予選
2
「降ってきたな……」
誰かがそう呟いた。いつの間にやら窓の向こうではぽつりぽつりと降り出した雨が次第に勢いを増していくところだった。曇天はなおも暗く重く、窓に流れる水滴の数は見る見るうちに増えてくる。本降りになるのは間もなくと思われた。
しかしこの教室の生徒たちにとって、雨のために運動場で遊べなくなった昼休みの事よりも、目の前の勝負のことが重大だった。
「じゃん、けん、ぽん! あい、こで、しょ!」
その掛け声が、教室の至る所で起こっていた。掛け声の度に湧き上がる勝鬨の声と敗北の呻き声。プリン一個を二十四もの数に等分することなど不可能であるし、望む者などいない。
「よっしゃぁぁぁッ」
「くっそぉ、また予選落ちだ俺」
一つまた一つと闘いが終わり、勝者と敗者が格付けられていく。
チサト先生は、公平さと平等の尊さについて生徒たちに教えてきたつもりだ。しかし、一方で勝負というもののと、厳格なまでの非情さについて否定するつもりはなかった。勝者には栄冠を。それこそが勝利を目指して努力する者たちに公平かつ平等に与えられるべき権利だからだ。それが、中学高校とバスケ部で鳴らしていた彼女の持論である。
「しかしまぁ、プリンでここまで熱くなれるのは小学生だけの特権かなぁ」
教室内で沸き起こる悲喜交々にチサト先生は感心した。確かに彼女自身も小学生時代、給食時に余ったデザートを掛けたじゃんけん大会に熱くなっていた。これが仮に、親に買ってもらったプリンを兄弟同士で争うのであったのならここまでのヒートアップはないだろう。それほどまでに魅力的なものなのだ。給食のプリンというものは。
このクラスでは参加者多数のじゃんけん大会が開かれる場合、各ブロックの予選を勝ち抜いた児童――いや、戦士たち四名による決勝トーナメント方式を採用とする。月に一度の席替えによって形成される六名構成の班分けをそのまま予選ブロックとして利用しているのだが、予選の方式は各班ごとに自由としている。六人同時のじゃんけんでも良いし、班内勝ち抜きでも良い。
『さぁ、そろそろ各班の勝者も決まってきた頃でしょうか』
と、いつの間にやらチサト先生の隣にやってきた眼鏡の女子生徒がマイク片手に喋り出した。放送委員に所属するカナエである。クラス内じゃんけん序列第二十位。将来の夢はスポーツの実況アナウンサーということで、彼女にとってはプリンよりもこうやって実況役を務めることの方が魅力的らしい。今回も早々に予選敗退を決めてきたようだ。
『山田くん提供《じゃんけん大会プリン争奪戦 山田杯》の模様は、わたくし金本カナエ実況でお送りいたします。解説役にはチサト先生をお迎えしました。どうも先生、今日はよろしくお願いいたします』
カナエがもう一本マイクを取り出して、先生に向ける。毎度のことながらどんどん本格的になってくるな、とチサト先生は苦笑した。マイクのコードを辿れば録音機器に接続されていて、二人の後ろでは放送部の連中が三脚に乗っけたハンディカメラを回している。このままではいずれ動画サイトで生放送とか始めてしまいそうだ。
『先生は、今日の予選どの選手が勝ち抜いてくると予想されますか?』
『そうねぇ……』とチサト先生は思案した。『今回の予選ブロック序列上位が綺麗にバラけているからね。順当に四天王が勝ち残ってくるんじゃないかしら』
『なるほど』
カナメが先生の言葉に頷いた。
じゃんけん大会が盛んなこのクラス内において、先生を含めた二十五人にはじゃんけん序列というものが定められている。序列はクラスの生徒二名以上を見届け人とする入れ替え戦――通称《決闘》によって決定される。下位は激しく入れ替わるものの、上位四名はこの数カ月不動だった。
人は言う。畏怖と尊敬の念を込めて、彼ら四人を《じゃんけん四天王》と。
その実力は折り紙つきで、この手の大会の決勝戦に進出する回数も多い。
因みに賞品付きの大会には参加しないがチサトの序列は第十五位。半分よりちょっと下あたりだが、四天王とのじゃんけん対戦の戦績は全員に負け越している。
