鏡が歌う、時の詩は。
私は鏡越しの世界を、ずっと見ていて
なにもかもすべてを、ずっと見ていて
真っ黒な胸を真っ黒な炎が駆け抜けて
彼と過ごす時間を、いつも夢見ていた
◇
1.桧山光浩
それはたった数分の出来事だったのにも関わらず、俺の周りのありとあらゆるものを奪い去ってしまった。
結婚も考えていた、半年前から交際していた恋人も。
俺によく懐いていた弟も。
冬に向かう空はきっと透き通っているだろうに、俺の心だけはじっとりと湿った灰色に染められている。色のない世界はぜんぶがつまらなくて、ぜんぶが俺を嘲笑うかのようだ。
希美が死んで、二日が過ぎた。
希美のいない一日がこんなにも長いなんて。
隣で笑ってくれる恋人は、もういない。
希美を殺した犯人として、弟の輝彦が逮捕された。でも、俺はそれがなにかの間違いだと信じている。俺を理解してくれていた弟が、初対面の希美を殺害するとは考えにくいから。
そもそも、輝彦は一昨日まで海外出張に出掛けていた。日本に帰ってくることは知らされていなかった。サプライズでも仕掛けるつもりだったんだろうか。無断で俺の部屋に入り込み、そこで悲劇が起った。
ただ、そんなことは、もはやどうでもいいのだ。
……俺は疲れてしまった。
それから、未来に希望を見い出せなくなった。
希美が死んだいま、俺が生きる理由もなかった。
晩秋の温度が肌にしみる。そよぐ風も、寄り添ってなどくれない。俺はとうとう孤独になったのだ。
もとは白かったであろう、薄汚れたフェンスに手をかける。
空を仰ぐ。畜生。相変わらず、どんよりと曇ったままだ。
風が騒いで、俺の絡まり合った黒髪を少しだけ揺らした。
一息つく。
希美に会えるかな。ああ、でも、自殺した人は天国には逝けないんだっけ。前に輝彦が言っていたような気がする。そんなこと、死んでみなきゃ分からないだろうに。
まあ、もうどうでもいいや。
右足を振り上げ、フェンスを乗り越えていく。
見下ろせば、忙しなく行き交う人々が地上に蠢いている。
誰一人、俺には気づかない。他人に目を向けられるほど余裕を持ち合わせた人間など、ほんの一握りの存在だろうから。
目を瞑る。手を握り締める。唇を噛む。
そして前を見据える。高いビルの屋上に立っているからか、色味のない空は目前だ。
瞬間的に微笑んで――俺は、空に向かって飛び込んだ。
羽織っていた黒いコートがふわりと風を纏う。俺にしては珍しく中に柄物のセーターを着ていて、それが一年前に別れた彼女――名前は、川藤未央という――に買ってもらったものだったことをなぜか思い出した。
俺の人生のアルバムをめくっていくかのように、様々な思い出が脳裏に映し出されていく。
ああ、あと数秒で俺は死ぬんだ、とぼんやり思う。
だが、予想に反し、覚悟していた衝撃はこなかった。
閉じていた目を開く。なぜか俺は見慣れた道の端に立っていて、通行人から不思議そうな視線を送られていた。
――ねえ、どうして?
