものすごいスピードでキーボードを叩き始めた。
二時限目が始まる二分前。
大賀高校本館三階、二年七組の教室にて。野見山克美は面を食らっていた。
扉を開けるなり、クラス中の男女から「次は生物だけど、ノート貸そうか?」だの「弁当派?学食派?もし学食派だったら一緒に行かない?」だの声をかけられたらそりゃ驚くか。
克美はしばらく戸を開けた形で固まっていたが、
「みんな、ありがとう」
にっこりと笑い、うれしそうに言った。
二時限目、生物。
生物担当の金子先生(通称カナブン)は異様に黒板に文字を書き出すことで有名な先生だった。それはもう左上から右下まで、小さめの字でびっしりと。
それを消しては書き、書いては消して、平均三回繰り返すので生物の時間は右手が実に痛くなる。
「え~、1918年、視覚霊子症事件。視覚霊子というのは、エクトプラズムのこーとだ。当時研究されていた霊子を動力源とする装置の実験中に、化学合成物質が混入して、物質化したエクトプラズム同士がくっついてしまう事件が起ーきた。実験に使われていたラット達が霊子レベルで同化してしまい、危険性に気が付いた世界政府は、条例で民間による霊子の取り扱いを禁止したー」
皆が必死に黒板を写すなか、金子先生は独特のイントネーションで解説を続ける。この先生は基本良い先生なんだけど、教科書とぜんぜん違うことを授業で教えるのはどうもな……………
おかげで試験範囲がよくわからず、初めての生物のテストでクラスのほぼ全員が赤点を取るという奇跡体験をしてしまった。
この出来事はうちのクラスの間で『二の七の悲劇』と呼ばれている。
思えばこのときの一体感が、今の団結力を作り出したといえよう。
「あいたた………」
隣で克美が親指のつけ根を揉んでいる。
「慣れないときついよな、俺も最初はつらかった」
「いやいや広人、慣れても痛いぞ。毎回毎回うんざりするぜ、字も小さくて見づらいしよー」
広人は克美の後ろ、しかめっ面で腕を振る親友を見た。ついでに体をねじり、後ろを振り向く。
「…………」
かえではピシッと背筋を伸ばし、女の子らしくも美しい筆記体で『PCBネズミ実験』とキャンパスノートに記していた。
ノートを取るのが自分よりも早い上に、字も綺麗。広人はちょっぴり自信を失くした。
「こら、何後ろ向いとーんのか」
少し長く見すぎたか。金子先生に注意され、広人は「すいません」と謝罪する。金子先生は腕を組むと、大げさに頷いた。
「うん、まあ、謝ったから許してやろう。やけど授業中はきっちり前を見とーけ」
「はい」
女子の苦笑が聞こえる。しかし、これは広人を笑っているのではない。
「先生~、コジローが寝てまーす」
真ん中の列、後ろから三番目の席。二年七組のムードメイカー的男子、佐々木が机に突っ伏し、川のせせらぎよりも静かに寝息を立てていた。ちなみに彼の本名は佐々木洋介。コジローはあだ名である。
「こぉらぁっ!!コジロー、またお前か!いつもいつも…節度が足りーんぞっ!!」
「はっ、はい!?」
佐々木はガバッと身を起こすと、今自分のおかれている状況を理解したのか「しまった……」という顔をした。
「まったくお前は…………」
と、金子先生の説教が始まる。授業が中断したため、いままで休憩無しで働いていたクラス全員の利き手が止まる。
「今日はちょっと早めだな」
「ん?なんが早いと?」
広人の言葉に克美が反応する。その顔に浮かぶのは疑問。
「せい…」
「生物の授業は手が痛くなるだろ?だからうちのクラスではああやって、コジローがわざと怒られてみんなが腕を休めるよう時間稼ぎをしているんだよ」
広人の言葉をさえぎり、後ろから『頼る人のいない、転校生を、癒し隊!!』隊長が、得意げに台詞を奪う。
「へ~、そうなん………ん?それが『早い』ってことは……」
「克美は初日で、まだ手が慣れていないだろ?」
