運命
5
『おおっとぉぉぉぉぉ! 信じられません! 序列第二位ユウヘイ、まさかの一回戦敗退ッ! そして序列最下位のミチオ、まさかま・さ・か・の大金星! 《ジャイアントキリング》ここに爆誕だぁぁぁぁぁ――おっ?』
カナエの実況が突然途切れた。教室中の視線を集めるミチオが、懐から一枚のCDを取り出したからだ。
ミチオが鋭いスナップで音楽担当の生徒にCDを放った。「三曲目をかけろ」というミチオの言葉。そして流れてきた音楽は、余りにも有名すぎるオープニング。
『これは……ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン作曲! 交響曲第五番ハ短調作品67--《運命》!』
カナエが叫ぶ。
繰り返される四つの和音を背に、ミチオが口を開いた。
「フフ、クフフフフ、キヒャッヒャッヒャッヒャ……そうだ――俺がお前の運命だ、タカフミ。敗北という名のなぁ!」
凶悪な笑みを浮かべ吠えるミチオに、タカフミもまた笑った。極上の激闘の予感に狂喜がこみ上げる。
「おもしれぇ」と、タカフミが両手の拳を鳴らした。「敗北の運命? そんなクソッタレな運命、俺のこの拳で粉砕してやるぜ」
ミチオが狂気的な気配を身に纏いながら、教室をゆっくりと縦断する。《運命》をその背に負って。その異常な空気に、通路に面した席に座る級友たちが身を引いた。
入れ替わるようにハツミがユウヘイの元へと駆け寄り、その身を起こす。
「まさか、ユウヘイがミチオに負けるなんて……一体何があったのよ!」
ユウヘイはわからない、と首を振った。
「侮っていた――といえばそれまでだが、本当に何が起こったのか理解できなかったんだ。いや、そうじゃない」
立ち上がって埃を払うと、ユウヘイは慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「解らなかったのは、ミチオの変貌だ」
「変貌?」
ひとつ頷いて、ユウヘイは先ほどの闘いを想起した。
「僕はこのクラスで行われた、全ての勝負の結果を記憶している。勝敗はもちろん、どの試合で誰が何の手を出したのか、傾向や癖、勝率や出す手の分布まで完璧に分析にしているんだ。そこから導き出される作戦こそ僕の序列を支えている」
ハツミが頷く。理知的かつ合理的に行動を決定するユウヘイは、相手の心理に罠を仕掛ける戦法を得意とするハツミにとって最も苦手とする相手だ。
「しかし、ミチオに限ってデータが当て嵌まらなかったんだ。ここ二カ月ほど、一切勝負をしていなかったうえに元々のデータ量自体が少ない」
しかも、と苦々しげに先を続ける。
「少ないながらも過去のデータから導きだされるミチオは、パーを主体とした典型的な直線勝負型――心理的な揺さぶりを仕掛けたり確率を頼みにしない、要するに馬鹿正直に普通のじゃんけんしかできない奴のはずだったんだ」
「けど、そうじゃなかったってことね」
「ああ。あいつ――全ての試合を拒否していた二か月間に、全くの別人みたいになっていたんだ……!」
戦慄に身震いしたユウヘイが正面を見る。教壇の上でミチオと、タカフミが闘志を剥き出しに睨み合っている。
激突は目前にして必然。カナエのアナウンスが響き渡る。
『さぁぁぁぁぁぁあ、白熱してまいりました決勝トーナメント! 最後の闘いの火蓋が、今切って落とされるッ!! 《王者》の貫録で決勝戦に進出したタカフミに挑む挑戦者――その名は《ジャイアントキリング》ミチオ! 序列最下位にして《ブリザード・エッジ》を食い破ったその実力は本物か? 間もなく――ゴングです!』
教壇に並び立った二人の視線がぶつかる。物理的な圧力さえ伴って――いっそ本物の火花が飛び散るかのようだ。
「くくっ、くひひひっ」
口の端を歪めるようにミチオが嗤った。
「……なにがおかしい?」
「なぁに。遂にこの時が来たなと思うと嬉しくて嬉しくて仕方ねぇんだよ。やっと来たぜ、王様をぶっ潰せる時がなぁ」
ミチオの凶悪な笑顔に、教室中の皆が戦慄を覚えた。彼らが知っているミチオは、こんな笑い方などしなかった筈だ。どこか気が弱く、いつも厄介事を押し付けられては困ったような顔をしていたミチオはどこに行ったのだろう。心やさしく飼育小屋のウサギの世話を嬉しそうにしていたミチオは、一体どこに行ったのだろう。
「……一体何がお前をそこまで変えてしまったんだ、ミチオ」
「けっ。ずっと《王者》に君臨していたテメエにはわかんねぇさ」
吐き捨てるように言うと、ミチオはタカフミに立てた人差し指を突きつけた。
「まさか、受けないってこたないよな、王様ァ?」
『おおっと、これは……ッ。ミチオ選手《王者》相手にまさかの《炎の一本勝負》を要求だァァァッ!』
カナエが驚愕の声を上げた。
通常、大会決勝戦は三本先取が基本となっている。しかし両者の合意が得られた場合に限り、その数字を変更することができるのだ。そして読んで字の如く《炎の一本勝負》は、たった一度の勝負に全てを賭ける、正に一撃決着の闘いだ。
だが。
「ミチオ、お前……わかって言ってんのかよ」
タカフミの目がスッと細められた。
『そう……《炎の一本勝負》は《決闘》の公式ルール! つまりこれはミチオ選手の、《決闘》全勝不敗神話絶賛爆走中《王者》タカフミの土俵に殴り込み宣言なのです!』
「キヒヒッ」
ミチオが、立てた人差し指を降ろして――中指を立てた。次いで、親指で首を掻き切る仕草。
「ほう……なるほど。殺される覚悟はできているってか。上等だテメエ……」
大きく息を吸って――吐き、再び吸う。
へその下、所謂丹田に意識を集め――五体に等しく拡散させる。体のどこかに意識を寄せるのではなくて、心と身がぴたりと重なるように。指の先まで。爪の先まで。力みなく、澱みなく、タカフミは右拳を腰だめに引いた構えを取った。
ハツミ戦で見せたのと同じ構えだったが――質が全く違う。その張り詰めた緊張感と、自然さ。それらが拳に秘められているその圧力を静かに、しかし雄弁に語っている。
「……地獄の閻魔様への挨拶は考え終わったか?」
「ヒャハッ、王様も結構言うねぇ」
ミチオが眼前で両腕を交差させた。次いで肘を引き、上半身を前傾させる。それはあたかも猛禽が獲物に今まさに襲い掛からんとするような構え。ミチオの瞳に力が――強烈な殺気が満ち溢れてくる。
最早激突は必至。
教室中が波が引く様な静けさを得た。その瞬間、突風に乗って雨が一瞬窓を強く打った。次の一瞬で、間断無いはずの雨音が途切れた。
じゃん!