俺はビルの屋上から飛び降りたはずだった。恋人を亡くし、あげく弟までが逮捕され、人生の意味を失った俺が、生き続けたところでなにになるのだろう。色も光もない世界を、どうして愛することができるんだろう。
だから、俺は自分で終わらせたのだ。そうすることしか、自分を守る術がなかったから。俺は弱い人間だから。
けれど、残酷な神様は、俺を死なせてはくれなかった。
もしや、自殺は俺が死を望むあまり生み出した幻想なのか。
いや――そうじゃない。
無意識に見ていた腕時計が示す日付は、十一月二十五日……希美が死ぬ、前日を示している。
俺は、長い夢を見ていたのか。恋人と弟が俺の前からいなくなるという、長い長い悪夢から醒めたのか。
それも違う。
あの絶望感は、決して幻などではなかった。
あの虚無感は、絶対的な現実だったのだ。
だから、俺はこの不可思議な現象を信じることにする。
俺は、――おそらく、タイムスリップしたのだ。
それに本当にタイムスリップしたのだとしたら、希美はまだ生きているはず。ならば、俺の使命は明日訪れるであろう彼女の死を全力で止めることだ。そうして、輝彦の逮捕も防ぐのだ。
師走も間近な寒風が俺の頬を駆け抜けていく。寂れた街も、心なしか暖かなものに見える。
神様は俺を見放したわけじゃなかったんだ。
ひとまず、希美にメールを入れる。信じてくれるかどうかは分からない。けれど、死の予告メールを送ることで彼女自身も注意を払うだろう。俺一人が気張るよりも、二人で死を防ぐ努力をする方がずっと有意義であることに違いはない。
自宅に向かって歩きながら、俺は明日起こるだろう事件を頭に思い描いていた。
――十一月二十六日。午後、二時四十分。悲劇は起きた。希美が俺の部屋で何者かに殺害されたのだ。包丁で胸を一突き。弟も二の腕を負傷していた。凶器は俺の家にあったもので、輝彦と希美の二人分の指紋が血痕の上から付着していた。
警察を呼んだのは部屋にいた輝彦で、事情聴取を受けた輝彦がそのまま罪を認めてしまったのだった。
確かに、俺の部屋にいたのはあの二人だけで、客観的に見ればそれが正しいことは俺だって分かっている。
でも、二人と短くはない時間を過ごした俺にとっては、それは『真実』ではないのだ。頭では分かっていても、心が理解を拒むのだ。
希美からメールの返信がきた。困惑している様子だ。当然だと思う。気の強い彼女のことだ、内心では怒っているのだろう。でも、必死に訴える俺のことも無下にできず、『ハァ? 意味分かんないんだけど』という文章になったのだ。まあ、いきなり『希美は明日、誰かに殺されるかもしれない。とりあえず、暫く俺の家には近寄るな』なんて文章を送られたら混乱もする。
ああ、やっぱり、俺は希美が好きだ。
希美が生きていることが確信できたことで、目に見える世界もずっとずっと華やかで、美しく思えるようになった。
自宅に到着する。アパートと言っても差し支えのない、小さなオンボロマンションだ。階段で二階に上がり、ポケットに突っこまれていた鍵を差し込み回す。そこでドアノブを捻って……あれ、扉が開かない。まさか鍵、開けっぱなし?
泥棒に入られているかもと考えた刹那、扉が開かれた。知らない顔だったら、一発お見舞いしてやろう。
と思ったが、その必要はなかった。
出迎えてくれたのは、満面の笑みを浮かべる輝彦だった。
◇◆
私はあなたを死ぬほど愛していて
私を包む炎は激しく燃え盛っていて
滲んだ世界は、
あっという間に蒸発した
◇◆
2.桧山輝彦
刑務所に押し込まれた僕は、鉄格子に背を向けて密かに涙を流していた。兄ちゃん、ごめん。本当に、ごめん。
膝に顔をうずめて、声を押し殺す。しかし僕は、これがあのときできた最善の策だったと信じていた。兄ちゃんを守るには、これしか手段がなかったのだ。
どれほどそうしていただろう。ふと気が付くと、身体に触れる空気が変わっていた。牢獄の身の毛のよだつような重く冷たいものでなく、懐かしくて、澄み切った地上のものになっているような……。
俯いていた顔をあげる。ペンキの剥げた灰色の壁が眼前に広がっていた。ここはどこだ……と記憶を探り、兄ちゃんの住んでいるマンションだったことを思い出す。
……あれ?