広人は体を横にし、教室の中心部に目を向けた。佐々木と目が合う。奴は無言でうなずくとこちらに向かって親指を立ててみせた。
「佐々木コジロー…漢だぜ……っ!!」
尊敬と羨望の混じった親友の声。このバカ程ではないが、俺も同じ男として佐々木の行為に一種の感動を覚える。
「…………」
そんな男たちのやりとりを、雪村かえでが冷めた目で見つめていた。
授業が終わり、野見山克美は佐々木に礼を言いにいった。
「いや~たいしたことはしてないよ」
デレデレと鼻の下を伸ばす佐々木。気持ちはわかる、女の子に礼を言われて悪い気のする男はいない。
「ところで野見山さんさぁ……」と、周辺の男子女子たちが仲良くなるきっかけを求めて質問を開始する。
「灰色にブルー……いや、白にブルーか」
克美を指差し、眼を光らせる。口元には確信めいた笑み。広人は声の主である変態に向き直った。
「……パンツか?」
「……ああ…俗に言う、『しまパン』だ」
こいつは作戦を遂行させた工作員ばりの達成感あふれる笑顔でうなずいた。バカが、こんな時だけいい顔しやがって。
「のっちの明るい性格とボーイッシュな雰囲気、あれはもう、健康的で躍動感あふれるパンツ、『しまパン』しかない!!」
「そうか、死ね」
間髪いれずに引き金を引く。
しかし、こいつの目には歴史を変えた偉人たちにも匹敵する光が宿っていた。こうなった変態はまさに無敵。広人の言葉はおろか、たとえ勇者のみ装備できる伝説の剣でさえもダメージは与えられまい。
「みなまで言うな。確かにスパッツも捨てがたい…しかし!!制服にスパッツは蛇の道!!さわやかなる春の風がもたらす一瞬の聖域を邪魔だてする、『体操服下』に並ぶ男の敵だ!!そんなものの存在をこの学校という神聖な場所で認めるわけにはいかない!男としてっ!!スパッツが学校で許されるのは体育会系部活生(女子)が練習後、汗で湿った白ティーと黒のスパッツ姿で和気あいあいと顔を洗うときのみ!!タオルで顔を拭くときに無防備になる下半身のラインがたまらないんだこのやろう!!」
力説。両こぶしを硬く握り締め、男であるが故の咎に熱く涙する。広人は泣いている親友を全力で無視することに決め、視線をそらした。
克美が笑っている。あそこの面子とは大分仲良くなったようだ。
「ちなみにオレの読みだと、今日の有馬先生のパンツは………ピンク、歳のわりにはかわいい系のな」
広人は野見山克美から顔をそらすと、机からライティングのノートを取り出した。
三時限目、ライティング。
この授業の担当は、細身の体にぴったり合ったシャツと黒のパンツがトレードマークの甘木先生。彼女は我がクラスの副担任でもある。後ろから「レースの黒………」と聞こえたが、広人は聞こえないふりをした。
「ハイ、それでは36ページを開いてください。Lesson22、今日は『比較』を習います」
帰国子女なのか、外人さんのようななまりのあるしゃべり方でゴム手袋を身につける。チョークの粉が付くのが嫌なのだろう。準備の整った甘木先生は、ノック式のチョーク入れを手に持ち、ダンダッダンと見た目に似合わない豪快な筆圧で黒板に書き始めた。
「形容詞や副詞は『原級』、『比較級』、『最上級』の三つの姿に変えることができます。例えばtallは『原級』『比較級』『最上級』の順にtall、taller、tallest。‐er、‐estがくっつくわけです」
黒板に白い三つのtallと、そのうち二つに青いer、estが続く。
「‐er、‐estをくっつけるポイントは音節の数です。音節とは母音を中心としたひとかたまりを一節とする、発音上の単位のことです。短い単語、tallやearlyのように音節が一つか二つしかない場合、‐er、‐estをつけます。そして長い単語、importantやbeautifulのように音節が三つ以上の単語の場合は、比較級にするときはmore、最上級にするときはmostを使います」
