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婚約破棄されたので仕事を全部放棄したら、王都のインフラが崩壊しました~私は優雅にスローライフすることにします~

作者: 林檎月
掲載日:2026/05/15

「お前のようなことあるごとにたて突いてくる女はもう要らん」


 部屋に通されるなり、婚約者ユリウス・エーベルハルト殿下はそう吐き捨てた。


 そして広い執務室の中央、暖炉の炎が揺れる橙色の光の中で殿下は見知らぬ女性を腕に抱き寄せる。濃紺のジャケットを着崩し、金糸の刺繍が施された袖口から覗く手が女の腰をぞんざいに引き寄せている。


 私——エリス・リーゼロッテは扉の前に立ったまま、その光景をしばらく眺めていた。


 殿下から呼び出しを受けたのは今日の昼前のこと。書類の山と格闘している最中に届いた使いの言葉は「殿下がお呼びです」の一言きりで、何の用件かも告げられなかった。まあ、いつものことだ。


「いいか?俺の婚約者に必要なのは、生意気であることじゃない。従順であることだ。俺を愛し、支え、慕うことだ」


 無茶苦茶言うな、この人。磨かれた金髪と形のいい顔立ちは確かに見目麗しいが、だからといって何を言っても許されると思っているのだろうか。


 だいたい彼が街でこの女性と逢瀬を重ねている間、私は山積みの書類を必死に片付けていたのだ。各部門の予算申請書、隣国との貿易収支の照合、王都インフラの老朽化報告書——本来であれば殿下が目を通すべき書類を、私が確認し、不備を修正し、時に自らのスキルを使って実地作業まで行っていた。

 それを指して従順ではないというのなら、世の中の働き手などほぼ全員が生意気ということになってしまうに違いない。


「そもそも、最初から相応しくなかったんだ。お前には俺と並ぶ程の華も気品も何もないじゃないか」


 薄ら笑いを浮かべながらそう言う殿下の隣で、女性が小首を傾けた。


「さすがに言い過ぎですわ〜殿下ぁ」


 甘ったるい声。豊満な胸を揺らし、上目遣いで殿下に訴えかけるその声は確かに愛らしいように思える。


 私の視線は自然と彼女へと向かう。桃色のウェーブがかった長い髪が肩に流れ、艶やかなリップが柔らかな笑みを形作っている。ハート型の耳飾りが揺れ、下がった目尻には男性が放っておけないような可愛らしさがあった。さらに胸元がはだけたドレスは彼女の豊かな体つきを惜しみなく強調している。

 翻って私はといえば、質素な濃灰色のドレスに、戦場のような職場で最低限に整えた化粧。目は生まれつき吊り上がっており、黙っていると睨んでいるように見えると昔から言われていた。


 確かに男ならば百人が百人、彼女を選ぶだろう。


「言い過ぎなものか。君に比べれば、全ての女が石ころ同然だ」


「ふふっ。ありがとうございますぅ」


 目の前で婚約者が浮気相手とじゃれ合っている。私は一体何を見せられているのだろう。


「要件をどうぞ、殿下」


 あまりにも見るに堪えず、私は話を促した。殿下はじゃれつきを邪魔されたのが不快だったのか、それとも私そのものが不快なのか、苛立ちをあらわにしながら吐き捨てる。


「お前は俺に相応しくない。婚約破棄だ。どこへなりとも好きに行くがいい」


 想像通りの言葉だった。動揺の余地など微塵もない。

 だけど、懸念がないといえば嘘になる。殿下が街で女性と乳繰り合っている間、私はひたすら書類仕事をこなしてきた。各部門の予算申請書の確認と修正、隣国との貿易収支の精査、王都インフラの老朽化への対応——その中でも特に心を砕いてきたのが、後者だった。


 私のスキルは「ゴーレム生成」。土から人形を作り出し、一つだけ命令を与えられる。荷を持ち上げろと命じれば持ち上げ、歩けと命じれば歩く。しかし与えられる命令はあくまで一つきりで、「荷を持ち上げて歩け」という複合した命令には応じられない。その制約ゆえに殿下からは「使えないスキル」と断じられていた。