数分前の自分を振り返る。日の光などとは無縁な罪人の暮らす国に僕は放り込まれていたことに間違いはなかった。しかし現に、僕はこうして太陽の恩恵を受けている。吹き付けてくる風も、最後の月が近い、酷く乾いた冷風だ。
服装を見てみると、襟にファーの付いた紫のダウンジャケットにジーパン、インナーは裾とポケットがチェック柄になっているグレーのシャツと、いずれも刑務所の中で着ていたものではなくなっている。
この服装には、見覚えがあった。
忘れもしない。僕が犯罪者となった日の前日の服装だ。
ジーパンの左ポケットに突っ込まれていたスマートフォンで、日付と時刻を確認する。
十一月二十五日、午後二時四十分。
あの日の、ちょうど二十四時間前。
自分が狂ってしまったわけではないと信じたい。何故こんなことが起きたかと問われれば、それは僕自身も分からないけど、何が起きているかと問われたならば。
僕は極めて正常だ。でも、現象は否定できない。ならば、この状況にそぐう言葉を探すしかない。そうして、僕は一つだけ、その単語を知っている。
タイムスリップ――。
他人に言ったら、馬鹿だと罵られるかもしれない。けれど、それ以外に、どう説明し、どう自分を納得させればいいのか。
こうなった以上は仕方がない。
そして、今度こそ、僕は兄ちゃんを救うんだ。
一回目に今日を体験したときは、早朝に海外出張から帰宅して自宅で寝ている頃だった。しかしいまは、こうして兄ちゃんの自宅前にいる。大きな言い方をすれば、歴史が変わったのだ。
ならば、もっと大きな歴史――たとえば、人命の歴史なんかも書き変えることができるのではないだろうか。
誰も死なない未来を描くことができるのではないだろうか。
ご丁寧にも胸ポケットに鍵が二つ入っていた。一つは僕の家の。もう一つは兄ちゃんの家の。
迷わずに僕は一つの鍵を再びポケットに戻して、階段を上がって行った。
中へ入ると、靴をそろえて、来客用に置いてあるスリッパを拝借する。そのまま洗面所に向かって、手を洗い、うがいをし、顔を洗う。刑務所ではまともに洗うことができなかったから、時間をかけてじっくり洗浄する。
フェイスタオルで水気を拭って、鏡に対面する。
罪を背負う前の、さっぱりとした表情が映し出されて――ふと、違和感を覚えた。
何故だろうか。鏡に映っているのは紛れもない僕自身であり、鏡と真っ向から対峙している以上、視線が合うのは鏡に映る僕でなければならないのに。どうしてだろう、なにか他の、「僕でない何者か」に見られている気がするのだ。
気のせい……なのかな。
居心地が悪くなった僕はその場を速やかに離れて、食卓の椅子に腰かけて兄ちゃんが帰宅するのを待つことにした。
兄ちゃんの部屋に入って十分ほど経過したとき、錆びた鉄を踏んで近づいてくる音が聞こえてきた。足音で誰だか分かる。笑顔で出迎えてあげよう。きっと、びっくりするに違いない。反応がいまから楽しみだ。
鍵が回り、ドアが開かれようとしてつっかえる。あ、僕、鍵かけ忘れてた。久しぶりに閉ざされていない世界に戻ってきたから、無意識のうちに鍵をかけることを拒んだのだ。
「兄ちゃん! おかえりなさい!」
「……ああ、輝彦かあ。焦った、鍵かかってなかったから」
「ごめん。外の世界が久しぶりで……あ」
失言。失言すぎる。こんなことを言っても、兄ちゃんは理解してくれないだろうに。
だが、僕の言葉に兄ちゃんは何故か頬を緩ませた。
「輝彦、お前もか」
「僕もって……兄ちゃんも?」
「ああ。やっぱり、そうだったのか!」
これで会話が通じるということは、兄ちゃんも同様にタイムスリップしたと考えていいだろう。
僕らは一旦部屋に入り、今度こそしっかりと鍵を閉めた。
兄ちゃんがインスタントコーヒーを淹れて、互いに一息ついてから状況を整理する。
「タイムスリップした理由……輝彦はなんだと思う?」
「えー、僕に訊かれてもなぁ。とりあえず言えるのは、兄ちゃんの彼女は、いまはまだ生きてるってことだろうね」