甘木先生は白と青のチョークを使い分けながら、比較の基本を書き出すとクラスを見渡した。
「それでは37ページ、EXERCISE 1をやってみましょう」
「rich、richer、richest………」
EXERCISE 1は単語の原級を比較級、最上級に変える問題だ。広人は発音の練習もかね、小声でつぶやきながら問題を解いてゆく。
「new、newer、newest………」
広人は英語が苦手だった。中学のときの英単語コンクール(毎朝30個ほどの英単語問題をやって各班で合計点を競い合う催し)を嫌々やっていた経験から『英単語を覚えるのは面倒くさい』というイメージが付いてしまい、なかなか頑張って勉強しようという気にはなれない。
「hot、hoter、hotest………」
「ヒロくん、それ間違っとーよ」
隣から声をかけられる。肩と肩がくっつくほどすぐ近くにいる野見山克美は、広人が見やすいよう、自分のノートを傾けた。
「hotの比較級は〝hotter〟、tば一個増やすっちゃん。最上級もおんなじようにして〝hottest〟にするとよ」
なるほど、克美のノートには説明どおり、くりくりと可愛らしい字でhot、hotter、hottestが並んでいる。
「何でtが二つ重なるんだ?」
「tの前にoがあるやろ?単語の終わりの一個手前に母音があるときは、発音しやすいように、二つ最後のアルファベットを続けて小さい『ッ』を入れてやるとって」
なるほど。
広人はノートの端っこに今の説明を走り書きした。
「ちなみに問7のpretty、問9のheavyみたいに終わりがyのときは、yをiに変えてからer、estを付けるっちゃん」
克美は少し得意げに補足する。数学のときとは立場が逆になってしまったな………広人は苦笑した。
「克美は英語、得意なのか?」
「うん!英語はある程度じゃべれるばい。ヒロくんは英語苦手と?」
「ああ、全然ダメ。いちおう勉強はするんだけど、いまいちやる気が出ないというか、気分が乗ってこないんだよな………」
「うん、わかる。ウチもロシア語はちょっと苦手やもん。あと、中国語も地方によって発音がぜんぜん違うけん混乱したりするし……」
え?と広人。驚きで目を丸くする。
「克美…そんなにいっぱい外国語を勉強しているのか?」
「あ…」
克美は口を半開きにし、全身の動きを止めた。焦りの浮かんだ目を広人からそらし、どこか落ち着かない様子で宙を見上げている。
「え~…と、ウチ、まえ住んどったとこで外国語教室に通わされとって………それで、ちょっと…」
そう言うと、克美は側頭部をかきながら引きつった笑みを浮かべた。
ロシア語と中国語は苦手、ということは、他にも習っていたのだろう。広人は何気なく聞いてみた。
「そうか、他には何語を習っていたんだ?」
「えっと…ドイツ語、イタリア語、フランス語と、あと英語」
克美はなんとも無い様子で、文字通り指折り数えた。
さっきの二つもあわせて計六ヶ国語も勉強していたのか!?広人は尊敬のまなざしを克美へ向ける。感心したのは、なにも広人だけでは無かったようだ。後ろから筆を止めたマブダチが克美に声をかける。
「すげーなのっち!じゃあ外で外人さんに話しかけられても、のっちが一緒なら安心だな!」
「うん、そん時はまかせとって!」
克美は振り向き、ガッツポーズを作ってみせた。これだけの外国語を習得するには、一つや二つではない苦難と、長い時間をかけて積み上げられた努力があったはずだ。
(俺も見習わないとな……)
苦手だなんだといって逃げている自分が情けない。広人の眼に光が宿る。
「克美、」
「うん?」
「俺に、英語を教えてくれないか?」
決意のこもった黒眼にほだされ、克美は一瞬言葉を発することができなかった。返事をしていないことに気付き、あわてて口を開く。
「も、もちろん!よかよ」
「ありがとう」
広人が笑う。