 だが私は諦めなかった。ゴーレム同士を繋げれば、その制約を乗り越えられると気づいたのだ。荷を持ち上げるゴーレム、それを受け取るゴーレム、そして運ぶゴーレム——それぞれに一つずつ命令を与え、連携させることで複雑な作業が可能になる。道の舗装、橋の補修、下水道の修繕。この王都を陰で支えてきたのは、他でもないそのゴーレムたちだった。

 今この国は深刻な人手不足に陥っており、インフラ整備に人員を割く余裕などない。私が去ったら、誰がそれを継続するのか。その懸念だけが、未だに私の足をこの場留めていた。


「だがまあ俺も鬼じゃない。どうしてもというなら、最低限の衣食住は保証してやろう。これまで以上に働くならだがな」


 私の表情を見て婚約破棄を恐れていると勘違いしたのか、殿下は得意げな顔でそう言い添えた。


 これまで以上?一日十時間以上働かせておいて、まだ増やすというのか。冗談じゃない、そんな社畜人生など真っ平御免だ!

 ——と、喉元まで出かあかった言葉を、私はぐっと飲み込んだ。王都の人々のことが、やはり頭から離れない。


「……検討致します」


 殿下はその答えを強がりと受け取ったのか、意地悪く口の端を吊り上げる。


「明日までには答えを出せよ。まあ、返答は分かり切ってるがな」



 ♢



 城を出た私は、答えの出ないまま王都の街を歩いていた。

 夕暮れ前の空は茜色に染まりつつあり、煉瓦造りの街並みが暖色の光を帯びている。宝石商の店先には色とりどりの石が並んでいて、通りを行き交う人々は思い思いの会話に興じている。


 この街を守りたいという気持ちが全くのないかといえば、そうではない。それでも——

 王都の人々か、自身の人生か。


 きっとどこかの聖人ならば迷いなく選べるのだろう。少女漫画や少年漫画の主人公ならば、自分を犠牲にしてでも誰かを守ることを選ぶはず。でも私は普通の人間で、ここは現実だ。都合よく現れて全てを解決してくれるヒーローなど、どこにもいない。


 そんなことを考えているとふと、前世の記憶が頭をよぎる。

 私が前世で所属していた職場。あそこも今以上に地獄だった。上層部が炎上プロジェクトを次々と抱えてくるため、終電間近まで働くのが当たり前。新しい人が入ってくるわけもなく、同僚は一人また一人と消えていった。それでも私は抜けられなかった。自分が辞めたら残った人たちに迷惑がかかる。その一念で踏みとどまり続け、最後には過労で倒れてしまった。

 そして今、同じ問いを突き付けられている。他人か、自分か。


 普通の人間ならば、葛藤しながらも自分を選べるのだろう。しかしブラック企業に骨の髄まで染められた私は、この世界に転生してもなお、答えを出せずにいた。


「はぁ」


 溜息とともに歩を進めていると、路地の入り口で言い争いをしている二人組が目に入った。片方は豪奢な衣装に身を包んだ小太りの男——貴族だろう。もう片方はぼろぼろの服を着た、痩せこけた平民の男。


「そんな汚らしい格好でこの街を出歩くなど、貴族に対する侮辱にほかならぬわ!」


 貴族の男が平民を蹴りつけている。平民の男は額を石畳にこすりつけ、低い呻き声を上げながらじっと耐えていた。


 聖人君主ではないけれど、さすがにこの光景は見ていられない。私は二人の間に割り込むように立ちふさがった。


「その辺でお辞めください」


 煩わしそうにこちらを見る貴族の男。


「なんだ貴様。儂に逆らうというのか」


 自分より頭一つ分は背の高い男に思い切り睨まれても、私の心は不思議と穏やかだった。なぜなら、これまで殿下や前世の鬼上司に比べればこの程度の圧はまだ可愛いものだからだ。