「ああ、さっき確認した。メールの返信が来たから、間違いないと思う」
兄ちゃんの言葉に、僕の顔が徐々に青ざめていくのが自分でも分かった。それを訝しんでか、兄ちゃんが問いつめる。
「どうした、まずいことでもあるのか?」
「……なんて、メールしたの?」
頼むから、何気ない日常会話の文であってくれ。
しかし、その願いは簡単に打ち砕かれてしまった。
「やっぱり、いきなり明日死ぬかもしれないっていうのはまずかったのかなぁ……」
考え込む兄ちゃんに、僕は少し迷って、あの日起きたことをすべて説明することにした。このままでは、兄ちゃんの命が危うい。
信じてはもらえないかもしれない。
けれど、僕は兄ちゃんを、苦しめたくはないのだ。
僕は、真剣な表情で語りだした。
帰国した翌日の一時。まだ日本に戻ってきたことは兄ちゃんには伝えておらず、いきなり顔を見せて驚かせるつもりでマンションに足を運んだ。
半年ぶりに吸う日本の空気はどこか懐かしくて、早く兄ちゃんに会いたいと気持ちを急かさせた。
チャイムを鳴らしたが、応答はなかった。仕事に出掛けているのだろうか。とりあえず僕は、鍵を使って部屋で待っていることにした。
中に入ってから気づく。どうやら、兄ちゃんには新しい恋人ができたようだ。部屋のカーテンが緑からオレンジ色になり、至るところに以前は置かれていなかった動物の小物が並んでいた。僕が日本を発った半年前はまだ彼女がいなかったから、僕が海外にいる間にできたのだろう。一年前に彼女と別れてから暫くは交際が面倒くさいと言っていたから心配していたのだが、この分なら大丈夫そうだと安堵する。兄ちゃんを取られるようで残念な気もするが、素直に幸せを喜べた。
部屋もかなり整頓されていた。兄ちゃんは掃除が苦手だから、彼女が綺麗にしているのだと察する。
「畳だああああああ!」
イグサの香りに導かれるように寝ころんで、無意味に叫んでみる。そのままごろごろと転がっていくと、黒髪がぐしゃぐしゃっとなり、なんともみっともない姿になってしまった。
でも……まあ、いっか。
いつ帰ってくるかも分からないし、と膝を丸めて顔をうずめ、暫し夢の世界に滑り込む。
どれほど時間が経ったのか、夢うつつの状況で尚も寝ころんでいると、突然背後に気配を感じ、ふと振り返った。
茶色に染めた髪をポニーテールにしている女が、包丁を握り締めて立っている。
焦点の定まっていない瞳が僕の姿を捉えて、女がぶつぶつとなにかを呟きながら近寄ってくる。
え? 誰? 鍵閉めたのに。鍵持ってるってこと? もしかして、兄ちゃんの彼女? 不審者だと思われた?
「あ、僕はにい、じゃなくて……光浩の弟で、」
だが、僕の言葉には一切耳を傾けてくれず、遂に女が大声で叫んだ。
「私は、あんたを殺したくて、あんたに近寄ったのよっ!」
両手で包丁を握り直し、じわじわと距離を詰めてくる。僕に逃げ場がないことを知ってか、それとも精神が狂いきってしまっているのか、スピードはゆっくりだ。だが、それが却って僕に状況を飲みこませる余裕を与えてしまっていて、恐怖で身体が震えた。全身の力が抜け落ちるようで、額から汗が流れた。彼女は、僕と兄ちゃんを勘違いしているようだ。確かに、僕と兄ちゃんはぱっと見よく似ていると思う。並んでいれば、十人が十人、兄弟だと答えるくらいには。
だらりと彼女の口が開かれて、恨みの言葉が紡がれていく。
「あんたのせいで……あんたのせいで未央姉は!」
そこから先は、なにを言っているのか聞きとることはできなかった。それに、僕自身にそんな余裕もなかったのだ。
彼女が馬乗りになり僕の胸を貫こうとする。それをなんとか押し返して、包丁を取り上げようと揉み合いになった。ここで僕が死ぬのは絶対に嫌だし、かといって放っておいては兄ちゃんが殺されることになる。兄ちゃんを殺すために、恋人となったようだから。ひとまず凶器を奪って、殴るなどして失神させ動きを封じ、その間に警察を呼ぼうと考えた。
