多摩川でクジラを見つけた
城木アキトは平凡な高校二年生だ。
つい一週間前、ここ、東京都昭島市に引っ越してきた。と、いうのも、最近アキトの両親が離婚して、父親が仕事をしていた場所が偶然昭島だったのだ。特にこれといった理由はない。
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季節は秋になり、学生には丁度二学期が始まった頃、アキトは昭島に流れる大きな川――多摩川のすぐ近くにある普通の高校に転入することになった。
簡単に自己紹介をして、すべての授業が終わると、それが決まったことのようにクラスメイトが続々とアキトの机に集まってきて、あれこれとアキトは質問攻めにされた。
質問攻めが終わり、アキトは足早に教室から飛び出す。
アキトはあまり人と話すのが好きではない。好きでよく話す相手はペットの犬であったり、猫であったり、はたまた魚であったりする。
アキトは人間以外の生き物と会話するのが好きだ。と言っても、別にアキトは犬や猫、魚と会話ができるわけではない。互の目を見つめ合い、心が通い合っているようなあの感覚。あの感覚がアキトにとっては「会話」であり、唯一好きなことでもある。
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廊下を歩いていたら、「おい」と後ろから声をかけられた。
なんだろう? と振り返ったアキトは声の主に目をやる。
「よお。転入生」
そこに立っていたのは、同じクラスの体格の良い男子生徒だった。確か名前は、松下コウセイだった気がする。
「はあ、僕になにか用ですか?」
「まあな。ちょっと勧誘しに来た」
「勧誘?」とアキトは首をかしげる。
「部活だよ。この高校の新聞部」
「ああ」それを聞いてアキトは頷いた。なんだ、部活の勧誘か。これもクラスメイトに質問責めにされるのと同様、転入初日にはありがちのパターンだ。つまりお約束みたいなやつ。
しかし残念ながら、アキトはあまり新聞部には興味がない。「すいません。新聞作りにはあまり興味がなくて」
コウセイは首からぶら下げた小型カメラを手に持って苦笑い。「まだなにも言ってないんだけどなあ」
「でも、本当に興味なくて」
「それじゃあ、一度で良いから部活を見学しに来て欲しい。見に来るだけでも良いから」
「でも……」
「見に来たら、興味が湧いてくるかもしれない」
「見に来たら?」
「そうだ。もしかしたら、興味が沸くかも」
なるほど、と考える。アキトは中学校生活の三年間、どの部活にも入っていなかった。それはアキトが人と話すのが嫌いだったからだし、特にやりたいことがなかったからだ。それなら――やりたいことがないなら、自分で勝手に作れば良い。それは例えば、部活を見学しに行くことだ。この男子生徒はそういうことを言いたいのだろう。
「分かりました。では明日、部室を見学しに行こうと思います」
「そっか。それじゃあ、また明日」
「はい」
「面白いスクープとかあったら持ってこいよ」と言って、コウセイは嬉しそうな顔で笑うと、アキトとは反対側の方向へスタスタ歩いていってしまった。
その後ろ姿を見て、これでやりたいことができたら良いな、とアキトは思った。しかし同時に、我ながら面倒臭い約束をしてしまったな、とも思った。
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アキトの父親は多摩川付近にあるゴミ処理場で働いている。だから当然、アキトの家は多摩川のすぐ隣にあった。二階建てのボロアパート。そこが今のアキトの帰る場所だ。
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学校から出た。
アキトは多摩川の土手を歩いていた。自宅が多摩川のすぐ隣なので、まあ当然と言えば当然か。この土手を通るのは今日が初めてだが、これから高校を卒業するまで毎日通り続けることになる。
アキトは周囲を見渡した。橋と、河原があった。河原には少し傾斜があるコンクリートの階段を使って降り立つことができる。そこに自然豊かな「多摩川」が流れている。どうせ家に帰っても父親は夜遅くまでいないからつまらない。アキトは「多摩川」の河原で時間を潰すことにした。
スクールバックを放り投げてゴロリと寝転がる。
河原は芝生のようになっていて、絶好の昼寝スペースと言えた。頭の上で手を組んで、アキトは空を見上げる。時刻はもう夕暮れ、空は真っ赤に染まっている。この辺に人は少なさそうだ。遠くの橋をときどき車や自転車が通るだけで、他人の目を気にする必要はなさそうだった。
スクールバックの中身をあさった。今日は確か音楽プレーヤーを持ってきていたはずだ――なかった。せっかく良い曲を昨日落としたばかりなのについていない。だが、たまには川の流れを聞いてみるのも悪くないだろう。アキトはプラスに考えた。秋の風が肌を撫で、川のせせらぎが耳に心地良い。まさに自然が生み出した音楽だ。
「ふわあ」とあくびが出る。すっかりアキトはリラックスしていた。以前住んでいた都会にも河原はあったが、自宅からかなり遠かったので、行く機会はほとんどなかった。
河原でゴロゴロすること――それはアキトには新鮮な体験だった。
今度は必ず音楽プレーヤーを持ってこよう。そして昼寝をしながら静かなオーケストラを聞くのだ。「モルダウ」なんかどうだろう? きっと「多摩川」の雰囲気にぴったりだ。……いいや、「モルダウ」はそんなにおとなしい曲ではない。あれはチェコの西部を流れる雄大なモルダウ川をモチーフにして作られた曲だ。「モルダウ」は静かで、もっと激しいオーケストラだった気がする。アキトはモルダウ川を頭の中で想像してみた。
と、その時、
「おい、そこの少年」
突然、大人っぽい声が聞こえた。
「……?」
アキトはのろのろと起き上がり、声の主を探す。
川の水面から黒い生き物がひょっこり顔を出していた。
見た目は小柄なクジラのようにも見える。もしかしてコクジラの仲間かな? それにしてもかなり小さいが。……いや待てよ? なんで川なんかにクジラがいるんだ?