 それに少なくとも、今の私の行動に何ら恥ずべきものはない。堂々と胸を張っていればいいのだ。


「弱きを挫き、自らの心を癒す。それがこの街に相応しい行動なのですか?」


 瞬間、男の顔が真っ赤になった。鼻息が荒くなり、血走った目がこちらを射る。


「貴様、名は」


「エリス・リーゼロッテです」


「……っ!公爵家……!!」


 男は苦虫を噛み潰したような顔で黙り込み、キッとこちらを一度だけ鋭く睨んだ。それから大きく舌打ちをして、踵を返し去っていく。


 ふう、と私は息を吐く。なんとか収まってよかった。鬼上司や殿下が相手ならこうはいかない。仕事を押し付けた上に少しでも遅れると嫌味の雨が降ってくるのだから、舌打ちで引き下がるあの男はまだ扱いやすい部類だ。


「大丈夫ですか?」


 虐げられていた平民の男に手を伸ばす。お金の余裕はあるし、途中で回復薬でも買ってあげよう。

 そう思った矢先、男は伸ばした手を振り払った。そして舌打ちをして、そのまま足早に去っていく。


 私はしばらく、茫然と宙に伸ばしたままの自分の手を見つめる。


 ……今、何が起きたのだろう。

 間に入って騒動を止めたのに。助けようとしたのに。拒絶されてしまった。何かしてしまったのだろうか?何か気に障ってしまったのだろうか?

 ぐるぐると思考を回す。しかし……分からない。


 私は小さく息を吐く。

 しょうがない。考えても答えは出ないし、それに出たところで何になるという話でもある。だからこういう時は酒を飲むに限る。それだけが確かな真実だ。


 私はさっそく近くの酒場に入り、カウンター席に腰を落ち着けた。焼いた鶏肉と黒パンをかじりながら、エールを一気に流し込む。そのままの勢いで二杯目を頼み、酔いが頭の隅を温め始めた頃、今日一日の出来事が走馬灯のように浮かんでは消えた。


 きっと、あの平民の男の人は自分のことで精一杯だったのだ。貴族に踏みにじられ、プライドも体も傷ついていた。他人に礼を言う余裕など、残っていなかったのかもしれない。

 殿下だってそうだ。自分の欲求と体裁しか頭にない。隣の貴族の男も、私の前世の上司も——みんな自分のことしか考えていなかった。


 だったら。

 だったら私だって、自分のことを優先させていいはずだ。自分だけの幸福を選んだって、誰に文句を言われる筋合いもない。

 王都の人々も殿下も知ったことか。自分たちのことは自分たちでやればいい。もう知らない。私はこれから、私のためだけに生きる。前世でできなかったこと、今世でも我慢してきたこと——全部、今こそ取り返してやる。


 そうして三杯目を飲み干した頃には、心が不思議と軽くなっていた。



 ♢



 翌朝。

 私は迷いなく殿下の私室へ向かった。ノックをして、返事も待たずに扉を開ける。

 目に飛び込んできたのは、半裸の殿下と、同じく薄着の昨日の女性だった。殿下は慌ててズボンに足を突っ込み、上半身は裸のまま現れる。


 昨日私があんな思いをさせられた夜に、この二人はベッドで惰眠と情事を楽しんでいたのか。

 胸の奥でかすかな怒りが灯るのを感じたが、大きく息を吸って鎮めた。この人に怒るだけ無駄だ。


「いきなり扉を開くとは、これだから礼儀知らずの女は」


 乱れた金髪をかき上げながら、殿下が煩わしそうに言う。


「それは失礼致しました。婚約破棄の翌日から、さっそくいちゃついていらっしゃるとは思わなかったもので」


 殿下が一瞬、苦虫を噛み潰したような顔をした。

 皮肉に聞こえたかもしれないが、これは純然たる事実だ。女を捨てた翌夜に別の女を連れ込むとは、私もさすがに想像もしてなかった。まあ皮肉を一切込めていないかと問われれば、それも嘘になるけれど。


「俺が誰を連れ込もうと、勝手だろう」


「そうですね。まったくもって殿下の御勝手です。なぜなら、私と殿下にはもう何の関係もございませんから」


 きっぱりと言い切った私を見て、殿下の表情が得意げな色に変わった。何がそんなに嬉しいのか、私には理解できない。


「はっ。少しは可愛いところがあるじゃないか。相変わらず生意気面ではあるが、まあ愛嬌は認めてやる。妻とはいかんが、側仕えくらいにはしてやってもいいぞ」


 鼻を鳴らし、上から目線で言い放つ殿下。どうやら私の仏頂面を嫉妬と受け取ったらしく、自分が引き留めてやると思っているようだ。まったくこういうところが、本当にこの人らしい。