全く同時に、両者が叫ぶ。
タカフミが右腰を奥へと捻った。全力を載せた一撃を放つための、最後の《溜め》だ。
ミチオは前傾した上半身を、更に沈みこませる。跳ね上がる勢いを利用した、下からの一撃を放つ最後の予備動作。完全に真上を向いた両腕が、禍々しくも雄々しい猛禽の翼に見紛うたのは一人や二人ではなかっただろう。
けん!
弾かれたように、二人が動く。
撥条仕掛けのように跳ね上がるミチオの上半身。限界まで伸びきった背筋が収縮し、撓められた腹筋と踏み込んだ右足が急激に体を起こす。その作用で右腕が半円を描き、下からタカフミ目掛け襲い掛かる。
一方。
教壇を蹴るタカフミの左足。踏み込んだ右足。回転する腰。背骨の一つ一つが連動し、突き出される右肩。延ばされる肘。そして打ち出される右拳のチョキ――切り裂くのは、下から伸びあがってくるミチオの右手。
――刹那。
タカフミの視界右側から、襲いかかる何かがあった。
(……ッ!?)
それは咄嗟の判断だった。打ち抜く直前の右拳のチョキを倒れ込むようにして無理矢理に引いた。代わりに差し出すのは、ゆるく握った左手のグー。
ポン!
タカフミの左手に、何かがぶつけられる硬い手応え。
『おおっと、両雄激しく激突――ッ!! 互いにグーで、あいこだぁぁぁぁぁぁぁッ!!』
「……咄嗟の判断とは言え、今のを凌ぐとはやるじゃねぇかタカフミ。流石は《王者》」
感心したように ミチオが言う。突き出されているのは、右手ではない。
左手のグーだった。
「…………ッ!」
カナエのアナウンスとミチオの言葉に、タカフミは今の一瞬に起きたことを正確に理解し、そして驚愕の表情を浮かべた。
「な、何よ今の……!?」
教壇を見上るハツミが驚きの声を上げた。
二人が激突する刹那の瞬間、タカフミが体勢を崩した。全力を載せた右腕ではなく、突如左腕を突き出したのだ。
そしてぶつかり合ったのは両者の左手。互いにグーである。
傍らに立つユウヘイが呟くように言った。
「僕がやられたのと同じだ……」
「ええッ? ど、どういうことなの?」
「ミチオの奴は下から打ち上げる軌道の右腕……そちらに注意を寄せておきながら、全く別の軌道を取る左腕を振るったんだ。タカフミからしてみれば視界と意識の外から突然飛んできた左腕――タカフミの右のチョキを打ち砕く、硬いグーさ」
「そんな。でもそれって……」とハツミが食ってかかるように反論する。
しかし冷静にユウヘイは解説を続けた。
「勿論左右の同時出しは反則だ。けれど、ミチオの右腕は上がりきっていない。有効打は左なんだよ。咄嗟に右腕を引いて左を出したタカフミも同様さ。だからあいこになった」
もっとも、ほんのもう僅かにでも反応が遅れていたら右のチョキを破られるか、或いは《遅出し》として反則負けだっただろう。賞賛すべきはタカフミの反応速度である。
「それでも、反応できたってことは、タカフミにはこの技が効かないってことよ! この勝負、タカフミに歩があるわ!」
ハツミの、自分に言い聞かせるような言葉にユウヘイは応えなかった。不満そうなハツミの視線に、ユウヘイは首を振る。
先ほどの一回戦、ユウヘイもまた一度目は何とか反応し、あいこへと持ち込んだ。しかし、あの技の恐ろしさはむしろそこからが本番だったのだ。そのことを口にすればタカフミの耳に届いてしまうかもしれない。真剣勝負を穢す行為。だから何も言えないのである。
傍らのハツミがユウヘイの袖を引いた。その顔に、少なからぬ不安が表れている。口ではタカフミの有利を叫びはしても、ユウヘイの態度から今の技の持つ更なる危険性を察知したのだろう。
彼女もまた序列上位に名を連ねる闘士である。さすがと言うべきか。
「前に行きましょう、ユウヘイ。嫌な予感がする」
真摯な眼差しに、ユウヘイは頷いた。
じゃんけんの皮を被った何か。