アキトは近づいていって、黒い生き物を注意深く観察した。黒の光沢がかかった頭と、大きな瞳。水に浸かっているので全体像は分からないが、それでも一メートルあるかないか程度のサイズだ。クジラにしては小さすぎる。
「むう」とアキトは唸った。そういえばこのクジラ、さっき喋らなかったか? 見たところ、周囲に人は見当たらない。となれば、声を発した相手も限られてくるはずだ。河原周辺にはアキトとクジラしかいない。――やはりこのクジラが喋ったのか?
「私はアキシマクジラだ」とクジラは言う。本当に、喋った。
「アキシマクジラ」アキトは気になった単語を繰り返した。アキシマクジラというクジラは知っている。昭島市の市役所で確か化石の一部が展示されていた、あのクジラだ。
アキシマクジラは新生代の生き物である。新生代といえば今から約一六〇万年も前。アキシマクジラはここ、昭島がまだ海の底だった頃に生活していた哺乳類なのだ。とっくの昔に絶滅したと思っていたが、まさかまだ生きていたとは。しかも喋るクジラときた。もはや驚きを通り越して、アキトは面白いとまで思い始めていた。
せっかくなので、アキシマクジラとお話してみることにした。
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「僕に何か用でも?」今日で二度目のセリフ。
「久しぶりに、人間と話したくなってな」
「ふうん。でも、どうして喋れるんです?」とアキトは質問した。
「私はアキシマクジラだからな」と川の水面からクジラが言う。
「答えになってません」
「私はエリートのクジラだから人間と話せるんだよ。覚えておけ、少年」
「はあ」
「それに」とクジラは言う。「アキシマクジラは、実は環境の変化に強い」
「実は?」
「人間の研究者にはまだ知られていないからな。とにかく、アキシマクジラは環境の変化に強い。だから昭島ができた時も海から川へ、生活場所を変えることができた」
「そのとき体が小さくなった」
「そうだ。昔は十六メートルくらいあったが、今ではたった一メートルちょっとになってしまった」
なるほど、とアキトは頷いた。「生き物」は環境の変化によってその姿さえも簡単に適合化させてしまう。その結果が、今のとても可愛らしいアキシマクジラを作り上げたのだ。昔はもっとかっこよかったんだろうなあ、と、アキトは少し可哀想に思った。
アキトは話題を変える。「家族はいるんですか?」
クジラはニカッと口を開いて言う。「もちろん」
「やっぱり川に住んでいる?」
「いいや、家族は海にいる」
「海」
「ああ。イマドキのアキシマクジラは、淡水でも海水でも生きられるのさ」
イマドキってなんだよ、とアキトは思ったが口には出さない。「すごいですね」
「まあな」
「あなたが川に住むのは勝手ですが、多摩川は少し危険かもしれないですよ」
「タマゾン川のことを言っているのか」
「はい」
こんな話がある。近年、ペットとして買われていた外国の魚が、日本の河川に放たれていて日本の生物の生態系を脅かしているのだそうだ。その中でも多摩川は現在二〇〇種類の外来種が発見されているとか。外来種と言っても、その多くは熱帯魚である。――そして最近ついたあだ名が、タマゾン川。
「まあ、問題ないよ」とクジラは言った。
「問題ないんですか?」思わず聞き返してしまった。
「私の生活に影響は出てないからな」
「どうして?」
「川の生き物にもランクがある。生態系ピラミッドで例えれば、私は一番上にいる存在なんだよ」とクジラは自慢げに言って、「生態系の頂点に立つこの私に近づいてくるヤツなんて、外来種でもそうそういない。相手は魚類だし、私の餌みたいなもんだ」
「でも、獰猛なピラルクが突然襲ってくるかもしれない」とアキト。
「私のスピードについてこれる魚なんていない」とクジラ。
「随分逃げ腰なんですね」
「『逃げるが勝ち』って言葉は哺乳類共通語なんだよ。哺乳類サイコー!」
そう言って水面をぴょんぴょん飛び跳ねるクジラを見ながら、アキトは思った。
