魔法使いでもシゴデキ令嬢でもない、とあるメイドがいなくなったあと
「アン、君は今月限りでクビだ。荷物をまとめて出ていきたまえ」
執事長のその言葉に、アンは目を瞬いた。
十二歳のときからもう十年、アンはこの伯爵邸で、主に雑用をこなすメイドとして働いてきた。
「今月末は明日ですから随分急ですが…理由をお伺いしても?」
「”雑用係の仕事など、魔道具にもできる”という旦那様のご意向だ。魔導掃除機や魔導洗濯機や…最近の魔道具は高性能だからな」
「…そうですね」
「雑用メイドを減らし、代わりに華やかな魔法を使えるメイドや名門大学を卒業した秘書を雇う方針でいらっしゃるんだ」
執事長はわざとらしく、ふっと息を吐いた。
「私だって心苦しいよ。ただ…何かしら特殊な技能があれば、庇いだてもしてやれたんだが…」
アンは家人やお客様をあっと言わせるような魔法も使えなければ、伯爵家に莫大な利益をもたらすような商才ももたない。
「ただコツコツと手と足を動かすしかできない…歯車のひとつにしかなれないようなメイドでは、な」
執事長の隣にいるのは、新たに雇い入れられるメイドと秘書なのだろう。アンを見て「魔道具に淘汰されるなんて、才能のない人は本当にお気の毒」「やっぱり学歴がないと」とクスクス笑っている。
「時代の流れだ。悪く思わないでくれ」
アンは「承知いたしました」と答え、深く頭を下げるしかなかった。才能も学歴ももたない者は、優秀な人間にとって代わられてしまうのは当然だ。
「誰にでもできるようなこと」しか、できないのだから。
「貧しい家に生まれ十分な教育も受けられず、十二歳から働くしかなく、何の才能もない自分が悪いのだ」と、アンは理解した。
「ノートを置いていきます。旦那様やお屋敷の癖についてまとめてありますので…」
「そんなものは必要ない。私が何年ここで働いていると思っているんだ。ゴミ箱に捨てておけ」
アンはそれも「かしこまりました」と静かに受け止め、彼女の十年間を焼却炉に持っていく。
「十年…」
ほんの少しためらってから、ノートを火の中に投げ入れた。
「でもここにはもういらないもの…私もこれも」
諦めと、ほんの少しの虚しさ、そしてカバンひとつだけを持って、アンは伯爵家を出た。
◆
アンが去って一週間が過ぎたころ。
伯爵家の当主は、言いようのない不快感に襲われていた。
「…おい、この茶はどうなっている。熱すぎて舌を火傷したぞ!」
「申し訳ございません、旦那様! すぐに淹れ直します!」
「魔法を使える」という話で高い給金を得ているメイドが慌てて淹れ直した茶は、今度はひどくぬるく、味も出ていない。
アンがいた頃は、彼が茶を欲するタイミングで、飲みたい温度の茶が飲みたい味で出てきていた。彼はそれを、「誰でもできる当たり前のこと」だと思っていた。
アンが気候に合わせて茶葉の開き方や湯の温度まで調節しているとは、知る由もなかった。
「これではただの水だ!魔法で美味い茶を淹れられるのではないのか!」
叱責されたメイドは、キッチンで愚痴をこぼす。
「こんな安物の茶葉で、どうやって美味しいお茶を淹れろっていうのよ。ケチ」
それに何だか、思考も捗らない。茶があまりにまずくて、イライラしているからだろうか。
「いや、それだけではないな」
伯爵は考え事をするときに鉛筆を噛む癖があるのだが、その鉛筆の噛み心地がイマイチなのだ。
アンが一本一本指で鉛筆の硬さを確かめ、伯爵の好む鉛筆を選りすぐっていたこともまた、彼は知る由もない。
「この耳障りな音もイライラする!」
執務室のドアがギイギイと嫌な音を立てている。油を差しても、音は収まらない。
アンが油と蜜蝋を混ぜて、毎日欠かさずこの偏屈な蝶番の機嫌を取ってやっていたことなど、屋敷の誰も知らなかった。
さらには、大切な商談の日。
伯爵邸に泊まった取引相手が、烈火のごとく怒りながら伯爵に迫った。
「いつも寝室に置いてあった雑誌と、爪用のクリームと、私の好きな菓子がないのだが!それにスリッパもふわふわすぎる!私はもっと薄いものが好きなんだ!」
アンが取引相手の好みを把握し、完璧な準備をしていたことなど、誰も知らない。
名門大学を卒業して商才に長けているという秘書は、ただおろおろと謝るしかできなかった。
「はん、何が名門大学出身だ!相手のことを知るという、人間関係の基本もできないで!」
叱責された秘書は「最初からうまくできるわけないだろ。誰も引き継ぎしてくれなかったんだし」と悔しそうにこぼす。
「俺は何も悪くない」
魔導掃除機が掃除すると、床に落ちてしまった高価なイヤリングまでもゴミとして吸い込まれてしまう一方で、廊下の隅には埃が残る。
魔導洗濯機が洗濯してもシミはきちんと落ちず、パリッとした素材のシーツにはやけに皺がつく。
クローゼットはカビ臭くなり、外壁はもろもろと剥がれ落ち、屋根からは雨漏りが起こる。
使用人たちは責任を押し付け合って喧嘩を始め、執事長の仕事は増えていく。
「アン…なのか?」
伯爵家の面々は「すべてが完璧に整っていた世界」が、実は一人の女の手と足によって維持されていたことに、ようやく気づき始めた。
「そんなはずない。だって…」
彼女はただのメイドだった。「誰にでもできるようなこと」しかできないメイド。
しかし彼女がやっていたのは、「誰にでもできるけれど、誰もやらないこと」。
伯爵家が捨てたのは、一人のメイドではない。
十年の歳月をかけてコツコツと磨き上げられてきた、完璧な日常だった。
◆
さらに三ヶ月後。
伯爵家は機能不全に陥っていた。
大きな取引は打ち切られ、魔道具の維持費は高く、使用人たちはヒステリックな主人に愛想を尽かして辞めていく。
そして伯爵の命令通りにアンを追い出した執事長は、今になって「なぜあんな有能なメイドをクビにした」と叱責されていた。必死になってアンを探しても、一向に見つからない。
「せめて彼女のノートさえあれば…」
そう思って今さら屋敷中のゴミ箱を漁り、焼却炉を覗き込む。そして黒焦げになったノートのリングを握りしめて、唇を噛んだ。
◆
そのころ、とある子爵家の屋敷で、アンはまたメイドとして働いていた。
伯爵家にいたときと同じように、手と足をコツコツと動かして、家人と建物の世話をする。ただそれだけの日々。
けれどここには…
「アン、いつもありがとう。アンが来てくれてからお茶が美味しくなった気がする。それだけで毎日とても気分がいいよ」
「ありがとうございます、旦那様」
「あらアンさん!あのソースのシミを消してしまったの?どうやるのか、私にも教えてちょうだいな」
「もちろんです」
アンと同じように細かいことに気づき、感謝してくれたり褒めてくれたりする人がいる。
「私が悪かったのではなく、場所が悪かったのだ」と、アンはようやく気がついた。