 私は深く息を吐いて、言い切る。


「お断りします」


 すると、殿下の顔が歪んだ。


「なんだと」 


 そんな殿下の顔を真っすぐに見据え、大きく胸を張りながら私は言う。


「お断りだと、そう申しました。昨日の殿下のご提案も、本日のご提案も、全てお断りです。私と殿下はもう何の関係もないのですから、殿下もどうぞお好きになさってください。私もそうさせていただきます」


 言い終わった瞬間、殿下の顔がみるみる赤く染まっていった。こめかみに血管が浮き、唇が細かく震えている。


「何をお怒りになっているのですか?私が相応しくないとおっしゃったのは殿下ご自身でしょう。ならば私が出ていくことなど、百利あって一害もないはずですが」


 怒りたいのはこちらの方だ。一方的に婚約を破棄した上に、これからもこき使うと宣言するとはどういう神経か。もっと早くに、こう言うべきだった。


「それでは」


 くるりと背を向け、出口へ向かう。何か言いたいのに自分の言葉に縛られて口が開けない——そんな殿下の気配が背中越しに伝わってきた。

 プライドが高くて、業突張りで、それ故最後には自分の首を絞めることになる。本当に、最後までこの人らしい。


 扉に手をかけたところで、私は思い出したように付け加えた。


「そうそう。各部門の予算申請、隣国との貿易収支、王都のインフラ整備状況から人材の手配まで、これからは殿下ご自身でなさってくださいませ」


「ま、まてっ——」


 慌てた殿下の声が聞こえた直後、どたりという間の抜けた音が響いた。どうやらズボンが上手く穿けていなかったらしく、床に転がったらしい。

 私は振り返り、そんな元婚約者を静かに見下ろして言い放つ。


「さようなら、殿下」


 石床に這いつくばったまま、憤怒と屈辱の入り混じった表情でこちらを睨む殿下を尻目に、私は王城の廊下へ踏み出した。

 城を出る寸前、この王都の事務を司る人々に「エリス様がいなければインフラを初め、この国の重要機関が崩壊してしまいます!」と泣きつかれたが時すでに遅し。


 私はもう絶対に働かない。働いてやるものか!というか文句なら私を追放した殿下に言ってほしい。



 ♢



 ああ、気持ちがいい。

 胸の中で長らく燻っていた何かが、一気に晴れていくような感覚。理不尽を押しつけてきた者たちに正面からぶつかって、言い負かして。前世と今世を合わせて、これほど清々しい瞬間はなかった。

 床に転がった殿下のあの悔しそうな顔は、きっとしばらく記憶に焼き付いて離れないだろう。これからは私が肩代わりしてきた仕事を全部自分でやる羽目になるのだ。ざまあみろ!ああ。前世でも、あの鬼上司に辞表を叩き付けてやればよかった。


 そんなことを考えながら歩いていると、正門を抜けた先あたりで思わず足を止める。

 空を見上げると——雲一つない、晴天の青空が広がっていたのだ。


 初夏の陽光が王都の街並みに降り注ぎ、煉瓦屋根が白く輝いている。木々の葉が風にそよぎ、どこかで鳥が鳴いていた。まるで世界全体が、この瞬間を祝福しているかのよう。


 私はもう、自由なのだ。

 誰にも縛られず、業務にも縛られず。前世でも今世でも、これほど自分に正直に生きられた日はなかった。もう絶対に働かない。これまで一生分以上働いてきたのだから、これからは思う存分ぐうたら過ごしてやる!絶対に!