このクジラは妙に魚類を下に見ているみたいだが、もともと魚類が陸上に這い上がって進化したのが哺乳類だということを理解していないんじゃないだろうか? 魚が進化しなかったら人間もクジラも生まれなかったんだから、普通に感謝するべきだ。――ちょっとからかってやろう。
とりあえず「魚みたいですね」とアキトが言ったら、すぐに「私を奴らと一緒にするな!」というクジラの返答があり、顔面に水飛沫をかけられた。またからかったら制服も水浸しになりそうなのでこれ以上は言わないでおく。
「すいません。水面飛び跳ねるのがなんだか魚みたいで、つい」
「エリートを馬鹿にするとはまったくいい度胸だよ」クジラは心外そうに言った。
「タマゾン川は、もとの多摩川に戻ると思いますか?」また話題を変える。
「それは人間が勝手に起こした問題だし、私にはあまり関係ないことだが……」とクジラは続ける。「少し昔の多摩川はな、汚染がひどい川の代表格だったんだよ。その汚さは、この私を海へ追いやってしまうほどだった。でも、それでもなんとか綺麗な状態に戻った。自然界の生き物はみんな「奇跡だ」って言っている。
今の外来種問題も相当深刻みたいだが、「おさかなポスト」っていう違法放流の対策とか、川の外来種の駆除とか、人間はいろいろやっているみたいじゃないか。 多摩川が汚染されたのも、外来種が増えたのもすべて人間が勝手にやって起こした問題だが、昔も今も、しっかりその落としまいをつけようとしている。時間がまだかかるだろうが、多摩川はきっと元に戻ると思う。――『奇跡は起きるんじゃなくて、起こすもの』って、人間はよく言うだろう」
「それも、哺乳類共通語ですか?」なんとなく、訊いてみた。
「違うよ。これは私の好きな言葉だ」とクジラは言った。
「なるほど」プライドが高くて魚を見下してて人間と話ができて小さくて淡水でも生きられるこのクジラも、多摩川の問題をしっかり考えている。――それはまあ住処なんだから考えて当然だけど、僕たち人間はどうなんだろう。多摩川の問題について考えている人たちはまだ、――少ない気がする。
「あ」
いつの間にか空は黒ずんできていた。日が沈み始めている。相変わらず土手に歩いている人は少なく、河原には当然自分だけがいて、川の水面には小さなクジラが顔を出している。おかしな光景だとは思うが、不思議な体験をするのも悪くはないな、と思えてきた。――そろそろ、家に帰って夕食を作らないと。
「暗いのでもう帰ります」とアキト。
「そうか」とクジラ。
「なんだか質問攻めになっちゃいましたけど、ありがとうございました」
「別に。私も久しぶりに人間と話せて楽しかったよ」
「また会えますか?」
「多摩川にくれば、また会えるさ」
そう言ってクジラは、アキシマクジラは川へ潜って消えてしまった。
随分あっさりとした別れ方だったが、アキトはあまり寂しいとは思わなかった。それは両親が離婚してしまったという悲しい経験をしたからかもしれない。だけど、あのアキシマクジラにならまた会える。アキトはそんな気がした。
スクールバックを拾い上げ、川に踵を返す。
土手に続く階段に足をかけると、ふと新聞部に勧誘してきたコウセイの言葉が蘇った。「面白いスクープとかあったら持ってこいよ」そういえば、アキシマクジラは多摩川で生きていたとか、かなりのスクープになったんじゃないか? もしかしたら、新聞のトップを飾ることになったかもしれない。――少しもったいないことをしたかな。携帯は持ってきていたし、写真くらい撮っておけばよかった。
まあ、何にしても、動物好きのアキトにとってクジラと会話ができたことはラッキーだ。引っ越してきてそうそうこんな幸運な出来事が起きるとは思っていなかったので、この際、思い切って新聞部に入部してみるのも悪くないかもしれない。クジラに会ったのもネタになりそうだし。
「また会えたらいいなー」と呟いて、アキトは階段を上り始めた。
つまり何が言いたかったのかというと、「脱! タマゾン川!」ということです。きっとアキシマクジラくんも喜んでくれると思います。(いないけど)