咆哮をあげて暴れる彼女は、もはや人間とは呼べなかった。獣だ。復讐に取り憑かれた獣だ。
未央、という名前には聞き覚えがあった。一年前まで兄ちゃんが付き合っていた、二十七歳と兄ちゃんと同い年の女性の名前だ。仲睦まじい恋人同士だったが、兄ちゃんの上京がきっかけで遠距離恋愛になり、そのまま別れることになったという。その後彼女がどうなったかは知らなかったし、おそらく兄ちゃんにも知らされていなかったと思うが、この女の台詞から察するに、亡くなったのではないだろうか……。となると、破局に心を痛めての自殺の可能性が高い。
体重をかけて刃先を向けてくる女を横に流して、手首を捻ろうと試みる。しかし、女はするりと抜けると左手で僕の肩を掴んで動きを封じ、包丁を振り降ろしてきた。これを僕も置いてあった箪笥を蹴って避けようとしたが、彼女の方が僅かに早く、左腕に鋭い痛みが走った。包丁が僕の二の腕を貫いたのだ。だが、ここで怯んでは命がなくなる。冗談抜きで。
「僕は弟の輝彦なんですけど!」
何度目になるか分からない、人違いの宣告をすると、そこで初めて彼女の目が僕を完全に捉えた。瞬間動きが止まり、彼女の顔が驚愕と後悔に染まっていく。その隙をついて包丁を取り上げようと腕を伸ばす。が。
固まっていた表情が少しずつ解れ始め、そのままゆっくりと弧を描いた。
にやり。そんな形容がぴたりとハマる、歪みきった笑顔。
腕を伸ばした格好だった僕は受け身を取ることができず、突進してくる彼女を全力で突き飛ばすしか己の命を救う手段がなかった。
一般的には、正当防衛と言うのだろうか。
気が付くと僕は肩で息をしていて、全身が汗でぐっしょりと濡れていた。冬の気配はすぐ隣に迫っているというのに、空気は酷く熱い。
視線を前にずらすと、胸に包丁が刺さったまま倒れている彼女がいた。刃渡り十五センチほどの包丁の刃が、体内に飲み込まれている。確実に絶命していた。あばら骨などを巧くすり抜けたようだ。包丁が斜めに刺さっている。
恐る恐る彼女の身体に近寄って見る。恨みのこもった表情に、再び戦慄が走る。少しだけ立ち竦んで、魅入られてしまったかのようにその顔を凝視する。
――にや、り。
死んでいるはずの彼女が口角を歪めて笑ったような気がして、今度こそ僕は悲鳴を上げた。いままで出したことのないような、野太く掠れきった声にならない声が喉から絞り出された。膝が震えて、腰が抜けて床に崩れ落ちる。そのまま僕は叫び続けて、訳も分からぬまま世界が暗転した。
目が覚めると、兄ちゃんが帰宅していて、彼女の遺体と意識が朦朧としている僕を混乱した表情で交互に見つめているところだった。
僕は強張った身体を懸命に動かしスマホを取り出すと、警察を呼んだ。兄ちゃんは、ただただ、呆然としていた。
間もなくして警察が到着した。包丁の刺さった恋人の遺体に抱きついて泣き崩れる兄ちゃんを見て、僕は決意した。
この女が実は兄ちゃんを殺しに来たということは、一生黙っていよう、と。
だから、僕は自分が、自分の意志で彼女を殺したと供述した。罪の告白にどんな感情を込めたらいいか分からず、淡白な受け答えになってしまったが、警察は僕の言葉を微塵も疑いはしなかった。第三者が殺したと言ってもよかったが、包丁はこの家のもので、指紋も僕と彼女のものがべったり付着しているだろうから、その説は唱えにくかった。せめて、従順な態度で服役して、最短で社会復帰できる可能性にかけた。長くても、二十年もすれば出てこられるはずだ。そのとき、僕はまだ四十五。やり直しはきくと判断した。
そうして牢屋に入って、タイムスリップが起こった……。
「兄ちゃんが彼女を信頼していて、愛していることが分かって……どうしても言い出せなかった。僕が真実を話したら、きっと、ううん。絶対に兄ちゃんは悲しむから」
「そんな……」