 青空に向かって、私はそう静かに宣言したのだった。



 ♢



 山の中は静かだ。王都の喧騒が嘘のように、風が木々を揺らす音と鳥のさえずりだけが世界を満たしている。


 私——エリス・リーゼロッテは今日も今日とて、ゴーレムが運んできた木の実を口に放り込みながら、ベッドの上に大の字になっていた。

 そして静かに天井に張り付いた木目を眺める。節の形が、どこか怒った老人の顔に見えなくもない。そんなことを考えながら、私はゆっくりと息を吐いた。


 なんと素晴らしい朝か。いや、もう昼か。……どっちでもいいか。


 王都を出て、二週間と少し。国境からほど近い、山に囲まれたこの辺鄙な土地が私の領地だ。

 三年ほど前に書類仕事の合間にある貴族の粉飾を発見し、それを国王に密告したのがきっかけとなり、芋づる式に官僚まで巻き込む大騒動へと発展。最終的には国家予算の何割かが横流しされていたという事実まで露見したのだった。そしてその一連の事件の端緒を開いたとして、国王陛下がわざわざ褒賞にくださったのがこの領地であった。


 最初は「こんな山奥に領地を持っても仕方がない」と思っていたが、どうしてどうして。存外、役に立つものだ。


 スキル〈ゴーレム作成〉で木材を調達し、資材を組んであっという間に小さなロッジを建てる。後はベッドと椅子と机を作り、食材の採取はゴーレムに任せる。高度な動作——たとえば動物を狩るような——はゴーレムには荷が重いので、果物や野草がほとんどだが、肉は王都からの道中に仕入れた分がまだある。しばらくは保つだろう。


 こうして私は、誰にも命令されず、誰にも期待されず、誰にも急かされない生活を手に入れたのだった。


 あの一分刻みで鳴り響くアラームも、積み上がる書類の山も、己の感情を押し殺して貼り付けていた愛想笑いも、もう必要ない。好きな時に眠り、好きな時に食べ、好きな時に本を読む。人間として最も根源的な自由を、私はようやく取り戻したのだ。


 ……しかし往々にして、そういう時にこそ事件は起きる。


 問題が生じたのは、そんなニート生活が軌道に乗ってきた頃のこと。充実している。本当に充実している。それは嘘ではない。だが、薄らと、しかし確実に、何かがじわじわと私の内側を侵食し始めていた。


 このままでいいのか、という感覚だ。

 社会の役に立ちたいとは思わない。あの重圧の中へ戻りたいとも、一切思わない。ただ、昼まで寝て食べて本を読みまた寝る。その繰り返しの中に身を置いていると、人間としての何か大切な部分が少しずつ擦り減っていくような、そんな落ち着かない気分が拭えなかった。


 何かやらないと。生産的なことか、今すべきことか、今必要なことか。

 部屋の中をぐるぐると歩き回りながら考える。散歩でもしようか。いや、運動か。詩を書くというのも悪くないかもしれないけど、今じゃない気がする。どうにも腑に落ちないまま視線を彷徨わせると、ふと棚の上にある肉の残りに目が止まった。


 道中で仕入れた肉。そういえば、あと一週間ほどで尽きてしまう。その後はどうする? ゴーレムに採らせた野草と果物だけでは、正直心もとない。


 武器、いや——罠を作ろう。

 動物を仕留める罠を作れば、定期的に肉を確保できる。そう思い至った瞬間、私は勢いよくロッジを飛び出していた。


 初夏の山の空気が肌を包む。ロッジの周囲には背の高い針葉樹が並び、木漏れ日が地面にまだらな模様を作っていた。どこか遠くで小川が流れる音がする。思った以上に爽やかで、思わず深く息を吸い込んだ。


 その瞬間、頭の中で警報が炸裂する。


 ガー!ガー!ガー!ガー!ガー!


 領地の境界に配置した侵入者検知ゴーレムからの信号だ。しかも一つや二つではない。複数のゴーレムが同時に反応している。


 誰かが、この領に踏み込んできたのだ。


 私は急いでロッジへ戻ろうと踵を返し、扉の取っ手へ手を伸ばす——その瞬間、首筋に冷たい感触が走った。


 金属の、硬い感触。


 背後にいることは分かるのに、接近されるまで気配すら感じなかった。それだけで相手がただ者ではないことが分かり、心臓が跳ね上がる。そのままゆっくりと視線を落とすと、自分の首筋にナイフの刃が添えられているのが見えた。


 誰!? なぜ!? どうして!?