克美はなぜ広人がこうも真剣な目をしているのかがわからなかったが、自分を頼りにしてくれていることを純粋にうれしく思った。
「ウチが教えるからにはバリバリいくけん、覚悟しときーよ」
克美が袖をまくる。満面の笑みがとても頼もしかった。
「比較には単語を比較級、最上級にするほかに〈原級を用いた比較〉というものが存在します。『A as 原級 as B』で『AはBと同じくらい~だ』、A=Bの状態ですね。そして『A not as 原級 as B』で『AはBほど~ではない』、A<Bの状態になります」
EXERCISES 1が終わり、授業内容もワンステップ上の問題へととりかかる。
広人は黒板に書かれた英文をノートに取った。原級をasではさむだけの簡単な構文だ。これくらいならすぐに覚えられるだろう。
「それでは、今から書く英文をこの形に書き直して見ましょう」
例)と書かれた下に白いチョークが踊り、一つの英文を生み出した。
〝Keiko can play the piano better than I.〟
和訳すると〝ケイコは私よりも上手にピアノが弾けます〟だ。ということは〝私はケイコほどうまくピアノが弾けません〟とすればいいわけだから…………
〝I can`t play the piano as good as Keiko.〟
で、どうだろう。
betterの原級、goodをasではさんでいるわけだから後半は合っているはずだ。前半は部分はどうだ?〝私はできない〟となるからI can`tだろ?
……………うん、合ってる。
間違いない。完璧な解答のはず、なのだが…………本当にこれで合っているのだろうか?thatとか、足りないんじゃないか?
己の解答にイマイチ自信が持てず、広人は額にしわを寄せうなり始めた。
「うん、合っとーよ」
広人の様子を見ていた克美が、たまりかねたように横から太鼓判を押した。心強く背中を押され、広人は安堵のため息をつく。
「そ、そうか……」
「ヒロくん、ホントに英語が苦手ちゃね。こんぐらいで悩んどったらテストんとき時間が足りんくなるばい?」
「うっ……」
広人がうめいた。どうやらそのとおりだったらしい。
自信がないというかなんというか、今までからは想像できないほど弱々しく見える広人に、少しときめく克美だったりする。
「…っ!?克美、よだれと鼻血が出てるぞ?」
「はっ!?」
克美はあわてて袖でよだれをぬぐい、広人の差し出したポケットティッシュで鼻血を受け止めた。
「あ、ありがとぅ……」
「わっ!鼻血?」
「野見山さん大丈夫?」
教室がざわめき始める。
広人も、急に鼻血を出した少女を心配そうに見つめる。克美は「うん、平気」と言って恥ずかしそうに笑った。
そのとき、広人の左隣からスッ……とナニかが差し出された。
白を基調とした外観に、ピンクのラインと立体的な長方形のフォルム。上辺に穿たれた穴からは、風に揺れる柔らかな羽衣がのぞいている。ポケットティッシュとは比べ物にならない存在感、見るものに心強い安心感を与える重量感。ソレを見て、広人は自分の目を疑った。
眼前に突き出されたソレは、まさしく―――――
「は、箱ティッシュ……ッ!?」
であった。
教室で箱ティッシュを眼にするという常識はずれの状況に、多くのクラスメイトは言葉を失い、またあるものは「すげー……」と感嘆の声を漏らす。
広人は左隣の席に座る前田良一に目を向けた。
「…使っていいのか?」
「ああ、使え」
広人は彼と特に親しいわけではない。広人は自分から他人に話しかけるほど社交的ではないし、前田もどちらかというと無口なほうだ。だからこれが、二人のファーストコンタクトとなる。
「ありがとう…使わせてもらう」
広人は力強く箱ティッシュを受け取った。前田はクイッと眼鏡を動かすと、無言で自分の席へと戻った。
広人は前田に底知れぬ器を感じながら、克美に箱ティッシュを渡すのだった。