表情の抜け落ちた兄ちゃんの顔を見ると、どうしても心が痛む。言わなければ、兄ちゃんは幸せな嘘に浸ったまま一生を終えることだってできたのかもしれない。けれど、こうしてもう一度チャンスを得た以上、僕には兄ちゃんを守り抜く義務があるのだ。
僕と兄ちゃん、事件に関わった二人が同時にタイムスリップしているのだから、あの女も同様の体験をしていると考えてまず間違いはないと思う。
となるならば、あいつにとって邪魔になるのは兄ちゃんだけでなく、真実を知っている僕も含まれることになるだろう。
虚ろな視線を宙に投げかけていた兄ちゃんは僕の方を見て、
「どうして、俺なんかのために自分を犠牲にしたんだ」
「自分の人生と兄ちゃんの人生を天秤にかけて……僕は、兄ちゃんを選んだ。それだけだよ」
僕はそう言って微笑んで、「とにかく、命が危ないのは彼女じゃなく兄ちゃんの方だ。だから、早く逃げよう」と急かす。
細かい荷物は後日取りに来ればいいと納得させて、リュックサックの中に通帳や印鑑、衣類などを詰めて家を発とうとする。
だが、僕たちの行動は、一歩及ばなかった。
玄関に立っていたのは、満面の笑みを浮かべる彼女だった。
◇◆◆
熱くて痛くて、たまらなかったの
だけど同時に、とっても寒いの
独りはすっごく寂しいの
だから、こっちに来てよ、ねえ
◇◆◆
3.八木希美
残念だったわね。でも、あんたは私の大切な未央姉を殺したのよ? 逃げるなんてバカなこと、しないでもらえる?
この前……っていう言い方はおかしいかもしれないけど、一回目のときは光浩とその弟を見間違えるなんて失敗をしでかしてしまった。あげく返り討ちにあっちゃったんだから、本当に笑えない。
でも、神様は私を見放したわけじゃなかったのね。
死しても尚、怨念として地上を彷徨っていた私は、知らぬ間に肉体を取り戻していた。日付を見て心底驚いたわ。こんなことがあるんだ。そう思った。でも、実際こんなことが起こったのよ。そしてこれは天啓だ。そう思ったわ。
だから私は、神の意志に従うの。未央姉の仇を討つの。苦しみ抜いた私の思い、あんたらにも分からせるの! 当然でしょう? 私と未央姉だけが苦しむなんてあまりに理不尽よ。
「ねえ、知らなかったでしょ。あんたと未央姉が別れて……その後、どうなったか」
玄関で仁王立ちをしたまま、私は光浩に問いかける。小首を傾げて固まる彼に苛立ちを覚えながらも、どうせあいつはもうすぐ死ぬんだからとすべてを話してやることにする。
「私と未央姉は名字が違うけど、それは私たちが異父姉妹だから。未央姉はあんたと別れてからずいぶんショックを受けてねぇ、不眠症になったのよ。私も気にかけてて、未央姉のアパートによく遊びに行ってたんだけど……。未央姉は睡眠薬を処方してもらったみたいでね、元気になってきてたからちょっと安心したわ。
でも、いまから六か月前……未央姉の住んでたアパートで火事が起きたの。原因は住人の寝たばこ。だいたいの住民は火災報知機が鳴って逃げだせたんだけど、睡眠薬を服用していた未央姉だけは、寝入ったままで焼け死んだ。一酸化炭素中毒じゃない。焼死よ。苦しくて苦しくて、熱くて、息ができなくて、本当に辛かったと思う。火事で未央姉は死んだ。ねえ、どうしてこうなったと思う? あんたが未央姉を捨てたりしなければ、未央姉は睡眠薬なんて飲まなかったのよ! 普通に暮らしてれば、火災報知機の音に気づいてちゃんと逃げだせてたはずなのよ! ぜんぶ、あんたが悪いの! あんたが、未央姉を殺したんだ! あんたが、あんたが……!」
叫びきって、息が上がる。心の中で、憤怒が、憎悪が、音も立てずに増幅されていく。
私の死を予言するメールが届いたとき、すべてを察した。弟もタイムスリップしているだろうと理解した。逃走の可能性も考えた。だから、今回は一日早く来たのだ。
そして、凶器も今度は自分で持ってきた。
肩から下げていたバックから、タオルに包んできた包丁を取りだす。刃渡り十二センチほど。この家にあるものより、数センチ短いがそれでも人命を奪うには十分すぎる長さ。