 疑問が泡のように湧き上がっては弾ける。同時に、死という二文字が脳裏に大きく浮かぶ。


 嫌だ。こんなところで終わりたくない。ただ働いて、婚約を破棄されて、やっと自分の時間を取り戻したというのに。心に向き合うことすらできないまま、こんな山の中で——。


 鼓動が早い。呼吸が浅くなる。落ち着け、落ち着け、落ち着け。


 もし殺すつもりなら、こうして会話する間もなく終わっていたはずだ。そうしなかったということは、何らかの要求があるはず。まず、それを聞かなければ話にならない。


 そうしてなんとか私が呼吸を整えていると、背後の影がゆっくりと口を開いた。


「……名前は」


 少しあどけなさの残る、しかし透き通った低い声。もしかしたら、思っていたよりもずっと若いのかもしれない。


「エリス・リーゼロッテです」


 短い沈黙。背後で、少年がわずかに息を呑む気配がする。警戒を解くには至らない。けれど、次の言葉を選びかねているような、そんな間だった。


「……ここは」


「エーベルハルト王国の東端です」


 その答えを聞いた瞬間、背後の気配がわずかに変わった。少年が発した「そうか」という呟きには安堵に似た色があり、緊張がほんの少し緩んだような気がした。


 殺意が、薄れた。根拠はないが、確かにそう感じた。


 やがて少年は、私の喉元へ突きつけていたナイフをゆっくりと引いた。そこでようやく、私は振り返る。

 深く被ったフード。体格を覆い隠す暗色の外套。その姿は物語に出てくる暗殺者そのものだった。けれど、その奥から覗く顔はあまりにも若い。

 十四か、十五ほどだろうか。鋭い眼差しには強い警戒が宿っている。見ているこちらの胸まで詰まりそうになるほど、全身が張り詰めていた。

 しかし——その奥に、怯えにも似た色が微かに揺れている気がした。


 少年は真っ直ぐに私を見据え、短く告げる。


「取引だ。あんたの身は僕が守ってやる。その代わり、ここに置いて欲しい」


 静かな声。威圧でもない。懇願でもない。ただ、その言葉の奥には何かが滲んでいた——追い詰められた者だけが持つ、切実さのようなものが。


 この子の事情も経歴も何も知らない。なぜここへ来たのかも、何から逃げているのかも。この子はきっと私の想像も及ばないような日々を、この年でくぐり抜けてきたのだろう。

 誰かのために生きるのはもう沢山だ。それでも目の前でこの少年が発した言葉の重さを、見なかったことにはできない。頼ってきた人を見捨てるほど、恥知らずにはなりたくない。


「いいですよ」


 震えそうになる声を押さえ込みながら、私は微笑む。


「ベッドくらいしかないですけど、好きなだけいて下さい」


 すると少年の表情が、一瞬だけ変わった。きょとんと目を丸くした、拍子抜けしたような顔。そんな言葉を向けられるとは思っていなかった——そんな顔。

 やがてそれは、小さな笑みに変わった。年相応の、あどけない微笑み。けれど、それは一瞬で消えてしまった。

 そして次の瞬間には、もう何事もなかったかのように無表情へ戻っている。少年は何も言わず、私の横を通り過ぎてロッジの中へ入っていった。


 残された私は、その背中を見送りながら小さく息を吐く。

 あの一瞬見えた笑顔が、妙に頭に残る。ちゃんと、あんな顔もできるのか。それだけで少し、胸の中が軽くなった気がした。


 それにしても、この子はいったいどこから来たのだろう。なぜ、よりによってこんな山奥のロッジに辿り着いたのだろう。……分からないことばかりだ。

 けれど、無理に聞き出す必要はない。話したくなれば、そのうち自分から話すだろう。

 そんな根拠のない楽観を抱きながら、私もロッジの中へ戻る。


 中に入ると少年は私のベッドの上で丸くなり、すやすやと眠っていた。美少年と言って余りある容姿に、白銀の紙が乱れている。


 ここにいていいとは言った。言ったが、さっそく人のベッドを占領するとは、なかなか良い度胸をしている。少年の豪胆さに呆れながらも、その寝顔を眺めているうちにまた気づいたことがあった。


 彼の右眉の上には切り傷のようなものが抉るように刻まれており、薄い服越しにも分かるほど体が無駄なく鍛え上げられていたのだ。細いのに、研ぎ澄まされた刃物みたいな筋肉の付き方をしている。 