そして思うのだ。たかがじゃんけん、されどじゃんけん。
一対一のじゃんけんにおいて、勝つも負けるも引き分けるも、確率論で言えば等しく三分の一に過ぎない。しかし彼らのように勝率が高いのにはそれなりの理由がある。単なる幸運というだけでは片づけることのできない何かが。
『さぁ、どうやら各ブロックの予選が終了したようです!』
鼻息も荒くカナエが叫んだ。
『ご紹介しましょう! 選ばれし、四名の闘士たちを!』
教室中が割れるような歓声に包まれる。どこからともなく音楽が流れてきた。マドンナの名曲《hang up》である。突如男子数名が立ち上がり――音楽のリズムに合わせて踊り出した。躍動感溢れるグルーヴに乗せて――これはPVのシーン再現だ。
『第一ブロック予選を勝ち抜いたのは――序列第三位! 小四にして既に大人の艶香すら漂わせるその肢体! その魅惑の前に全ての男は惑い最早彼女に平伏すのみ! 天使の微笑と悪魔の魅惑! 下僕ダンサーズを引き連れての登場、《ナイト・パフューム》川瀬ハツミだぁぁぁぁぁッ!!』
ダンサーたちの列が割れて少女が姿を現した。リズムに合わせて腰を左右に振りながらキャットウォーク。際どい切れ込みの胸元とミニスカートからすらりと長い脚を見せつけながら、教室を横切って教壇に立ち、教室に居並ぶ生徒たちに妖艶な投げキッス。
甘いピンクのルージュを引いた唇に過剰な艶美さと年相応のあどけなさを残した少女、川瀬ハツミである。
少女が既に舞台と化した教壇の中央から端に場を譲ると音楽が変化した。打って変って今度はクラシックである。グスターヴ・ホルスト作曲《組曲 惑星》より《木星 快楽をもたらすもの》だ。重厚な弦楽器が重なり合う、曲中で最も盛り上がる部分を背景音楽として立ち上がった少年がいた。
唸りを上げる観客達の声援に、彼は眼鏡を押し上げて答えた。ハツミが熱狂と興奮を連れてきたのならば、彼が率いるのは冷静と沈着――しかしその裏に潜む、勝利に対する獰猛なまでの渇望。
『そう、この音楽をテーマ曲に選ぶのは彼しかいない! その頭脳にインプットされた莫大なデータ、そこから紡ぎ出される完璧なる作戦に死角無し! 吹き荒れる冷徹と冷酷の刃の前に、全ての敵は凍りつくのみ! 第二ブロック代表――序列第二位!! 高野ユウヘイここに見参ッ!!』
悠然と教壇に立ったユウヘイは大きく右腕を掲げ、天を指さす。
「……木星は、ローマ神話で言う主神ジュピターをその化身としている。この曲を背負う以上、序列第二位など何ら意味をなさない。僕に相応しいのは、第一の称号だけだ」
ユウヘイが右腕をゆっくりと下ろし、窓際に座る少年タカフミを指さした。
「今日こそ君をその座から引きずり下ろすよ」
「おもしれぇ……」
ライバルの挑発に、タカフミが立ち上がった。再び音楽が変わりイントロが流れてきたその瞬間、教室の中が一つになった。ダンダン! と足を踏み鳴らし、パンッと両手を打ち鳴らす。三十年以上もの歳月を経てなお色褪せぬロックの名曲、クイーンの《we will rock you》である。
どこまでも突き抜けるようなフレディ・マーキユリーの声を背負い、少年が教室を征く。
教室中が「we will we will rock you!」と合唱を始めた。その暴力的ですらある迫力。教壇の上で待ち構えるハツミとユウヘイが思わず唾を飲み込んだのも無理なからぬことだった。
『そう……この男がいなければ闘いは始まらない! 第三予選ブロックを豪腕で打ち砕いた男。じゃんけんという確率の勝負においてさえ大会優勝率五割、《決闘》に至っては全戦全勝を誇る無敵の《王者》! 津峰タカフミ降臨だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!!』
教壇に立ったタカフミが右腕を突き上げた。同時に巻き起こる歓声。
「そうだなユウヘイ。テメェとはそろそろ決着をつけなければならないと思っていたところだ。いい機会だし、直々に引導を渡してやるぜ」