刃を研ぎ直す時間はなかったけど、それでも刃先は鋭い光を放っている。柄を握り締めれば、確かな重みが伝わった。
金属が鈍く照って、二人の間に緊張が走るのが分かる。あいつらがもがき苦しめば苦しむほど、私の気持ちは高揚していく。
一歩を踏み出す。弟が光浩の前に庇うように出てくる。その行動を見て、怒ったように光浩が言った。
「目的は俺なんだろ? だったら、俺だけを殺せばいいじゃないか……!」
「ええ、まったくその通りね」
「駄目だよ、兄ちゃんを死なせるわけにはいかないんだ!」
「素晴らしい兄弟愛ね。でも、どいてくれない? 邪魔」
包丁を振りかざして、二人の方に近寄っていく。光浩には早く死んで欲しい。それで未央姉も報われるだろうから。
人を殺すのも二回目となれば、案外手慣れるものだ。前回は精神が完全にイってしまったが、今回はしっかりと平常心でことを遂行しようとしている。
包丁の切っ先が弟の二の腕を裂いた。前回と同じ箇所だ。でも、私は焦らない。後ろに本当のターゲットがいることをしっかり理解している。
そのままじわじわと攻めていって、洗面所の方までやってきた。腕を押さえながらも、弟は兄の前から離れようとしない。光浩も弟をどかそうとしているが、彼の根性も素晴らしいもので、私をキッと威嚇して臨戦態勢に入った。
弟が私の方に向かってくる。光浩が止めようと手を伸ばす。私はしっかりと腰を落として、刃を彼に定める。兄の制止を振り払い、彼が包丁を持つ腕を押さえる。前回は揉み合っている間に力量の差もあって逆に殺されてしまったが、同じ過ちは繰り返さない。
私は、そのまましゃがみ込んだ。
バランスを崩した弟が、私の方に倒れこんでくる。私は肘を固定して、刃先を上に向けたまま絶対に動かさなかった。
肉を裂く感覚が指先に伝わる。生温い血が垂れてくる。腹部から、包丁の柄が生えている。額に汗を浮かべながら、弟は私の首を絞めてくる。私は柄を激しく動かして、痛がる彼の一瞬の隙をついて抜け出すと、一気に凶器を引き抜いた。
鮮血とともにどす黒い血が飛び散って、鏡を汚す。血に濡れた凶器を握り締める私を映すのも、血に濡れた鏡だ。
命を手放そうとしている弟の姿に光浩は涙を流しながら、私を睨みつけてなにかを叫ぶ。私は無言で額に付着した血液を袖口で拭って、復讐の相手に刃先を向ける。
ふいに右側から視線を感じて、私は戸惑った。右といえば鏡がある方向だ。だが、いまここで鏡を確認するわけにはいかない。敵から視線を外すなど、もっての他だ。
――未央姉、仇は、絶対に討つから。
包丁を横にして勢いよく切り裂く。光浩は目を瞑ったままで、避けようともしなかった。もともと、こいつは死ぬつもりだったのかもしれないと感じた。でも、初めから死んでもよかったのなら、恋人の私に殺されて本望でしょう?
動脈を包丁が通過して、一瞬遅れて血の花が辺り一面に咲き誇る。飛沫をあげて飛び散る赤に、美しさを見出す。
役目は果たした。私は笑いながら、赤く汚された鏡にその姿を映す。血で見にくくなっているが、この汚れは私に相応しいと思う。
鏡の奥に映る自分は笑っていた。そうして、自分以外の視線もしっかりと感じた。
――ねえ、未央姉なんでしょう?
私に向けられる視線は、嫌なものではなかった。むしろ、感謝されているかのような、柔らかいものに感じられた。
――私、頑張ったから。あいつを、葬ってやったから。
達成感に満たされたまま、私は、自らの首をかっ切った。
◆◆◆◆
自殺をした人は天国には逝けないんだと
そう誰かが言っていた
だからあの人は、私とは会えなくなった
それならぜんぶ、やりなおさなきゃ
時計の針を逆さに回して
さあもう一度、その時を
おめでとう、ありがとう
今度は成功、シナリオ通り
あの人は、私の世界に来てくれた
これで私とあの人は
鏡の国で二人きり
愛してる、この身を炎が焦がすほどに