 日本であれば、高校に入ったばかりか、あるいはまだ中学生の年頃。本来ならば何の憂いもなく、ただ日々を謳歌していておかしくない。それが、どんな日々を生きればあれほどの殺気を纏うようになるのだろう。

 そんなことを考えていると、胸の奥が鈍く痛んだ。


 私はそっと毛布を少年の肩に掛ける。

 これからどうなるかは分からない。この子が何者で、何を背負っているのかも。でも少なくとも、この場所にいる間は——できる限りのことをしてあげよう。それが、大人としての最低限の責務だ。


 こうして、婚約を破棄された公爵令嬢と、元暗殺者の少年の奇妙な同居生活が始まったのだった。



 ♢



 一方王都では、静かに、しかし確実に異変が広がり始めていた。


「ユリウス様! 大変です、住民からの苦情がまた……!」


「今度はなんだ!」


 怒鳴り返したユリウスの机には、すでに書類が山のように積み上がっていた。要望書。被害報告。抗議文。緊急申請。


 終わらない。いくら処理しても減らない。


 ここ数日まともに眠れていないのか、彼の目は血走り、整っていた金髪も今は乱雑に崩れていた。

 役人が辞めたのは今月だけで十人。執務室の空気には、もはや余裕の欠片もない。


 ――どうなっているんだ。これまで王都は問題なく回っていたはずだ。苦情など滅多になかった。なのになぜ、エリスがいなくなった途端こんなことに――。


 脳裏に浮かんだ考えを、ユリウスは即座に打ち消す。

 ありえない。あいつは無能だった。スキルも地味で、態度ばかり生意気で、いつもこちらに意見してきて――。


 そんな女が、自分以上の才覚を持っていたなど。認められるはずがなかった。


「地下水路に異常が発生しています! 王都南部を中心に断水被害が拡大中です!」


「修理部隊を向かわせろ!」


「そ、それが……人員が足りません!」


「なら探せ! そんなことまで俺に言わせるな!」


 ユリウスは苛立ちを隠そうともせず怒鳴り散らす。役人は顔を青くしたまま頭を下げ、慌てて部屋を飛び出していった。


 それから数週間。ユリウスは変わらず机の上の書類と格闘していたが次の瞬間、前回とは異なる役人が半ば転がるように執務室へ駆け込んできた。


「ユリウス様、大変です!」


「今度はなんだ!」


「水路修復のため警備兵を大量に動員した結果、各区域の治安維持が追いついておりません! 既に暴動や略奪が発生しています!」


「……は?」


「負傷者は数十人規模に達するかと! このままでは内乱に発展する可能性も――!」


 内乱。その言葉を聞いた瞬間、ユリウスの思考が止まった。


 王都で。国の中心で。なぜそんなことが起きる?


 彼の喉がひくりと鳴る。背筋を、ぞわりと冷たいものが這った。


 国が崩れる。百年続いた王国が。自分の代で。自分の判断で。崩壊する――?

 ……なぜだ。なぜこんなことになった!自分の指示が悪かったのか?役人たちが無能だったのか?それとも――エリスを追放したから。


 そこまで考えた瞬間、ユリウスは椅子を蹴るように立ち上がっていた。気づけば、足は自然と彼女の部屋へ向かっていた。

 乱れた呼吸のまま扉を開け放つ。だが。そこには誰もいない。綺麗に片付けられた室内。冷え切った空気。人の気配すら残っていない部屋。

 そこでようやく、ユリウスは理解する。彼女は本当にいなくなったのだと。


「なんで……こんなことに……」


 掠れた声が零れる。支えを失ったように、ユリウスはその場に膝をついた。



 ♢



 その後、隣国視察から帰還した現国王が迅速に事態収拾へ乗り出したことで、王都の混乱は辛うじて鎮静化した。

 しかし責任を問われたユリウス王子は、王家から追放。さらには婚約者にも見限られ、彼女は早々に婚約を破棄して実家へ戻っていった。

 こうしてユリウスは、地位も、名誉も、恋人も失った。かつて自分が不要だと切り捨てた令嬢と同じように。ただ一人、王都に取り残されたのだった。



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