「そんなことを言っていられるのも今のうちさ。作戦パターンは数万通り。文字通り千変万化する吹雪の刃で切り伏せてあげるよ」
タカフミとユウヘイが視線をぶつけあう最中に割って入る影があった。決勝トーナメント参加者の一人、ハツミである。
ミニスカートから伸びるカモシカのような脚を男子二人に見せつけるようにして少女は少年たちを見る。
「私を忘れないで欲しいわ、二人とも?」
と、ハツミは艶然とした笑みを浮かべた。指先を顎に這わせ、喉元から胸にかけてのラインを強調する。ふわりと漂う香水の香り――彼女が愛用している、シャネルの五番。
「この闘いが終わった時にプリンを手にしているのは、私」
タカフミはハツミの瞳の奥に灼熱の炎が渦巻いているのを見た。熱い闘いの予感にタカフミは笑みを覚える。少女もまた、侮る事などできない歴とした一人の兵なのである。
「そしてあなた達二人は私の足元に無様に這い蹲っているの」
「その言葉、そっくり君に返すよ」
「あら、ユウヘイったら。《ブリザード・エッジ》で脳みそに深く刻んでおくといいわ。定まった未来が覆ることはありえない、とね」
「能書きはどうでもいい」とタカフミが不敵な笑みを浮かべた。獰猛な、肉食獣の笑みだ。
「実力のあるものが勝つ。それだけだ。未来もくそもない。それだけが俺たちの真実。そうだろう?」
ユウヘイとハツミが首肯した。タカフミと同じ笑みを浮かべて。
『さぁ、早くも壇上では熱い火花が散っているぞ! それでは第四予選ブロックを勝ち抜いた、最後の戦士を紹介――えっ?』
アナウンスのカナエが突然素っ頓狂な声を上げた。教室中の耳目が一斉に彼女に集まる。
『し、失礼いたしましたッ』
慌ただしくカナエが見た先で、音楽担当の生徒が両腕を交差させていた。曲が無い、と言っているのである。曲持ちは序列十位以内だけに許される特権であるから、まさかの下位からの決勝進出者が出たということだ。
「……? どうしたのかしら。その程度でカナエがアナウンスをトチるなんて珍しい」
ハツミが小首を傾げる横でタカフミは別のことを考えていた。
予選第四ブロックには序列第四位のマサキがいる。しかし同時に五位、七位、八位と一桁台の猛者たちがひしめき合う今大会随一の激戦区でもあった。たとえ《王者》の号を冠する自分であっても、連携されたら予選を勝ち抜くのは難しいと言わざるを得ない。
さぁ、誰が来る? 『疾風迅雷』のマサキか? 『業火絢爛』のヨウコか?
しかし、コールされたその名前に、タカフミは驚愕した。ハツミやユウヘイも同様だっただろう。
『なんという大番狂わせ! 序列一桁がひしめき合う最大の激戦区を勝ち抜いたのは、なんとクラス内じゃんけん序列二十五位!! 大会決勝戦へ駒を進めるのはこれが初めて。果たして今大会の台風の目となるのか!? そのダークホースの名前は――畑野ミチオだぁぁぁぁッ!』
気恥ずかしそうに照れながら立ち上がった少年が照れた笑いを浮かべると、最も意外な者が勝ち抜いたことに教室中が騒然となった。教壇に立つ三人も同様である。
「よ、よろしくお願いいたしますぅ……どうかお手柔らかに」
壇上で気炎を吐く三人の横に、弱腰な感じが否めないミチオが申し訳なさそうに並んだ。
「まさかミチオが勝ち上がってくるとはね。まったく意外だったよ」
ユウヘイが呟き、ハツミがその言葉に質問を重ねた。
「ミチオの戦績は?」
「大会予選突破はこれが初めてさ。一対一の《決闘》においてすら勝率は僅か二パーセント。しかもこの二カ月は《決闘》すら行っていないよ」
「……なに? それはどういう……」
タカフミの疑問の言葉は途中でカナエの興奮したアナウンスに遮られてしまう。決勝戦の開始だ。何時までも喋繰っている場合ではない。今は闘いの時なのだ、とタカフミは自分に言い聞かせる。
『さぁ、それでは決勝戦第一回戦、間もなく――試合開始ですッ!!』
アナウンサー・カナエが叫び、教室中から歓声が上がった。照れた素振りで俯き頭を掻くミチオが、ほんの僅かだけ口の端を持ち上げて笑ったこと気が付いたのは誰もいなかった。
もうこれ、小学生じゃないよね。