強きもの
「そろそろ大丈夫かのう。距離は十全に稼いだはずじゃ」
街道の半ばまで来たところで、女はそう言い、足を止めるように促してくる。
この女が大丈夫と言ったからには問題ないと思うが、全面的に信用するわけにはいかない。
念のため耳を澄まし、敵兵の気配を確認してみる。
足音はおろか、虫の鳴き声さえ聴こえてこない。
ここまで随分距離は稼いだし、幾度となく迂曲を繰り返したため、そうそう追いつけると思えないのは確かだ。
カエラにも視線をやると、同意を示すように小さく頷いてくれる。
相棒も同意見なら、問題ない。
どうやら一息つけそうだな。
整理するべきことも山ほどある。
いくら悪運には恵まれているとはいえ、今回ばかりは流石に肝が冷えた。
体の疲れよりも、精神的な疲れの方が大きい。
「ん。流石に危なかった。ギリギリのライン」
「ああ。いくらなんでも間が悪すぎたな」
「妾もここまで走ったのは久方ぶりじゃ」
「俺たちがこんな目に遭ってるのは、あんたのせいだってことを忘れるなよ」
「固いことを申すでない少年。共に駆けた仲ではないか」
馬鹿馬鹿しい。
あんたみたいな、目的も素性もわからない人間と、これ以上肩を並べられるわけないだろ。
「まあ、大層な御託を並べてくれたことには感謝するし、あんたがいなければ、もう少し手こずっていたのは事実だ」
「礼には及ばぬ。普段は隠居したような生活を送っているのじゃ。たまには身体に刺激を与えねばのう」
「そうか、じゃあ悪いが、もう少し老体に鞭を打ってもらうぜ」
俺は腰をあげ、同じく腰をあげようとしたカエラを手で制し、刀に手をやる。
「失敬な。妾のどこが老体だと言うのじゃ。ほれ、よく見てみい」
女も同様に立ち上がり、見せつけるように全面的に身体を押し出してくる。
見た目だけなら、たしかに絶世の美人なのかもな。
器量はおろか、どこぞの遊女ですら顔負けの艷さをもち、なおかつ気品すら感じる。
だが、残念ながら中身は怪物だ。
「あんたがどこの誰であろうが関係ない。俺たちには、俺たちの矜持がある。この場であんたを無事に帰す訳にはいかない」
いままでの行動から、この女がリクセン軍に与する者とは考えられない。
だからといって、万に一つも俺たちの存在を吹聴される訳にもいかない事情がある。
これは二国間の戦争の火種に成り得る情報だ。
リクセン軍も馬鹿の集まりじゃないだろう。
曲者を捕らえ損なったからといって、身元を想像するのは、あまりにも容易だ。
俺たちがララーナの手の者だというのは、十中八九気付かれていると考えていいだろう。
ならば、補給現場を押さえられた以上、リクセンがすぐにでも奇襲部隊をけしかけてくるのは明白だ。
奇襲を奇襲として成功させるために、間違いなく強攻策に乗り出してくる。
それが噂として、街の人たちに流布されたとしたらどうなるだろうか。
そうなれば都市機能自体が瓦解し、争いどころでは無くなってしまう。
少なくとも、ララーナ軍が蜂起する姿勢を誇示してからでないと、余計な不安を煽るばかりだ。
だからこそ、今日のことを知る人間を黙って帰すわけにはいかない
「わるいな。あんたが本当に森の中を遊歩してただけなら、巻き込んだのは俺たちの方だ」
「構わんよ。平穏無事よりも波乱万丈。これもまた一興じゃ」
その言葉ひとつひとつが、倭国にいたあの人を思い出させる。
容姿も違えば、性格も似ても似つかない。
ただ、その在り方がどうしようもなく俺の師匠を思い浮かばせる。
「ひさしぶりの感覚だ。礼を言う」
「畏まることはない。妾は何もしとらん。郷愁も残響も、お主が好きに感じたまでのことじゃ」
そこまで口にすると、女は腰を上げ、俺と同様に刀に手をかける。
「名乗りはいらんぞ。勝負になどなろうはずもあるまい。然らば少年。お主の一心を込め、踏み込んでみせよ」
同じく居合の構え。
とことん嫌な奴だ。
奴の剣速は俺のそれを凌駕している。
悔しいが、それは間違いない。
その上で、あえて奴は俺と同じ剣術を使おうとしている。
自信からくる盲信でもなく、実力差から鑑みる侮りでもない。
扇動扇情で一寸を伸ばす。
ようするに、俺に全力以上の力で剣を抜かせるための挑発。
舐めるなよ。その挑発、乗ってやろうじゃないか。
「はぁぁぁぁ!」
踏み込む足にすべてを乗せ、振り切る腕に神経を研ぎ澄ませる。
一足を一速とし、一瞬と化す。
雅流一仭初伝の技『居合』。
放たれた刃は瞬く間に相手を切り裂き、断末の瞬間すら感じさせぬ絶技。
――気合も気迫も十分。しかし、絶望的に技が追いついていませんね。
俺の刃は虚空を切り裂き、代わりに女の長刀が俺の喉へと突きつけられている。
――私が本気なら、律が剣を抜く前に終わらせていましたよ。
「稀にしか見れぬ剣閃。褒めてつわすぞ少年」
女はそう口にすると、あっさりと刀を鞘に納める。
どこまで、どこまで遠いっていうんだ。
あの人の面影を重ねてしまうほどに、かつて聞かされた言葉を繰り返されたかのように。
この女と俺の差は歴然としすぎている。
自然と地面に膝をつけ、自分でも驚くほど乾いた笑い声が口からこぼれる。
「去れ、少年少女。余興の礼じゃ。心配せずとも、妾は世情に興味はない」
「その言葉を信じろと?」
「是非もない。すべてはお主らが決めることじゃ」
完敗。これ以上はどうしようもない。
「ん。ここは去るべき」
そばに来たカエラが、切実な目で見つめてくる。
ああ、わかってるよ。ここで矜持だ吟二だと駄々をこねても仕方がない。
それほどまでに、この女と俺の差は大きい。
「戦場の一期一会に反するが、可能ならば、もう一度あんたとは会ってみたい」
「うむ。其の粋や良し。精進せえよ少年。お主が高みに上り詰めたとき、その時が来たならば、いま一度、手合わせをしようぞ」
その言葉を背に、俺とカエラは都市部に向けて、逃げるように駆け出す。
切り替えよう。いまは開戦の準備が先決だ。
目の前に壁が現れたのなら、剣士として切り裂くのが本望。
いずれ必ず、この借りは返す。
「ようやく行ったか。なかなかに見所のある少年じゃったな。連れの少女も身のこなしは悪くない。しもうた。名前を聞くのを忘れておったわ。しかし、雅流一仭。久かたぶりに見たのう。よもや、この地で目にすることなど露ほどにも思うてなかったわ。精進せえよ少年」